18.故郷

「あの石を、私に一つください。蔵馬さん」

久しぶりの和装の雪菜は、硬く厳しい表情をしていた。
***
氷河に戻らねば。

そう雪菜は言った。

「どうして…?桑原くんや静流さんは知ってるの?」

蔵馬のマンションのリビングの照明はやわらかで、雪菜の和服の冷たい白さが異様に見えた。

「魔界に用があるとだけ。適当にごまかしました」
「氷河に何をしに?まさか帰るつもりじゃないよね?」

まあ座ってよ、と蔵馬は椅子を勧め、お茶を淹れた。

「まさか。ちょっとした里帰りですよ」
「別にオレに嘘をつかなくてもいいよ。誰にも言わない」
「厄介事ですよ。母の親友が…そうね、気が狂ったとでも言うのかしら?」
「…気が狂った?」
「ええ。…そうね、あなたにはお話ししておこうかしら」

紅茶のカップを見つめ、雪菜はゆっくり話し始めた。
***
私の…、いえ、私たちの。
私と兄の母であった氷女が兄を産んだ事で死んだのはもちろんご存知でしょう?

よく考えたら母はずいぶんと無責任な女だったんですわね。

だってそうでしょう?
自分は愛した男との子供を、命と引き換えに身篭って満足だったかもしれない。

でもその子供は幸せかしら?

忌み子は必ず捨てられる。
この場合の捨てられるは、殺されると同義語。

おまけに、その忌み子を捨てるのは…殺すのは…自分じゃない。

遺された者なのに。

兄は運良く生きのびた。

そして今は蔵馬さん、あなたという人を手に入れて、生きている。
…今までの人生を埋め合わせるくらい、兄はあなたを愛している。
同じくらいあなたが兄を愛してくれてるといいんだけど。

話が脱線してごめんなさい。

そうそう、遺された者の話でしたね。

兄を氷河から投げたのは、母の親友だった人でした。

名前は、泪。
彼女はやさしい人でした。

長老たちにさえ捕まらなければ、もっと力のある人だったら、あの人は兄を連れて逃げたかも。

氷女は本来やさしくない…あなたもそれは知っているでしょう?

なのに彼女はやさしかった。
私のこともまるで自分の娘のように慈しんでくれた。

やさしい者は往々にして、やさしさ故に不幸になる。

彼女は兄を忘れられないでいました。
自分が殺した赤ん坊を。

死なせてしまった後悔と、悲しみと…もしかしたら生きているかもしれないという希望…それが、段々彼女を狂わせていった。
身勝手な女の、身勝手な行為のために。

愛という感情に身を任せた、私たちの母のために。

***
雪菜はカチャリとカップを置いた。

「私が氷河を出た事もまた彼女を苦しめてしまった。私が氷河を出る前から…彼女は狂い始めていたんです。時折氷河を抜け出し、兄を探すようになっていた。もちろん、あっという間に連れ戻されてましたが」
「そう…。君はよく連れ戻されなかったね、雪菜ちゃん」
「理由は、あなたにはわかっているはず」

そう言うと、雪菜は右手の手の平を上に向けた。

そこから小さな風がおこり、青い炎が立った。
髪がふわりと舞い上がり、青い炎が蒼い瞳を輝かせる。

辺りに強く冷たい、妖気がぶわりと満ちる。

ジュワ、と音を立てて、その炎を雪菜は握りつぶした。

氷女たちとは対極にあるはずの、炎の技。
彼女の手の平には、火傷の跡すらない。

「…驚いたな。君が普通の氷女たちとは比べ物にならない妖力があるのはわかっていたけど…炎も使えるとはね」
「見せたのは、あなたが初めてよ、蔵馬さん」
「…綺麗だね。飛影の炎とはまた違う」
「訂正。見せて、今生きているのはあなたが初めてよ」
「…こわいなあ」

