約束と約束「世話?」思いがけない言葉に、蔵馬は訝しげに問う。 いかにも学生用の机の端にえらそうに座り、実体のないコエンマは蔵馬を指差す。 「そうだ。お前に世話を頼みたい。つまり飛影の面倒を見てもらいたい」 「面倒を見る?」 「武術会までは、まだだいぶ日があるだろう?」 「そりゃまあ、二ヶ月くらいありますけど…」 今さら人間に危害を加えるほど彼も馬鹿じゃない。大人しくしてますよ。 武術会への招待だって、あいつらのせいで面倒に巻き込まれたみたいなことを毒づいてましたけど、彼は基本的に戦いに貪欲だ。逃げ出すはずもない。 淡々とした蔵馬の言葉に、半分透けているコエンマはうんうんと頷く。 「逃げ出す心配などしとらんわ。ただ、二ヶ月もの間、子供を一人にしておきたくない」 「子供って」 階下でテレビを見ているらしい母に聞こえないよう、蔵馬は小さく笑う。 「十月十日も腹の中にいた挙げ句に、一年も這いずりまわってやっと立てるようになる人間じゃあるまいし。彼は一人で何でもできますよ」 「だがやつは子供だ。あの見た目では人間界では何かと厄介な目にあいかねん」 なるほど、と蔵馬も頷く。 確かに飛影はこの世界の基準でいえば幼い。外見だけでいえばせいぜい十歳を超えたところだろうか。 「頼んだぞ。親戚の子供を預かるとでも思えばいいじゃないか」 「二ヶ月も?勝手な言い草だ。ずいぶんひねくれた子供ですよ」 「それでもあれは子供だ。子供は大人がきちんと保護してやらねばならんものだ。…どんなささいなことであれ、人間界で騒ぎを起こしてもらっては困るしな」 「ははあ、出ましたね本音が」 いわゆる執行猶予の身ですよ、オレたちは。 確かに彼はカッとしやすいたちだけど、大丈夫だとは思いますけどね。 「わかりました。引き受けますよ。ちゃんと飛影の面倒を見ると約束します」 あなたに貸しを作れるのはいつだって歓迎だ。 さらりと答え、蔵馬は笑った。 ***
家に泊めてやって、ご飯を食べさせてやって、風呂に入れてやって、着替えを用意してやって。「まさに衣食住だな」 ひとりごちて、蔵馬は夜の空を飛ぶ。 人間の目をくらまし、屋根や屋上を渡り、コエンマに教わった公園へと駆ける。 「おい、君!」 いいタイミングだ。 音もなく降り立った蔵馬の前には、制服を着た若い警官。 警官の視線は上を向き、どうやら公園の真ん中にある大きな木に登っている者を照らそうとしているのか、やたらと眩しい懐中電灯を振り回している。 木の上に何かがいる、と気付いただけでも上等だ。多少は霊感があるのだろう。 「危ないだろう!降りなさい!子供がこんな時間に…!」 多分これが初めてではない。 うんざり、という言葉を凝縮させたようなため息が木々の葉の間からこぼれ、小柄な人影が動いた。 「…去れ」 飛影の右手が額の布にかかる寸前、濃い花の香がむせるような強さで立った。 真後ろにひっくり返る所だった警官を抱きとめ、蔵馬は色のあせたベンチに引きずって行くと、ぐたりとした体を座らせた。 「蔵馬…?」 「やあ。人間に対して邪眼を使っちゃだめだって、コエンマに言われなかった?」 蔵馬よりも身軽にすとんと地面に下り立った飛影は、フンと鼻を鳴らす。 「人間に夢幻花を使ってもいいと、コエンマが言ったのか?」 言い捨てて歩き出そうとする飛影の腕を、蔵馬はサッと掴んだ。 「なんだ?」 「オレの家においで、飛影」 心底嫌そうに、飛影はしかめっ面をする。 「なぜオレが、貴様の家に行かなきゃならん」 「なぜかと言うと、屋根があって食べ物があって着替えがあるから、です」 「不要だ」 「木の上で寝るよりは快適ですよ」 「不要だと言ったのが聞こえないのか?」 