愛のかけら

大きな目が、挑むように見上げている。

真っ赤な目も真っ赤に染まった口元も、白い肌を引き立てるようで美しい。
猛烈な痛みを訴える自分の腕をそのままに、オレはほれぼれしてしまう。

「美味しい?」

血に濡れた口元を味わうようにゆっくりと舐め、飛影は首を振る。

「…不味い」

手加減なく噛み付かれた右手首は大きく裂け、白い長椅子にぼたぼたと血を落とし続けている。
人間の手首には大きな血管がある。それは半妖のこの体とて同じことだ。人間の体なら命が危なくなるほどの血を流したが、そのほとんどは飛影の腹の中に納まった。

毛繕いをする猫のように、飛影は自分の体に飛び散った血を舐め、いかにも不味そうに嫌な顔をする。

「飛影、お前は人を食う種類の妖怪じゃないだろう?」
「違う。知っているだろうが」

片付けてもいいか?という意味を込めて、オレは血を流し続ける自分の腕を指す。
もうどうでもいいと言わんばかりに、飛影はつまらなそうに頷く。

部屋の片隅の大きな木箱から薬草の入った袋を取り出し、桶に水を汲んでくる。手早く右手首を止血し、いつもは飛影のために用意してある包帯で薬草ごと巻いて、我ながら器用に結んだ。

「お揃いだね」

包帯が巻かれ、どくどく脈打つ右腕を掲げてオレは笑ってみせたが、飛影は無言の視線を返す。

「どういうことか、聞いてもいいのかな」

飛影の手を取り、赤く染まった長椅子から立ち上がらせ、ベッドへ座らせる。
血塗れのタンクトップを脱がせ、手当ての時に用意しておいた濡らした布で、血に汚れたままの顔を拭ってやる。

