桜もうここへは二度と来ない。そう決めたはずなのに。 薄い唇を噛み、飛影は夜空を見上げた。 ***
人里離れた山奥。月明かりに照らされ、たった一本だけで凛と立つ、桜。 花をつける木など見当たらない山の中で、それはまるで絵のようだった。 さくさくと軽い音を立て、影が木に歩み寄る。 大木の根元に静かに座ると、小さな体を木にあずける。 赤く大きな瞳が、ゆるゆると閉ざされた。 ***
「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」蔵馬はあの日、そっと囁いた。 「なんだそれは」 「人間界のね、有名な小説に出てくる言葉」 二人の夜空には、桜があった。 「そうでなければ、桜があれほど美しく咲くはずがない、ってことなんだ」 「くだらん。作り話だろうが」 「そうですね」 でも見て、飛影。 確かに屍体が埋まっていてもおかしくないくらい、桜って綺麗じゃないですか? 桜の花を背にして、花のように蔵馬は笑んだ。 しぶしぶながらも確かに綺麗なものだと認めた飛影だったが、来年も見に来ようという蔵馬の言葉は、すげなく断った。夜も更けた時間だというのに、桜を眺める人間の流れは絶えなかったからだ。 ***
「あなたのためだけの、桜ですよ」十日ほどして現れた蔵馬に半ば無理やり連れて来られた山で、飛影は目を見張った。 色のない山奥。 たった一本の桜は、圧倒的な力で、それは見事に咲き誇っていた。 「街の桜はもう散っちゃう時期なんですけどね。ここはまだ寒いから植えるにはちょうどよかった」 桜に魅入られていた飛影が、ハッと瞬く。 「…わざわざ?オレに見せるためにか?お前は」 馬鹿かと続けようとした飛影だったが、蔵馬の顔に、見たことのない感情がよぎるのを見て、口をつぐんだ。 「あなたのために。いつか…」 いつか、オレが死んだ後も見に来てくださいね。 少しおどけて、軽口をたたくように蔵馬は続けた。 「こんな山奥ですから。飛影が見に来てくれなかったら」 誰も見てくれる人がいなくなってしまう。 だから、あなたは毎年、あなただけが、この桜を。 「…見に来てくださいね」 ひらりと舞った桜の花びらが、蔵馬の長い髪を飾った。 ***
あの日から、いったいどれだけの時が経ったのだろう。巨樹に体をあずけたまま、飛影は記憶をたどる。 人間として生きた蔵馬が、人間としても早すぎる死を迎えて、いったい何年経ったのだろうかと。 果たす義理もない約束を果たしに、毎年ここを訪れるのはなぜなのだろうと、自問自答しながら。 幼いままの物の怪が、うっすらと目を開ける。 映るのは視界を覆う、花。 まるで飛影を待っていたかのように咲き誇る、白く冷たい、本当に冷たい花。 包帯に覆われた右手で、さくりと土をすくう。 「……桜の樹の下には…屍体が埋まっている」 小さな、呟き。 小さな手が、ぎゅっと土を握りしめた。 「お前がここに…埋まっているのなら」 もし、ここに。 飛影は考える。 …ここに埋まっているのが蔵馬ならば、 オレはきっと掘り返すだろう。 全部全部掘り返して、この山を丸ごと掘り返して、お前を取り戻すだろう。 「…馬鹿馬鹿しい」 乾いてひび割れた薄い唇が紡ぎ出す、その言葉を聞く者はいない。 本当は、飛影にもわかっていることだ。 蔵馬は、きちんと人間として葬られた。人間としての、墓もある。 欲しいのは、石の下にある骨などではない。 「馬鹿馬鹿しい…ことだな…」 日にち薬。 その言葉を飛影に教えたのは、誰だっただろうか。 どんなに辛いことも悲しいことも、時が全て癒してくれる、確かそんな意味だった。 舞い落ちる花びらを手のひらに受け、飛影は小さく苦く、笑う。 胸にある痛みは、過去の痛みではない。 喪失の痛みは、失ったあの日と同じくらい鮮烈に、今も飛影の胸にある。 今ならば、蔵馬がこの花を遺した意味が、飛影にもわかっていた。 ずっとずっと側にあると思い込んでいたために、失ってしまった、その想い。 無意識に土を掘り返す右手は、すっかり汚れていた。 「……蔵馬」 桜はいっそうざわめき、花を降らせる。 黒い衣を白く染めるように、あとからあとから、舞い落ちる。 「蔵馬……お前に」 花を散らす風に、かき消されそうな言葉。 切り刻まれた心からこぼれた、決して叶えられない願い。 「…お前に……もう一度、会いたい」 叶わぬ願いを、桜が白く冷たく見下ろした。 ...End. |