また歩き出そうとする飛影の腕を、蔵馬は今度はぐいっと引いた。 「離せ」 「コエンマの命令だ」 「やつの命令に従う義務などない」 「本当に?何もないんですか?なら、霊界に貸しを作ると思えばいい」 妹を見つけてもらって無事に氷河に帰してもらった借りがあるんじゃないの?などと蔵馬は言わない。今はまだ、ユキナとやらのことを知っていることを教えるタイミングではない。 眉間にぎゅっと皺を寄せ、上目遣いに飛影は蔵馬を睨む。 蔵馬とはたっぷり30センチ以上、いや40センチ近い身長差があるようだ。ということは140センチ。いや、140センチにも足りないかもしれない。 黒衣の子供はいまいましそうに舌打ちをすると、地を蹴った。 ***
「靴は脱いで」土足で降りようとしたのを止められ、窓辺に立ったまま、面倒くさそうに飛影は靴を脱ぎ捨てる。 裸足のままぺたぺたと部屋を歩き、壁際に座り込もうとする飛影を蔵馬は再び咎める。 「待って。シャワー浴びてきてください」 蔵馬が言うのも無理はない。 いったいどんな生活をしているのか、飛影の歩いた後には砂がこぼれている。 よく見れば飛影の短い髪にも服にも、砂や固まった泥や木の葉の切れっぱしが付いていた。 先に立って階段を下りようとした蔵馬は、動かない気配に振り向いた。 「どうしました?」 「貴様、母親とやらはどうしたんだ?」 以前はいたはずの人間が見当たらないことに、飛影は辺りの気配を探る。 こぢんまりとした一軒家は静まり返り、時折外の音が聞こえるだけだ。 「母には仲のいい従姉妹がいてね」 イトコ?と聞き返す飛影に、血の繋がった一族の女性のこと、と蔵馬は端折って返す。 「足を骨折したんだよ」 母と従姉妹は姉妹同然の仲良しでね。その従姉妹が事故で骨を折ったんだ。 ところがあっちには単身赴任の夫と、まだ小学生と幼稚園児の子供がいる。それで母はここから新幹線で三時間というなかなか遠方に住んでいる一家の面倒を見るために、泊まり込みでその家に行ったんだ。 意味がさっぱりわからない言葉の連続に首を傾げる飛影に、蔵馬は続ける。 「まあ短くまとめると、母は今いない。この家にはオレと君だけだよ」 「仕組んだのはコエンマか?」 「さあね」 蔵馬は肩をすくめ、階段を下りた。 台所、トイレ、玄関、と指差しながらざっと使い方を案内をすると、風呂場へと着く。 シャワーのコックをひねり、お湯を出す。 シャンプーだのリンスだの教えたところで無駄だろうと、白くまるい石鹸だけを渡した。 「これを濡らして両手でこすると泡が出るから、それで体や髪を洗って。目に泡が入らないようにね」 頭上のシャワーヘッドから降り注ぐ湯をうさんくさいものを見るように眺め、飛影は服を脱ごうともしない。 「大丈夫、ただのお湯だよ。脱いだ服は洗うからこのカゴに入れておいて。シャワーを浴びている間に着替えの服は用意しておくから」 カゴにひっかけるようにバスタオルを置き、蔵馬はさっさと浴室を出た。 ***
