蜜と罰岩場に打ち寄せる波は荒く冷たかったが、それを感じるゆとりは飛影にはすでにない。痛み、という言葉では表現し切れない激痛に顔を歪め、焼け焦げ腫れ上がった腕を押さえ、脂汗を流しているのだから。 けれども。 飛影をよく知る者がその表情を見たのなら、ほんの少し違和感を覚えるだろう。 右腕を切断するよりもなお激しい痛み。耐え切れない苦痛。きつく噛んだ唇の間からは、こらえ切れない呻きが漏れる。 なのに、彼は。 時折、ほんの一瞬、笑みにも似た表情が、苦悶の中によぎるのだ。 それは自嘲めいたものではなく、どちらかといえば安堵に近い。 こうなることを望んでいたかのような、ほっとしたかのような、その表情。 一際高い波しぶきが、小さな体を隠した。 ***
ホテルの清潔な部屋に、血と汗のにおいが広がる。蔵馬は肩をすくめ、薬を溶かした水を用意した。 食われかけた腕に根本的な治療などない。 せいぜい洗い流し、火傷の薬でも塗り、包帯で覆ってやるくらいだ。 「大丈夫ですか?」 ベッドに横になり腕を投げ出している飛影に、無意味な質問が投げかけられる。 蔵馬とて、大丈夫ではないことぐらいはわかっているが、手持ちぶさたで呟いたにすぎない。 真っ黒になった腕を、蔵馬は丁寧に洗う。 水音の合間に、薄い唇から熱い吐息がこぼれる。 「……っ」 「声出しても、隣には聞こえませんよ。ここ案外防音もしっかりしてるし」 薄荷のようなにおいのする軟膏を腕にそっと塗り込みながら、蔵馬は言う。 真っ白な包帯を巻き付け、端を止めてやる。 「はい。良く我慢できました」 「…子供扱いするな」 「これぐらいしかできなくて悪いな」 「言っておくが、オレは頼んでないからな」 睨む赤い瞳に、蔵馬はにこっと笑う。 水の入った洗面器や薬瓶を足元に置くと、汗で額に張り付いた、短い黒髪に触れる。 「汗びっしょり。シャワーは無理だろうけど、体拭いてあげるよ」 「構うな」 言葉とは裏腹に、飛影は逃げるそぶりもない。 ベッドに座った蔵馬に抱き上げられ、大人しく膝の上に座らされるままになっている。 ヘッドボードに置いておいた濡れたタオルを手に取ると、丁寧に蔵馬は飛影の体を拭き始める。 まずは顔。首筋、背、肩、わき、胸と、右腕に触らぬよう、手早く器用に拭き清める。 「これ、脱がしてもいい?」 腹まで拭いた手が、黒いズボンをつまむ。 蔵馬を見つめたまま、飛影は小さく頷く。 元々白い肌の、服に覆われた部分はさらに白い。 平らな下腹、綺麗に筋肉の付いた両脚、子供のような陰部が蛍光灯の光の下にさらされる。 両脚をつま先まで綺麗に拭き取ると、蔵馬はタオルを裏返し、わざとらしいほどゆっくりと、陰部を拭く。 奥まったやわらかな器官や、薄暗い場所まで広げられ、濡れたタオルが行き来する。 「………ん、う」 「飛影」 用を終えたタオルを床へ放ると、蔵馬は裸の体を組み敷いた。 相変わらず右腕を気遣いながら、そっと覆い被さり、白い顔のあちこちにキスを落とす。 待っていたと言わんばかりに応える飛影は、動かせる左腕だけで長い髪ごと蔵馬の頭を引き寄せた。 互いの舌を貪っていたのはほんの一分ほどだった。 身を離した蔵馬は、ため息をつく。 「ごめん。今夜はやめといた方がいいね」 不満そうな顔をしかけた飛影だったが、自分でも今は無理だとわかっているらしく、髪に絡めた指を外す。 白いシーツの上でもなお白い体を、蔵馬の目の前にさらしたままで。 「食事は無理そうだったから、果物だけ用意しておいたんですよ」 それと飲み物ありますから。少し何か食べた方がいい。 クローゼットから取り出したホテルの備品とおぼしきパジャマを飛影に着せながら、蔵馬は言う。 