「どういう、とは?」
「急に人を食うことに目覚めたとか?」

そんなことがあるわけがないだろう。
小馬鹿にしたように、飛影は鼻で笑う。

「人を食うやつらは生まれつきだ。途中で食い物の嗜好が変わるなど聞いたことがない。そんなことも貴様は知らんのか」

もちろん、何千年も生きた狐はそんなことは知っている。
目の前の赤子に説教されるまでもない。

「別にオレは、人間なんぞ食いたくない」
「そもそも、お前には無理だろう?」

たった一口だけ噛り取った肉。飛影は顔をしかめ即座に肉片を吐き出し、傷口から血だけを啜った。
だが、生あたたかくしょっぱいその味も、お気には召さなかったらしい。

「無理だ。不味すぎる」

そう言うと、飛影はぽふっとベッドにひっくり返り、シーツの上で目を閉じる。

「飛影?」
「…他に思いつかなかっただけだ」

目を開けて、座ったままのオレを見上げ、飛影は言う。
何を?と促すオレを無視し、飛影はまた目を閉じる。

急かすようなことは、オレはしない。
長い時を生きてきたのだから。今さら急ぐことなど何もない。

豊かな森に囲まれた、気に入りの隠れ家。
夜風が木々を揺らす心地よい音だけが、窓越しに部屋に響く。

ようやく目を開けた飛影が、片ひじをついて体を起こし、オレをじっと見つめる。
形のいい唇が、言葉を紡ぐ。

「蔵馬。お前とずっと一緒にいるには、どうしたらいい?」
***
お前とずっと一緒にいるには、どうしたらいい。

その問いかけに、すぐには言葉を返せない。
視線を合わせるために同じように横になり、傷めていない左腕で、同じように肘をついた。

「ずっと一緒に、いるじゃないですか」
「今まで一緒にいただけだ。ずっとじゃない」

何千年も生きたこのオレに、まるで頭の悪い子供に説明しているかのように、飛影は言う。
落ちてきた長い髪を背にはらい、赤い目を見つめ返す。

「今まで一緒にいた。これからも一緒にいる」
「嘘をつくな」

小さく吐き捨て、飛影は睨む。

「お前がオレと、ずっと一緒にいるはずがない」
「なぜ?」

手を伸ばし、白い頬に触れる。

一体何度、この体に触れたことだろう。
この体の中も外も、全部触れた。
小さな体を優しく、時に乱暴に開き、何度繋がったことだろう。

何度、愛してると囁いたことだろう。

「オレはお前を愛してるよ、飛影。お前は?」
「………意味が、わからん」
「お前もオレを愛してるから、ずっと一緒にいたい。そうじゃないのか?」
「あいしてない」

オレはお前のことを、あいしてなんかいない。
ただ、ずっと一緒にいたいだけだ。
永遠に、一緒に。

それを愛と呼ぶのではないか。
オレがそう言ったところで、多分この子供は納得しない。理解しようともしない。

「だが、お前を殺しても、オレのものにはならない」

お前を殺したら、お前は腐って溶けて消えてなくなる。
でも、お前を食えば。

「お前はオレの一部になる。オレの中に、お前はいつでもいる」

夢見るようなその響き。

うっとりとした声音に、オレは重たい荷物をしっかり抱え直すような気持ちになる。

思い浮かべるのは、大きくて透明な球体だ。
誰も知らない唯一無二の宝石でできていて、驚くほど透明で、驚くほど綺麗で、驚くほど重い。

なのに、もし落っことせば、一瞬で粉々に割れてしまうことをオレは知っている。

重くて、持ちにくくて、けれど絶対に落とすことも壊すことも無くすこともしたくない、大事な大事な荷物。
痛みを訴える右腕をのばし、短い黒髪を撫でる。

「飛影」
「人間なんぞ食いたくない。お前を食いたかっただけだ。でも、お前は不味いな」

ため息まじりの言葉。
出会った時から少しも変わらない幼い顔を曇らせてそんなことを言う姿。
小さな体を抱き寄せ、砂と風のような匂いがする短い髪に顔を埋める。

「ずっと一緒にいるよ」
「嘘だ」
「何をどうしたら、信じてもらえるのかな」
「何をどうしても、お前なんか信じない」

きっぱりと飛影は言う。子供らしい、白黒はっきりしたその答え。
オレの長い髪を引き、顔を近づけ、真正面から睨みつけてくる。

「オレはお前を愛して…」
「あいとは、なんだ?」

またもや、オレは返事を返せない。
他の誰かが同じ問いを投げかけたのなら、哲学的だね、と笑って煙に巻いただろう。

愛について説明するとして、何が正しいのだろうか。
散々愛を囁いておいて、愛が何であるかを説明できない。

例えば、妹に対する飛影の気持ちは、愛ではあるが、愛とは違う。
見返りは求めない。共にいることも求めない。愛を返して欲しいとは微塵も思っていない。
ただ生きて幸せでいてくれさえすれば、彼女がどこで誰といるのであろうと、飛影は気にも留めないだろう。

それはオレの想いとは違う、と心の中で呟く。
ふと、窓の外の、今は黒い影にしか見えない木々を眺める。

愛を説明できないのは、なぜだ?
オレは誰かを愛したことなど、本当にあっただろうか。

飛影に対する思いを並べてみる。
手に入れたい。そばにいたい。誰にも渡したくない。小さな体が軋むほど抱いて、そしてそれに応えて欲しい。
誰か他の者のそばにいることを選ぶなど許さない。他の誰かに抱かれることも許さない。他の者を選ぶなら…。

「…殺す」

それははたして、愛だろうか。
愛とはそういうものだろうか。

「殺す?何の話だ?」

オレを食おうとしておいて、オレを食うこととオレを殺すことは、彼の中では同じことにはならないらしい。
疼く手首を忘れ、目の前の生き物の頬を包む。
白い頬の拭き残した血を、指先でこする。