「さてと」納戸にあった子供の頃の服はどれも、長いこと仕舞い込まれていた布特有のにおいが微かにしていたが、着れないことはない。 部屋に運び込んでおいた服の山から、上下揃いのやわらかそうなスウェットのパジャマを取り、ついでに靴を玄関に置いてこようと自分と飛影の靴を蔵馬は手に取り… ハッとして、手を止めた。 パジャマと自分の靴を床に置き、飛影の黒い靴をまじまじと眺める。 左の手のひらに、片方の靴を乗せてみる。 なんて小さい靴だろう。 靴が小さいということは、当然足が小さいということだ。 小さな足の持ち主は、小さな体の持ち主だ。 所々擦り切れ、泥や砂が付着し、血とおぼしき汚れもあちこちにある。 しかし靴はおもちゃのように小さく、蔵馬の手のひらよりも小さい。 子供の靴、としか言いようのない靴を見つめる。 あれは子供だ。子供はきちんと保護してやらねばならんものだ。というコエンマの言葉を思い出す。 今の今まで、飛影に対してそんな風には一度も考えなかった自分に蔵馬は驚く。 自分の靴とパジャマを持ち直し、小さな靴を見つめたまま階段を下りる。 片付いている玄関に二足の靴をきちんと並べ、浴室の戸が乱暴に開く音がするまで、蔵馬は小さな靴を見つめていた。 ***
なるほど、と蔵馬は小さく唸る。タオルを置いただけでは意味は通じないらしい。 びしょ濡れのまま、砂だらけの服をもう一度着ようとしている飛影を止め、バスタオルをかぶせた。 「なんだ!? 触るな!」 「もー。家中びしょびしょになるじゃないですか」 顔を拭き、体を拭き、髪を拭く。 綺麗に筋肉が付いているというのに、所々に子供らしい丸みが残る体。 まったく毛の生えてない股間やそこにぶら下がる小さな性器、白い太股や色の薄い乳首には気付かないふりをして、蔵馬は手早く飛影の全身を拭きあげた。 「違いますってば!こっちが前ですよ」 これは買ってきておいた新品の下着を履かせ、スウェットのパジャマを着せてやる。 黒衣ばかりを見慣れているせいか、白いスウェットは飛影をますます小さく見せた。 習慣のままにドライヤーを手に取った蔵馬に、飛影はたちまち警戒の色を見せる。 「温風が出るんですよ。髪を乾かすだけ」 「いらん」 風邪をひく、という返答を蔵馬は飲み込む。 髪が湿っていることくらい、自分も飛影ももちろんどうということもない。 「いいですよ。じゃあ食事にしましょう」 ダイニングキッチンというほどの部屋でもないが、台所には簡素な食卓と椅子がある。 あとは温めるだけになっていた鍋に火をつけ、座ってと飛影を促す。 飛影を迎えに行く前に夕食は用意しておいた。 入院していた母の代わりに家事をこなしていたおかげで、蔵馬は料理もそこそここなせる。何でも食べるだろうと思いつつ、何を作ったらいいのかと少々迷った夕食だった。 トマトソースで煮込んだハンバーグに、バターで炒めた野菜やじゃがいもを添えた皿を飛影の目の前に置く。 茶碗に山盛りのご飯と、缶詰のコーンをどっさり入れたスープも並べた。 子供っぽいメニューかと考えた夕食だったが、実際に子供相手なのだからこれでいいだろう。 そんなことを考えてしまうのは、あの小さな靴のせいだろうか。 そんなことを蔵馬は考える。 それとも自分の指ほどの大きさしかない、股間にぶら下がるものを見たせいだろうか、と。 箸を置き、ちょっと迷って蔵馬はスプーンとフォークも置いた。自分の分も盛り付け、座ったまま不審げな顔をしている飛影を気にせず、食べ始める。 スープの湯気、焦げた肉の甘い匂い、トマトソースの濃い香り。冷たい烏龍茶のグラスに付いた細かな水滴。 戸惑いを隠せず、けれど空腹も隠せず、蔵馬が意外に思ったことに、飛影は少し躊躇って箸を取った。 奇妙で静かな、時間だった。 どちらから話しかけるでもなく、かといって沈黙が気まずいわけでもなく、二人は黙々と食事を平らげる。 肉と野菜と米とスープと。好き嫌いがないというべきなのか、それとも食べ物の味に興味などないのか、飛影はぎこちない手付きながら箸を使い、みるみる皿を空けていく。 空になった皿に蔵馬が二個目、三個目とハンバーグを入れ、野菜を足してやっても飛影は何を言うでもなく、その小さな体のどこに入るというのか、山盛りのご飯と共にきれいに平らげた。 ***