壊れ物を扱うようにそっと、パジャマに右腕を通す、蔵馬の長い指。 「…飛影」 「なんだ」 そっと持ち上げた右手に、蔵馬は包帯の上から唇を落とす。 その些細な動作にさえ電撃のように走った痛みに、飛影の顔が歪む。 「どうして、こんなことをした?大事な利き腕なのに」 「…言わせたいのか?そうしなけりゃ、勝てなかったからだ」 「……そうかな?」 大きな瞳が、面食らったように瞬く。 「何だと…」 「ここまでしなくても…未完成の技なんか使わなくたって、なんとか勝てたんじゃないか?」 小さく口を開けた飛影だったが、その口は無言のまま閉ざされる。 左手だけで蔵馬を力なく押しのけると、再びベッドに横たわった。 寝室の隣は、そう広くはないがリビングのようになっており、ソファやテーブル、小さな冷蔵庫もあった。 一口大に切った果物の皿と、水の入ったグラスを持ってきた蔵馬は、食べるよう促すと、洗面器やタオルを片付け始めた。 「食べて。薬も飲まないと」 「薬?」 「痛み止め」 「いらん」 「飲まないと眠れないと思いますよ」 「飲まん」 「でも…」 「いらん!」 横たわったまま、眉を寄せ、飛影は目を閉じる。 こうなったら、頑として薬は飲まないだろう。 「一応、置いておきますよ。二錠とも飲んでください」 サイドテーブルの皿のそばに薬を置き、汚れたタオルや服を洗面器に積み上げ、蔵馬は苦笑する。 「ただの痛み止めなのに。あ、それとも」 ドアに手をかけ、蔵馬は振り返る。 「それとも…痛いのが、好きとか?」 「…馬鹿か。そんな奴いるわけがない」 ですよねー。じゃあオレこれを洗ってくるから。 幽助たちの様子も見てこなきゃだし、ちょっと寄る所もあるから遅くなるかも。食べたら先に寝ててくださいね。 返事もしなかった飛影だが、ドアが閉ざされた途端、むくりと起き上がり、ぼんやりと窓の方を向く。 外は暗く、窓ガラスは鏡のように、室内を映す。 右腕はだらんと垂らしたまま、左手、ホテルの備品の大きすぎるパジャマの袖から出ている指先で、唇に触れる。 ついさっき、蔵馬の唇が触れていたそこを、指先がおさえる。 リズミカルにぱたぱたと下唇を打つ、指先。 ぴたっと、指が止まる。 始めたのと同じように唐突にそれをやめると、飛影はベッドに立てかけられていた、愛用の剣を取る。 利き手ではない左手の動きは少々たどたどしかったが、鞘から剣を引き抜いた。 人工的な明かりの下でも、剣は硬く光る。 厚い包帯と、薄いパジャマ。 布に覆われた右腕に剣を当てると、ぎゅっと目を閉じ、飛影はすっと剣を引いた。 厚いドアで隔てられた廊下に、悲鳴は微かに響いた。 ***
「あなたって、本当に目が離せない人だな」洗い上げた服を手に戻ってきた蔵馬は、真っ赤に染まったベッドにうつ伏せる飛影を叱り、慌ててもう一度洗面器と薬瓶、包帯を並べた。 血に濡れた飛影の愛用の剣は、絨毯に血をまき散らし、ベッドの下に転がっている。 止血のためにわきを強く縛り上げる。 深い傷ではないとはいえ、わざわざ傷んだ腕を切った飛影は、二度目の治療に今度こそ悲鳴を上げた。 「ああぁぁぁぁあ!!」 「どういうつもりなんだ?」 「うあ…っああ!!」 「どうしてこんなことを?説明する気もないってわけか?」 先ほどよりは幾分乱暴な手当てを終えた腕に、再び包帯が巻かれる。 目を潤ませ肩で息をしている飛影だったが、蔵馬の問いに返事はない。 「飛影?」 答えようとしない相手に苛立った声を上げた蔵馬だったが、唇をきゅっと引き結び青ざめた顔に、またため息をつき、飛影をベッドからそっと立たせた。 