今夜もいつものように、唇を重ね、長椅子に押し倒したところだった。
急に手首に噛み付かれ、この夜は始まった。

「飛影」

素直に上げたその顔に、オレは唇を落とす。
唇を割り、やわらかな舌を追い、絡めあう。

「…ん…くら…っ」
「探そうよ、飛影」

口づけだけでとろりとした目で、円を描くように胸を撫でる手を止めることもせず、飛影はぽかんとオレを見つめる。

見つかないものは、探すしかない。
一人では見つけられないそれを、一緒に探せる相手を幸運にも見つけたのなら。

「何を…さが…」
「愛」

両の乳首をきゅっとつまみ、のけ反った喉に吸い付くように味わう。

「…っ!…あい…?…っさが、うあ…おま…、っなに…言っ」
「お前となら、見つけられる気がする」
「ば…か…や、っあ!」

手早くベルトを外し、ズボンを引き抜く。
白い足を大きく広げ、体の小ささに相応しい控えめなそれを、オレは指先でこねてやる。

「う、あ、っく……ら、んああ!」
「…何千年も生きてきたのに」

そうだ。飛影がオレを信じられないのも無理はない。
何千年も生きて、数え切れない誰かと交わったのに、それでもオレは見つけることができなかった。

きっと、探してすらいなかった。

通り過ぎて行った誰かと、通り過ぎてきた誰か。
愛には変わらなかった、誰かと何か。

「…あっ」

手の中で育てたものが、あたたかい液体をどろっと飛ばす。
怒ったようにオレの肩を突く飛影に覆いかぶさり、飛影の出したものを、尻の奥の狭い穴に塗り付ける。

差し込んだ指が、ぎゅっと締め付けられる。
入り口を解し、奥を探ると、飛影の両足がびくりと痙攣する。

ただそれだけで、触りもしていない自分のものが硬くなるのがわかる。
慣らし足りないことはわかっているが、今夜は待ち切れない。

指を抜き、すっかり勃ち上がった先端を押し付け、きつくまるい輪を広げ、熱い体内にゆっくり押し込んだ。

「…っく、つっ、う、あ、ああああ!うあ!っく、ら…あ、ひっ、あ!」

狭い筒。濡れた粘膜。
繋がった場所が、溶けてくっついてしまうんじゃないかと思うくらい、熱い。

溶けて、くっついて、離れられなくなる。
それもいいなと思える。
飛影となら。

「……蔵馬…っああ、あ、くら…ま…」

オレを呼ぶ声。紅潮する頬。
何よりも、雪のような皮膚の下で燃え上がる、その魂。

「蔵馬…くらま…っあ、あ、く、う、ああっ!!」
「見つけ…られる。飛影、オレとお前なら。必ず」

ああ、そうか。
これは求婚だ。

何千年も生きて、こんな幼い物の怪を、オレは跪かんばかりに求めている。
どうかオレと生きてくれと、オレを愛してくれと、請うている。

「…っ、飛影」
「っあ、うあ、あ、あ、あっ!……く、ら…蔵馬…」

大きく腰を揺らし、音を立てて抜き差しを繰り返す。
激しい突き上げに、息も絶え絶えといった風情でオレを呼ぶ声がする。

オレと永遠に一緒にいるためにオレを食うと言ったこの物の怪が、大きな目を潤ませて、唇を上げて、笑った。

「…いい、ぜ……くら、ま…一緒に…」

あいとやらを、探すんだろう?
オレとお前で。

「探して…やるさ。お前となら…どこへ…で……ん」

残りの言葉は、オレの口の中に吸い込まれた。
飛影の唇ごと返事を飲み込み、オレは喉を鳴らす。

「……くら…ま…」

潤む飛影の目元に、濡れて光る唇に、愛のかけらがきらめいている。
飛影の目にも、オレのかけらが同じように光って見えたらいい。

きらめくかけらをこぼさぬよう、落とさぬよう。
誰にも拾われないように。誰にも奪われないように。

舌先で丁寧にかけらを拾い、深く繋がった。


...End.



2019年11月17日。
蔵飛結婚式に捧げて。

実和子