「別に、いいけど…」父親が生前、家で仕事をする時に使っていた四畳半の部屋。 ちょうどいいだろうと布団を敷いた蔵馬に、ここでは寝たくないと飛影は言った。 「じゃあどこで?」 「貴様と同じ部屋ならいい」 四畳半には、折り畳みの座卓と母親が嫁ぐ時に持ってきたという桐箪笥が片隅にある以外には今は何もない。 客用の布団はいかにも客用の馴染まなさで、部屋の真ん中に敷いてある。何もない部屋だが、そもそも飛影に何が必要だというのか。 「テレビでも欲しいんですか?」 ささやかな冗談を黙殺し、飛影はさっさと蔵馬の部屋へと戻る。 敷いたばかりの布団を両腕に抱えて戻ってきた蔵馬から視線を反らさないまま、壁に寄りかかり、剣を抱えて座り込む。 「布団、敷きますから」 「いらん」 白いパジャマに裸足で剣を抱える姿はアンバランスだ。 小さな足は爪も小さく、手入れもないままに尖っている。 「オレにはオレの都合があるんですよ」 あなたにちゃんとした衣食住を提供するって約束しちゃったんだから。 今日だけのことじゃない。しばらく続くんだから布団で寝てくださいよ。 「だいたいオレの部屋狭いんですよ。ほら、そんな所に座り込まない。どいてどいて」 渋る飛影を引っぱり起こし、ベッドへ追いやる。 ベッドの足元に蔵馬はさっさと布団を敷く。 「オレはいろいろ準備もある。人間界を不在にするためにね。桑原くんが特訓して欲しいなんて言ってるし。別にあなたをここに閉じこめようっていうんじゃないんだ」 近くに、といってもオレたちの足でも二十分くらいはかかるかな。小さな森があってね。 人間?ああ、その森は個人の持ち物で、人間は滅多に入ってこないんだ。 「そこに結界を張っておくから」 あなたはそこで、昼間は好きにしたらいい。 修業でもなんでも。妖気が漏れないように細工はしておくから。オレでよければ時々手合わせしますよ。 服でも靴でも食べたい物でも必要なものはなんでも言ってください。手配しますから。 朝ご飯を食べて、出かけて、夜になったら帰ってくる。風呂に入って、一緒に夕ご飯を食べて、この家で寝る。なんなら昼ご飯はお弁当でも作りましょうか? 一気に言うと、わかった?とでも言うように、蔵馬は飛影をのぞきこむ。大きな赤い瞳が無言のまま見返した。 「ベッドをどうぞ。シーツも替えたばかりですから。ベッドの上で壁に寄りかかって起きていようがどうしようがご自由に」 眉間に皺を寄せたまま睨む飛影にあくびを返し、部屋の明かりのスイッチにかけた手を止める。 「暗いと、寝れません?」 「…ふざけるな」 「そう。じゃあおやすみ」 パチンと消された明かりのかわりに、開けたままのカーテンから、街灯の白く薄い光が部屋をぼんやりと照らした。 ***
妙に厚みのある来客用布団はやわらかく、落ち着かない。寝返りを打ち、蔵馬は薄目を開けた。途端に刺さった視線に驚き、顔を上げる。 闇の中でベッドに座り、飛影は剣を抱えたまま、きっちり目を開けて蔵馬を見下ろしていた。 「……飛影?」 「なんだ?」 なんだって、なんだ。 寝乱れた長い髪をかき上げながら蔵馬は起き上がり、ベッドの上の飛影と視線を合わせる。 「眠れないんですか?」 「オレは眠らない。…眠ったら、お前はオレを殺すかもしれない」 「はあ?オレが?寝ているあなたを?」 なるほど。 