「ほら、こっち」 汚れたベッドから立たせると、自分のベッドへ座らせ、自分のぶんのパジャマを着せてやる。 「さ、寝ましょう」 「…用があるんじゃなかったのか?」 「キャンセル。あなたを一人にしておいたら危なくてしょうがないよ」 部屋の電気を消し、枕元の小さな明かりだけを灯すと、蔵馬は飛影を横にし、自分も隣に滑り込む。 「蔵馬?」 「何?」 「どうしてオレに……構う?」 すでに目を閉じていた蔵馬は、びっくりしたように目を開ける。 「あなたが欠けたら、うちのチームに優勝の可能性はないんですよ?」 引っ張り上げたシーツと毛布を、右腕に当たらぬよう、蔵馬は飛影の胸までかけてやる。ベッドはシングルだったが、小柄な飛影とならば、広さにさほど問題はない。 「それにね、何度も言ったでしょう?オレ、結構あなたのこと好きですよ」 そうでなきゃあなたを抱いたりしませんよ。 あなたもご存知の通り、オレもてるんでね。相手には困ってないんだ。 しれっと言うと、蔵馬は枕元の明かりも消す。 「ああそうだ。あなたのせいで今夜の相手はすっぽかしたんだから。ひとつくらい、言うこと聞いてくれますよね?」 返事は待たずに、サイドテーブルから取った手製の錠剤を、蔵馬は飛影の口に押し込む。顔をしかめながらも飲み込むのを確認し、唇から手を離すと、暗がりの中で蔵馬は微笑む。 「おやすみ。飛影」 ***
月明かりなどなくとも、妖怪の目に真っ暗闇というものはない。腕の痛みに目を覚ました飛影は、見慣れぬ白い天井を見つめる。 痛い。 腕が…痛い。 蔵馬に飲まされた痛み止めの効き目はまだ残っているようだったが、それにしても痛みはひどかった。 汗で体に張り付いたパジャマを引っぱると、よじれた布が右腕まで引っぱった。 激痛に上下の歯が激しく合わさり、飛影はあやうく舌を噛みそうになる。 「……ぅ」 痛みに喘ぎながら、首を横にし、目の前で眠る男をじっと見つめる。 大きな赤い瞳で、食い入るように見つめる。 規則正しい、呼吸。 長い睫毛、綺麗な鼻筋、形のいい唇。 整った顔に、長い髪が一筋被さっている。 飛影が呼びかければ、きっと蔵馬は起きるだろう。 起きて、パジャマを着替えさせ、また薬を飲ませるだろう。 多分、キスのひとつやふたつと、一緒に。 形のいい唇から、飛影は視線を引きはがす。 天井に視線を戻し、大きく息を吐く。 そんなことをしては、だめだ。 痛みと眠気の狭間をとろとろしながら、飛影は考える。 そんなことをしては、だめだ。今夜はだめだ。 キスしたりされたりすれば、今晩もう一度この腕を痛めつけなければならない。 とてもじゃないがそれには耐えられそうにない。想像するだけで、どっと汗が噴き出す。 今夜はだめだ。 ……今日はもう、罰は受けたくない。 不自由な体では寝返りを打つこともままならず、飛影はぐたりとベッドに沈んだ。 ***
蜜を口にすれば、罰を与えられる。その蜜が甘ければ甘いほど、罰もまた、大きなものになる。 一体いつ、誰が自分に囁いた言葉なのか、飛影はもう思い出せない。 自分を拾った盗賊たちの誰かの言葉だったのか、それとも自ら作り出した言葉なのか。 今となっては、誰の言葉であったのかはもうどうでもいいことだった。 蜜と罰。 蜜を受け取るのならば、罰も同じだけ受け取らなければならない。 幼い頃に刻み込まれたそれは、飛影の中ではすでに“確固たるもの”だった。 眠れぬまま、気づくと飛影は蔵馬を見つめている。 出会ったその日から好きだった男。 今、隣で眠っている男。 …自分を抱いた男。 試合前のげん担ぎに、どう? ふざけた誘いではあったが、性交は上手く、とても丁寧なものだった。 今まで飛影が体験したそれとは全然違う、とても気持ちのいいもの。 