蔵馬は苦笑する。

「私は強いわ。とてもね。父の血は私にも流れたのですもの」
「そうだね…君はとても強い」
「そして、私はやさしい氷女ではないわ。けれども泪さんには恩がある」

使い魔が知らせてきたの。
泪さんがまた氷河を抜け出したんだけど、どうやら今度は見つからないらしくて。
とんでもない妖怪に捕まってしまう前に見つけなきゃ。

「行かなくちゃ。そして、兄が生きている事を教えてあげたいの。そうしなければ彼女は永遠に狂ってしまう」
「だから、飛影の造った氷泪石がいるんだね」
「ええ。本当は兄に会わせてあげたいけど、無理でしょう?でもあの紅い氷泪石を見せれば、信じてくれると思うの」
「そうかな…大丈夫?」
「ええ。なんとかします。…私、あなたが思っている以上に強いのよ、なのに…」

雪菜は暗い窓の外を眺めた。

「兄は私を探すために邪眼を付けた。そんな必要なかったのに。そして兄は、あなたを愛しているわ…兄は本当に母に似ている」

氷と炎、どちらをも司る妖怪がちょっと寂しそうに微笑んだ。

「…本当は、私こそが忌み子なのかもしれない」

石を、ください。
もう行かなければ。

そう言って立ち上った雪菜に、意外な言葉がかけられた。

「どうせなら…石じゃなく、本人を会わせてあげたほうがいいんじゃないかな?」
***
「なんだと…」

低くうなるような声。

「帰れ。オレがそんな事を引き受けるとでも思ったのか貴様は」

百足の飛影の自室。
パトロールから帰ってみれば待ちかまえていた蔵馬にとんでもない話を持ちかけられた。

「いいじゃない。雪菜ちゃんはオレか君にお兄さんの役を頼みたいんだって」
「なら、貴様が行け!」
「オレ、半分人間だし。妖狐じゃあ種族違うのバレバレだし。雪菜ちゃんが言うにはお兄さんは赤い眼だったらしいよ。泪さんから聞いたんだって。オレは赤い眼じゃないもの。飛影、ちょうどいいじゃない」
「馬鹿か貴様は!オレが本人なんだから赤い眼に決まってるだろう!雪菜にバレたらどうする!」
「バレないって~。雪菜ちゃん結構鈍いもん」

狐は白々と嘘をつく。

「断る。お前が行ってやれ。その泪とかいう女を助けてやればいいんだろう?」
「自分が捨てた赤ん坊が生きてたと確証できなきゃその人にとっては意味ないよ。また探しに出るだろうし」
「知るか!オレはその女になんの義理もない!」
「あーそう?まあ雪菜ちゃんにとってその泪さんって人は恩人なんだって。何度でも助けに行くだろうなあ…。氷女を狙うやつはいっぱいいるからね…危ない目に合わなきゃいいけど…」
「…貴様…!」