一緒の部屋で寝ることを主張したのは、信用できない相手を見張るためだったのか。 馬鹿みたいだ。殺すつもりなら、さっきあなたがむしゃむしゃ食べた食事に毒を盛りましたよ。などという意地の悪い言葉を蔵馬はなんとか飲み込み、苦笑した。 「…何もしやしないよ。第一、そのベッドで眠るのも初めてじゃないだろう?」 負傷し、敵の前で気絶し、抱えて運ばれて意識もないままに手当てを受けた。魔界でなら即、死に繋がる行為だ。 情けない思い出を突きつけられ、飛影は薄い唇をきゅっと結ぶ。 「…あの時貴様は、一人では戦えなかった。だからオレを生かしておいたんだ」 「今だって、あなたなしで戸愚呂たちと戦えませんよ」 なんて面倒くさい子供なんだ。 蔵馬はため息をつき、立ち上がる。ベッドの足元に落ちていた毛布と薄い布団を拾うと、座る飛影の体を包むようにかける。かけた途端に布団を蹴飛ばす飛影に、もう一度深いため息をつく。 「じゃあ、こうしましょうか」 「おい、何を…」 狭いシングルベッドに上がり込み、飛影を壁際に寄せると、空いたスペースに蔵馬は横たわる。 「おい…」 「来て」 抵抗する間もなく、蔵馬は小さな体を腕の中にすっぽりと納めた。 「なんの真似だ、おい!」 「ここ」 飛影の右手を握りしめていた剣から外し、蔵馬は自分の心臓の真上にぴたりと当てる。 薄い布越しのあたたかな鼓動が、飛影の手のひらに規則正しく伝わる。 「ここは、心臓。妖怪でいうところの核だよ」 「…核?」 「眠る間、ここにずっと触れていて。そうすればオレがあなたに殺気を持った瞬間に、あなたはオレを殺せる」 「貴様を……殺せる?」 鼓動。脈動。命の拍動。 手のひらの中の温度とリズムに魅せられたかのように、飛影はじっと抱かれたままでいる。 「剣も置いておきなよ。そんな物はなくても、急所さえ分かっていれば一瞬で殺せるだろう?」 鼓動。脈動。命の拍動。 蔵馬の鼓動。蔵馬の温度。 体中どこもかしこも小さいというのに、そこだけは大きな赤い瞳が、とろんと鈍り始めた。 幼い子供が眠りに引き込まれる、その瞬間。 小さく開けた口。 目を閉じると一層幼い白い顔。 肩口に押し付けられた規則正しい寝息が、蔵馬のパジャマをほのかに湿らせた。 ***
腕の中のあたたかい生き物。寝息。しっかりと胸に当てられた手のひら。 傍らにあった飛影の剣を蔵馬はそっと取り上げ、床に置く。 いくら妖怪だからって、木の上よりは寝床で寝る方がいいに決まっている。敵になるわけではないが殺すわけにもいかない人間どもにいつ見つかるかわからないのでは、ぐっすり眠るわけにもいかなかっただろう。 シャワーを浴びて、たっぷり食べて、清潔な服を着て、あたたかい場所で眠る。 飛影にとっては久しぶりの贅沢だったはずだ。 小さな体は、蔵馬の体のカーブに妙にしっくりと納まる。 子供特有の高い体温は、人間も妖怪も同じらしい。 「本当に…子供なんだね」 自分ではなくコエンマが先にそれに気付いたことに、なぜか蔵馬はかすかな苛立ちを覚える。 少なくとも、今の飛影のことを一番知っているのは自分だと思っていたのだろうか。箸の使い方を教えたのが誰かさえ知らないというのに。 他人と同じ布団で眠るなど、いったい何年ぶりだろう。 ごく幼かった頃は母親と一緒に寝ていた。そうせざるをえなかったからだ。 人間のふりをすることも、人間と過ごすことも苦痛だったあの頃。 もっと昔を、蔵馬は思い出してみる。 妖狐だったあの頃も、他人を抱いて、あるいは他人に抱かれて眠った記憶はほとんどない。 どんな相手であれ、性欲が満たされれば邪魔なだけだった。誰かと寝ることと、誰かと眠ることはまったく違う。 なのになぜだろう。 今、腕の中にある体温の高い生き物を、自分の心臓の真上にぴたりと当てられた小さな手を、蔵馬は不思議と不快には思わなかった。 ***