強い者が自分より力の劣る者を蹂躙し征服するための性交ではない、甘く濃い時間。 どろどろの蜜のように、甘いそれ。 とはいえ、過去に自分を無理矢理犯した奴らを恨んでいるわけでもなんでもない。 蔵馬を見つめたまま、飛影は過去に思いを馳せる。 あの時の自分はたまたま力で相手に劣っていた。それだけのことだ。そんなことは魔界では何ほどのこともない。いわばただの日常だ。痛い目をみたくないのなら、強くなるしかない。 けれど、蔵馬のそれは。 髪を撫でられたり、唇を合わせたり。 あたたかい手が体中を這い回り、あたたかい舌で体中を舐め回されたり。 受け入れる穴が裂けて痛い思いをしないよう、いい匂いのする油を絡めた指で、しつこいくらいに揉み解された。 あたたかい他人の肉が、自分の体内に入り込む、あの感覚。 自分では触れたことすらない場所を掻き回される、快感。 おまけに、蔵馬は何度も囁いた。 好き。 好きだよ、飛影。 会った時から、こうしたかった。 思い出すだけで、飛影は幸福感に満たされる。一瞬、腕の痛みも忘れるほどに。 右腕のことを忘れ、寝返りを打とうとした途端、激痛に引き戻される。 「…っぅ」 痛みに歪んだ顔だったが、その顔はすぐに、薄い笑みを浮かべる。 ほっとしたような、笑み。 「……痛い」 口の中で消えてしまうような、小さな呟き。隣で眠る蔵馬は、それに気づく気配もない。 シーツの中から引っぱりだした左手で、飛影は右腕をそっとなぞる。 罰を受けたその体を、愛しむように。 ***
「関係ないでしょう?オレたちのことなんだから」人間には読めない言葉で書かれた分厚い本を閉じ、蔵馬は幽助を見上げ、微笑む。 頭が良くて、穏やかで、誠実で。 幽助がそう思っていた男は、皮肉な笑みを浮かべている。 意地の悪そうな、笑み。 こんな顔をする男だったろうかと、幽助は面食らう。 「誰から聞いたんですか?」 お前ごときが気づいたはずもない、という意を含んだ、その小馬鹿にした言い方。 むっとした幽助だったが、仲間の顔を思い出し、握った拳を開く。 「桑原の、ねーちゃんから」 「…なるほど。彼女は鋭いね、確かに」 幽助の手元からタバコの箱を取ると、蔵馬は一本くわえ、ホテルのマッチで火をつける。 ソファに座り、優雅に足を組む。 「じゃあ、本当なのか?」 「何が?飛影とセックスしてるってこと?」 赤くなった幽助に、蔵馬はタバコの煙を吹きかける。 きっかけは、静流の言葉だった。 幽助と桑原の部屋に集まり、酒を飲んだり、トランプをしてみたり。 そんな合宿じみた空気の中で、ふと、その場にはいなかった蔵馬の話になったのだ。 「あんなに綺麗な男の人って、いるのね」 螢子の言葉に、ぼたんと温子はうんうんと頷き、静流は何も言わない。 「びっくりしちゃった。蔵馬さんに比べたら幽助なんか化け物みたい」 「誰が化けもんだコラァ!あっちは妖怪なんだからあっちが化けもんだろうが!!」 「まーまー。男は見た目じゃない!! 心だろ!」 「顔が良くて心も綺麗なら、なおいいやね」 「ぼたん!」 「あたしもどうせならあんな綺麗な息子が欲しかった!」 「ってこら、ババア!!」 「おや?静流さん静かだねえ?」 無言のままの静流に、ぼたんが尋ねる。 なんでもないよ、と笑い、窓辺に置いた灰皿に静流は向かう。 部屋は禁煙ではないが、吸わない者のためにタバコを吸う時は窓辺で、というようなルールがなんとなくできていた。 「悪りぃ、一本くんね?」 同じように窓辺へ来た幽助の人なつっこい笑顔に、静流はタバコを差し出す。 ほんの少ししか開かない窓を開け、二人はタバコをくゆらせる。 