手練手管。
しょせん飛影が蔵馬に口で敵うはずがないのだ。
***
「ごめんなさい、飛影さん。こんなこと頼んでしまって」
「…別に、いい。さっさと片付けるぞ」

雪菜が魔界に戻って一週間。
蔵馬の協力もあって、泪はようやく見つかった。

「…この先の、湖だったな」
「ええ。蔵馬さんの入手した情報では」
「あいつはなぜ一緒に来なかったんだ?」
「いろいろお忙しいみたいで…」

チッ、と飛影は舌打ちをすると湖に向かう道を雪菜と急いだ。
***
幸いにも泪は誰にも捕まってはいなかった。

浅い湖の中ほどに、濡れた姿で佇む女は異様な風情だった。

長い髪は乱れ、目はあらぬ物を見ている。

狂人だ。
一目見て飛影はそう思った。

「泪さん!」

湖に飛び込んできた雪菜に、女はゆっくりと振り向いた。

「雪菜…?雪菜!来てくれたのね!ねえ、ここにあの子がいたのよ!」
「え…?ここって、この湖に?」

月明かりを映す水面は、二人の女の影だけをゆらめかせている。

「いたのよ!本当に!あの瞳…赤い眼…沈んでいたの!」

早く助けてあげなきゃ溺れちゃう。
そう言って女は必死で水の中を探す。

「ねえ、手伝って!今度こそ助けてあげなきゃ!早くしなきゃ…あの子が死んじゃう!氷菜になんて言えばいいの!」

雪菜は透明の水を見遣る。
水中には何もない。

魚も、植物も、石の影すらない。
さらさらとした白い砂があるばかりだ。

「泪さん…」

半狂乱で水中を探す女を雪菜は抱きしめた。
岸で凍りついている飛影に、雪菜は縋るような視線を向けた。
***
この女のことは覚えていた。

真っ先に私を殺しに来て、そう言ってオレを落とした女だ。

だが…

髪を振り乱し、水中を探る姿は完全に狂人だった。
美しかったであろうその顔は、長年の苦しみや悲しみが醜い影を落としている。

別に、この女を狂わせたかったわけじゃない。
飛影がそう考えた瞬間、雪菜の縋るような視線が向けられた。

おねがい、きて、ここに。

声に出さずに唇の動きだけで、雪菜は伝えた。

もう二度と氷河にも、妹以外の氷女にも関わるつもりはなかったのに。
飛影は小さく溜め息をつくと、冷たい水に足を入れた。

パシャ、という水音に、狂った女が顔を上げる。
その瞳には、狂気の炎が宿っていた。
***
蔵馬の部屋にあった、アルバム、とかいう物を飛影は思い出す。

写真。
過去を記憶する、もの。

ああいう物が魔界にもあれば、オレを身篭った馬鹿な女の顔や、今オレを抱きしめているこの狂った女の、狂う前の姿を見れただろうか?

飛影はそうぼんやりと考えながら、冷たい腕に抱かれていた。

「ね、泪さん。私は兄さんを見つけたわ。だから泪さんは何も心配することはないのよ」

泪は言葉にならない嗚咽を漏らす。

「兄さんも、私も、幸せよ。私たちには愛してくれる人がいるの。ね、兄さん?」
「…ああ」

だから…

雪菜はそっと、小さな何かを、手の中に握っていた。

「…だから、もう氷河へは戻らない」

そう言うと、後ろから抱きしめ、小さな薬をそっと泪の唇に滑らせた。
***
「…いいのか?」

眠れる狂人は、雪菜の与えた…蔵馬から貰ってきていた…薬の効力で、もう雪菜のことさえ覚えてはいない。
氷河へと通じる小さな結界の中に寝かせた体は、雪菜の呟いた呪文とともにかき消えた。

「…本当に、いいのか?」
「ええ。ありがとうございます。私の兄の役だなんて、とんだ事に付き合わせちゃってごめんなさいね、飛影さん」
「……構わん」
「泪さんたら、飛影さんのことほんとに兄だと思ってた。似ているのかしら…」
「それだけ狂っていたんだろう」

にべもなく、飛影は言う。
内心ヒヤヒヤしながら。

「そうですね。でも、これで大丈夫。私や兄の事に心煩わされずに泪さんは生きて行けるわ」

寂しげな笑みに、飛影は思わず声をかけた。

「それで、良かったのか?」
「ええ…まだ兄には会わせてあげられないもの。私が探し出す前に泪さんはきっと…狂い死にしていたわ」
「まだ…兄とやらを探しているのか?無駄な事だな」
「そうですね…でも、願わくば…」
「…願わくば?」
「生きて、そして、母に似ていない人でありますように」
「…なぜだ?」

雪菜は微笑んで、空を見上げる。
厚い雲に覆われた氷の国が、遥か彼方に見える。

「母のように、誰かを愛して、愛しすぎて、求めて、溺れて、…愛のせいで死ぬ事がないように」

蒼い瞳が、真っ直ぐに飛影を見る。
何もかもを見透かすような氷の瞳に射すくめられて、声が出ない。

湖を抜ける風が、水面をさざめかす。

「飛影ー!雪菜ちゃーん!」

聞き慣れたやわらかな蔵馬の声に、飛影は我に返る。

迎えに来たよ。帰ろう。二人とも。
雪菜ににこにこと話しかける蔵馬を、飛影は見つめた。
視線に気付いたのか、こちらを振り返り笑いかける碧の瞳。

誰かを愛して、
愛しすぎて、
求めて、
溺れて、
…愛のせいで死ぬ事がないように。

飛影は視線をそらし、穏やかな水面を見つめる。

見た事のない女の顔が、ふいに見えた気がした。


...End