一緒に朝食を食べ、別々の場所へと出かける。お弁当、というのは蔵馬としては半分冗談のつもりだったが、おにぎりを包んだ袋を渡すと、意外にも飛影は素直に受け取った。 おかげで蔵馬は、未体験だった弁当作りという業務まで増えてしまった。 紐のない、シンプルなスリッポンの靴を二足ほど買ってやると、文句も言わずに履いている。 子供靴の売り場など初めてで、戸惑いながら蔵馬が選んだ靴だ。 食事にも問題はない。 飛影が難色を示したのはおにぎりに入れた梅干しくらいで、後は何でも食べる。 美味しい、ともなんとも感想はないが、夢中で食べているところを見ると人間界の食べ物も気に入っているようだ。 あの性格の飛影を預かるなんて、と最初はやれやれだった蔵馬の気分は、少し変わってきている。 同棲、ではもちろんないし、こういう生活をなんというのだろうか。 今夜は何にしようと夕方の商店街で夕食の材料を見繕いながら、蔵馬は考える。 最初の日はきちんと夕食を作ったが、後は冷凍食品でも買ってきた総菜でもいいだろうと思っていた。こんなにせっせと毎日手作りするつもりではなかったのに。 カレーだのハンバーグだのオムライスだの焼き魚だの生姜焼きだのミートソースだの。気付けば結構まともな食事を飛影に与えている。 同居じゃない。もちろん同棲じゃない。 弟ができた?違う。血の繋がりがあるわけじゃなし。 下宿生が家にいる?それも違う。家賃はおろか感謝の言葉すらないのだから。 これは、あれだ。 猫を拾った友人が、オレの家では飼えない、なんとか飼い主を探すからしばらくの間だけ預かって欲しい、と言って押し付けてきた荒くれ猫なのに、気付いたらせっせと世話をしているパターンだ。 荒くれ猫、という言葉にふさわしい飛影を思い、思わず蔵馬は笑う。 あの黒猫はどうやら子猫のようだから、今日は甘い物も買っていってやろう。 ***
「甘い物、嫌いですか?」目の前の皿を見つめて固まっている飛影に、蔵馬は声をかける。 「…食い物なのか?」 熱い紅茶に砂糖と冷たい牛乳を足し、ちょうど飲み頃にしたマグカップが、ケーキの皿と並んでいる。 飛影の質問に、蔵馬は改めて皿を見下ろした。 オレンジのタルトと、りんごのパイと、キャラメルムースの入ったシュークリーム、砕いたナッツが飴色に輝くチョコレートケーキ、王道のいちごのショート。 いかにも女性が好みそうな飾り付けを施されたそれらは、女性客だらけの店で蔵馬が買ってきた物だ。母親の気に入りの店でもある。 「お菓子ですよ」 「菓子?これが?」 「食べてみればいいじゃないですか。噛み付くわけじゃなし」 蔵馬の差し出すフォークを無視し、飛影は手づかみでりんごのパイを取る。いかにも甘酸っぱそうなソースに小さな爪が浸るのを、蔵馬は愉快な気分で眺めた。 しゃりしゃりとしたりんごを咀嚼し、ソースを舐め取り、飲み込む。さくさくのパイがほろほろとこぼれ、あたりにバターの香りを漂わせる。 唇を舐め、指先を舐め、あっという間に食べ終えた飛影は、今度はショートケーキに手を伸ばす。 「美味しいですか?」 ショートケーキも食べ終え、黄金色のムースが顔をのぞかせるシュークリームに手を出した飛影に、蔵馬はふと尋ねる。 何度かした質問だったが、珍しく返事が返ってきた。 「……美味い」 ぼそっと言うと、もういいだろうと言わんばかりに、飛影はシュークリームを掴む。 