「…顔が綺麗だろうが何だろうが、あたしなら、誰とでも寝る男なんて嫌だな」 へ?と間の抜けた顔する幽助に、静流は肩をすくめる。 「誰とでも?」 「何度か、このホテルで他の部屋に出入りするの、見たよ」 タバコを指に挟んだまま、ぽかっと口を開けている幽助に、静流は苦く笑う。 まだ大騒ぎをしている部屋の中央をちらっと見やると、静流はタバコを灰皿に押し付けた。 「…え?え?他の部屋に入ったからって…なんか用でもあったとか…」 「毎回違う部屋に?…それにさ、何の用かわからないほど、あたしは若くないよ」 二本目のタバコに、静流は火をつける。 幽助は短くなるタバコにも気づかずにいた。 誰とでも?蔵馬が? そういうのはよくない、ような気もするが、注意する筋合いもないし、注意すべきことなのかもわからない。 誰か一人にしろ、などと言うのも変な話だ。 幽助の沈黙に、静流はごめん、と笑う。 「ごめん、そんなこと言われたって困るよね。忘れて、って言いたいところなんだけど」 「けど?」 「飛影くんだっけ?あの子はいいのかな?」 「飛影?」 急に出てきた名前に、幽助は面食らう。 「だって、あの子蔵馬くんと付き合ってるんでしょ?」 「はあ!!??」 幽助の大声に、何事かとぼたんと温子が振り向く。 なんでもないよ、と手を振る静流に、二人は不思議そうな顔をしながらも、騒がしい会話の輪に戻る。 「付き合って?誰が?誰と?は?」 「わかんないけど。寝ることと付き合うことは別って人も、いっぱいいるしね」 「寝る!? 寝るって…!」 「寝るってのは、セックスするってこと」 ぽんと放るように言うと、二本目のタバコも灰皿に押し付け、静流は寄りかかっていた窓枠から離れる。 温子と螢子の肩に手をかけると、何事もなかったかのように会話に戻る。 混乱したままの、幽助を残して。 ***
「それで?君は何が言いたいの?」半ば面白がるように、蔵馬は問う。 そこではた、と幽助は気づく。 誰とでも寝る、と静流は非難したが、そもそも飛影もそうならば、蔵馬は非難される筋合いもないだろう。 けれど、どう考えてみても、それは想像できない。十四歳の自分から見てもまだ、飛影の方が子供に思えた。 「…飛影のこと、好きなのか?」 「もちろん。大好きだよ」 屈託のない笑み。 短くなったタバコを消し、それで話は終わり?とでもいうように蔵馬は首を傾げる。 「じゃあなんで、他のやつと」 「その方が、いいんだ」 かぶせるように、蔵馬は返す。 「何がいいんだよ!?」 「オレたちさ、みんな傷だらけだよね」 急に話を変えられ、幽助はきょとんとする。 「話そらすんじゃねーよ」 「まあ武術会だし。怪我するのは当然なんだけど」 蔵馬は傷のいくつか残る、自分の腕や足に目を落とす。 「…気づいてた?飛影の傷の半分以上は、自分で付けたものだよ」 「意味わかんねーんだけど」 くすくす笑いながら、蔵馬は右手の人差し指で、空中をすっとなぞってみせる。 「自傷行為。自分で自分を傷つけるんだ」 「自分で……?」 「そう。いいことがひとつある度に、彼は自分をひとつ傷つける」 「な…」 幽助は聞き間違いではないのかとでも言うように、蔵馬を睨む。 「なんでそんなことすんだよ…!」 「さあね。小さないいことには小さな痛みを。大きないいことには大きな痛みを。どうもそれが彼のルールらしい」 「そんなバカみてぇなルールがあるかよ!」 ふと、蔵馬の顔から、笑みが消える。 「…陽の当たる場所を歩いてきた君には、絶対にわからないよ」 温子さんがいて、螢子ちゃんがいて。過去も今も、多分未来も愛されて。 自分が生きていようが死んでいようが、誰も気にもしてくれない世界で生きていくってことが、君にはどういうものかわからないんだよ。 