せっかく着替えた意味があるのかと思うほど、部屋着にはパイのかけらやら粉糖やらがふりかかっている。 「もう、お腹いっぱいですか?」 二つ残して手を止めた飛影に、蔵馬は問う。小さな体で健啖家であることはもうよく知っている。 オレンジのタルトも、チョコレートケーキも、つやつやと美味しそうだ。 「お前の分だろう?」 貴様、ではなく、お前、と呼ばれたことにも、自分の食べる分を残さなきゃいけないと考えてくれたことにも、蔵馬はびっくりしてしまう。 「…いいんですよ、全部食べて。オレは甘い物はあまり好きじゃない」 わーい、だの、やったあ、だのそんな言葉は無論返ってこない。 ただ、大きな目を一層大きくし、くるっと輝かせ、小さな手が勢いよくのびる。 オレンジのタルトから滴った、オレンジ色のソース。 食べ終わったらまた着替えさせなきゃ。 甘くないチーズのクッキーをつまみながら、蔵馬は小さく笑った。 ***
甘いものは人の心をやわらかくする。美味しいものは人の心をあたたかくする。 薄いベージュのショップカードの裏面に書かれた陳腐な二行の文章は、店主の座右の銘らしい。 特に何の感想も持たずにレシートと一緒に丸めた蔵馬だったが、慣れた体温を腕の中に感じながら、ふと思い出す。 甘いものは人の心をやわらかくする。 美味しいものは人の心をあたたかくする。 飛影が身じろぎ、右手がふいに離れた。 自分の顔にかかる短い髪を払い、右手はそのままゆるい握りこぶしを作ると、右頬の隣に納まった。 久しぶりに自分の心臓から蓋がどかされ、蔵馬はすうと風さえ感じる気分だった。 呆れ半分、おかしさ半分、眠る子供を眺める。 飛影と暮らすようになって二週間。 全く、幼い者は慣れるのも早い。 油断するのも、気を許すのも、早い。 「……子供だなあ…」 自分の声に、なぜか食べてもいないケーキの甘さが混ざったような気がしながら、蔵馬は目を閉じた。 ***
服に靴、乾燥させた薬草で作った薬や包帯。自分で作ったリストに目を落としながら、蔵馬は手際良く荷物をまとめる。 たいした荷物はいらないとはいえ、二人分になればなかなかの量だ。 この奇妙な共同生活も、もうじき終わる。 旅立ちの日はすぐそこに迫っていた。 この家も、学校も、母親も。 全ての手筈は済んでいる。思い残すことはない。 住み慣れた家、見慣れた天井。 綺麗に晴れ渡る窓の外を眺め、蔵馬はすでにこの場所を懐かしむような気持ちになっている自分に気付く。 自分がいなかったら飛影はどうするつもりだったのかと、今さら蔵馬は不思議になる。 用意だの、準備だの、自分にはまったく関係のないことだと言わんばかりに、飛影はベッドに丸くなり、眠っている。 今日は出かける気はないのか、蔵馬のパジャマをくしゃくしゃと丸めた物を枕のように頭にあてがい、すっかり眠り込んでいた。 「飛影」 床に落ちていた毛布を拾い、かけてやりながら、蔵馬は話しかける。 「オレ、出かけてくるよ。夜には帰る。昼ご飯は台所にサンドイッチがあるから」 聞こえているのかいないのか、むにゃむにゃと何か呟く飛影に小さく笑うと、蔵馬は静かに扉を閉めた。 音もなく階段を下り、居間を通り抜け、玄関へと向かう。 ふと、居間を振り返り、細長い本棚に飾られた写真立てに目を留めた。 赤ん坊を抱く若い男女。 どちらもこぼれるような笑みを浮かべ、赤ん坊に頬を寄せている。 「似てないな」 ここに来て三日目ぐらいだっただろうか。 家中を探索してまわった飛影が、写真の女を指差して言った。 「よく言われたよ。ちなみにもう一人の人間は父親。そっちにもオレは似ていない。多分、妖狐の姿の影響があるんだろうな」 「その腑抜けた姿になる前か?お目にかかりたいもんだな」 「武術会で、お見せできるといいけど」 その返答に目を丸くした飛影に、蔵馬は冗談だよ、と笑った。 たった数週間前のことなのに、ずいぶん昔のように感じる。 靴を履き、とんとんとつま先を蹴る。 財布ひとつをポケットに捻じ込み、蔵馬は玄関を開けた。 ***