生まれた瞬間から、ひとりぼっちであるってことが、どういうものかなんて。 蔵馬は淡々と続ける。 「君には、一生わかりっこない。さてと」 冷たく幽助を見ていたその顔が、いつも通りの温和な笑みに戻る。 どちらが仮面なのかは、幽助にはわからない。 「行っていいかな?」 「待てよ!!」 ソファから立ち上がった蔵馬の前に、幽助は立ちはだかる。 「好きじゃ、ねーのかよ!」 「飛影を?好きですよ」 「じゃあなんで、止めてやらねーんだよ!!」 「…止める?どうして?そんな飛影もかわいいじゃない」 幽助には、目の前の男も、目の前の男の話も、理解できない。 涼しい顔で笑う、仲間だと思っていたはずの男を殴り飛ばそうかどうしようか、迷っているのが見て取れる。 「ここに着いたその日に、飛影を抱いたんだ」 本当に、嬉しそうだったよ。 普段あんなに無愛想なくせして、オレにしがみついて、目なんか潤ませちゃってさ。 そうしたら、どう?大きないいことには、大きな罰を、ってわけだ。 使う必要もない未完成の技を使って、利き手を駄目にしちゃうとこだった。 優しく手当てして、キスしてあげたら、その右腕をさらに切っちゃうし。 オレが彼だけを相手にしてるなんて、彼だけを好きだなんて、そんなことになったら。 「飛影、死んじゃうんじゃない?」 「……頭、おかしいんじゃねーか」 「彼が?オレが?」 「どっちもだろ!」 「確かにね。飛影はおかしい。そんなことはわかっているよ。でもオレは」 彼のそんなところも含めて、まるごと全部、好きなんだよ。 だから、放っておいてくれないか? 有無を言わさぬ、綺麗な笑顔。 二人が足音に気づくと同時に、ノックもなにもなく、ドアが開く。 小さな顔、逆立った黒髪、大きな赤い瞳。 飛影が、怪訝な顔をのぞかせる。 「蔵馬?」 「ああ、ごめん。今戻るよ」 「別に用はない」 いつも通り、ぶっきらぼうな言葉。 自分をじっと見つめる幽助に、飛影は不審そうな視線を返す。 「先に部屋に戻ってて。オレもすぐ戻りますよ」 蔵馬の言葉に、飛影は素直に部屋を出る。 「じゃあね、幽助。オレ、行くね」 ドアが閉まったのを確認し、蔵馬は幽助に囁く。 構って欲しがりの人間の女の子みたいに、彼は加減して自分を傷つけてるわけじゃない。きちんと見張ってないと、本当に死んじゃうような傷を自分につけかねないからね。 「傷って…お前が手ぇ出さなきゃいいんだろ」 冷笑を浮かべ、蔵馬は幽助に顔を寄せた。 耳元に、小さいが鋭い、ささやき。 「…それって、彼に永遠にひとりでいろ、誰にも愛されるな、って言うことになるけど?」 日なたの男にそう釘をさし、蔵馬は去った。 ***
「……蔵馬」大きく広げられた両脚。 その真ん中に顔を埋める男の髪を、飛影は指ですくう。 舌が動くたび、小さな体は揺れる。 あっという間に口の中で放たれたものを、蔵馬はためらいなく飲み込む。 ぬるりと油をまとった指。嗅ぎ慣れた花のようなにおいに、快感を待ち望んで、飛影の腰が揺れる。 「……んん、ア」 「飛影…」 尻の下には丸めたタオルが置かれている。 指の抜き差しに、油の染みがタオルにシーツに、広がる。 指が抜かれ、両脚を抱え上げられる。 尻の奥にあてがわれた熱さに、飛影は目を潤ませ、唇を薄く開ける。 「…ヒァ、ァァァ…あっう!」 ずるずると、体の中を進むもの。 体がぴったりとくっつくほど奥へ押し込まれ、普段の飛影からは想像もできない、甲高い声を漏らす。 「ァァァァァ、あ、ああ、んんん」 「…飛影……好きだ…よ」 抜き差しに合わせ、飛影も腰を振り始める。 ベッドを軋ませ、シーツを濡らし、動きはだんだん激しくなる。 ー蜜を口にすれば、罰を与えられる。 暗がりから、そう飛影の中で囁いたのは、女の声だった。 「あ…?んあ!……くら…ま、ぁ、ああ…」 「…飛影…っ…オレを見て…他の…こと、考え…ないで…」 「くら…ま…蔵馬……っ!!」 持ち上げられた腰が、広げられた足が痛みを訴えるほど、長く深く何度も何度も、蔵馬は突く。 驚くほど奥を突き、体の中を引っかく。 「ああ、ああぁぁぁぁああ、っあ!!」 熱くどろりとしたものが、内臓に注ぎ込まれる。 一滴残さず搾り取ろうと、直腸が激しく収縮を繰り返す。 「…っふ、あ、んん」 小さな口から、唾液が一筋、伝う。 蜜が、注がれた。 体の中にたっぷりの、蜜が。 ー蜜を口にすれば、罰を与えられる。 ーその蜜が甘ければ甘いほど、罰もまた、大きなものになる。 飛影の頭の中に、また声が響く。 その声は、女のもので、聞き覚えのある声だ。 この…声…これは、あの、女の…。 「………蜜が…甘ければ甘いほど」 「…ん、は…っ…。飛影…どうしたの?」 飛影の脳裏に鮮やかに記憶が蘇る。 それを自分に囁いた者と、その末路が。 あたたかな羊水。 肉の壁の向こうから、自分に幾度も囁きかけられた言葉。 「……ああ…そうか」 「…飛影?」 くっくっと笑う飛影を、蔵馬は困ったように抱きしめる。 ぐにゃりと尻の中に収まる肉は、そのままに。 「…蔵馬……お前はオレを…どうしたいんだ?」 思いがけない言葉に、珍しく蔵馬は詰まる。 ゆっくりと飛影は体内を穿つものを引き抜き、ベッドにぺたりと座る。 途方に暮れた、子供のように。 「どうって……ただ…好きだよ。あなたのことを…オレは…」 髪をかきあげ、少しの沈黙の後、蔵馬は言った。 「…愛してるよ。飛影」 「……そう、か」 膝を抱え、頭を埋める。 小さな体が、より一層小さく見える。 「飛影?」 答えはない。 膝を抱えたまま、飛影は記憶の海へと、沈んで行く。 ー蜜を口にすれば、罰を与えられる。 ーその蜜が甘ければ甘いほど、罰もまた、大きなものになる。 ……いったい、オレは引き換えに何を差し出さなければならないのだろう。 宝物を無くした罰に、額に穴を開け、脳天をぶち抜かれるような痛みの末に邪眼を手に入れた。 蔵馬に抱かれた罰に、腕を焼き焦がし、痛みにのたうちまわった。 愛した者に抱かれるという、蜜。 甘い甘い蜜。 ー蜜を口にすれば、罰を与えられる。 ーその蜜が甘ければ甘いほど、罰もまた、大きなものになる。 女の声は、歌うように、やわらかだった。 腹の中の子供に聞かせる子守唄のように、甘かった。 …そうだ。 あの女に与えられた、究極の罰。 掟を破って蜜を吸った、あの女に与えられた罰は…。 死。 それだった。 「飛影!」 わきの下に手を入れ、蔵馬は飛影を強く引っぱり、抱き上げる。 向かい合うように座らされ、真剣な碧の瞳に見つめられる。 「飛影…どうした?」 いつか。と飛影は考える。 いつかこの男が、自分だけを愛してくれたら。 もし、そんな未来があったら。 それはどんなにか、幸せだろう。 究極の罰と引き換えにしてもいいくらいの、蜜の味を味わえるだろう。 腕も、足も、そんなものでは足らない。 何を差し出しても、きっと足りない。 いつかこの男が、自分だけを愛してくれたら。 その時こそ…。 この身を滅ぼす、罰を受けよう。 怖いことなど、何もない。 「…飛影?」 そう遠くはない未来にそれがあることを感じ、 飛影は小さく微笑んだ。 ...End. 200000キリリク「自傷飛影」 橙丸様よりリクエストいただきました! ありがとうございました!(^^) |