「どこへ行くんだ?」思いがけない場所で思いがけない者に会うというのは、ぎょっとするものだ。 混雑する駅の構内。 振り向いた蔵馬は、黒いスウェットにゆるりとした黒いズボン、肌寒いくらいだというのに素足に黒い靴という出で立ちの飛影に、ぽかんと口を開ける。 人の群れ、人の波。 どこへ向かうのか、どこから来たのか、切りもない人の流れ。 人間たちの目には、飛影の目も蔵馬の目も黒に見えるはずだ。邪眼ももちろん隠してある。魔界でのようななりをしているわけでもない。 しかし異形の者は、霊感を持たぬ人間たちの心にさえ細波を立てるらしい。新幹線ホームへと向かうコンコースは平日の中途半端な時間とは思えぬ混雑だというのに、二人の周りには、人間たちの無意識の生存本能がそうさせたらしい、ほんの少し空間がある。 「飛影…。何してるんだ」 「付けてきた。気付かなかったのか?間抜け」 どこかしら得意げに言う飛影に、ここまで来る電車代はどうした、などと聞くのも馬鹿馬鹿しい。 改札などもちろん素通りできる。 乗るはずだった新幹線の発車時刻が迫っていることを、電光掲示板が知らせている。とはいえここに飛影を置いていくわけにもいかない。 家に帰れと金だけ渡すわけにもいかない。 「…なんで付いてきたんだ?」 「暇だった」 毎日毎日、結界を張ってやった森で鍛練に勤しんでいたくせに、なぜ今日に限って暇だのなんだのと言うのか。 蔵馬は天を仰ぎ、心底からのため息をつく。 どうしたものか。 いや、どうしたもこうしたもない。今日の予定はキャンセルだ。 付いてきてしまったのだから、連れて帰るしかない。しょうがないとはいえ、蔵馬としてはゲンコツのひとつもくれてやりたい気分だった。 子供を育てたことなどないが、きっと毎日がこんな風にままならないものなのだろう。 「…帰るよ」 「なぜだ?どこかへ行くんだろう?」 蔵馬はもう一度ため息を付き、初めて手を繋いだ、と意識する間もなく飛影の手を取った。 困ったクソガキを野放しにしておくわけにはいかない。きっちり連れて帰らなければ。 ***
たったの二時間足らずで家に逆戻りだ。反古にした新幹線の切符をゴミ箱に投げ込み、蔵馬はインスタントコーヒーの瓶を取る。 「何を怒っている?」 お家でお留守番もできないお前にだよ、とケンカをすることもできなくはない。とはいえ武術会を目前にして、共に戦う仲間と無用な諍いは起こしたくない。 マグカップにコーヒーの粉をたっぷりと入れ、蔵馬はポットから乱暴にお湯を注いだ。 「どこへ行くつもりだったんだ?」 昼にと用意しておいたサンドイッチを口に押し込みながら聞く飛影を無視し、蔵馬はコーヒーを啜る。 のどをすべる濃く苦い味わいに、苛立ちがほんの少しだけ静まるようだった。 「…会いたい人がいるんだよ」 だいぶ間を空けてぽつりと蔵馬が呟いた言葉を独り言だとでも思ったのか、飛影は返事もせずにサンドイッチを黙々と平らげている。 すっかり勝手知ったるになった台所で、冷凍庫からアイスクリームまで出してきた。開け方がわからないのか無言でカップを差し出す飛影に、蔵馬は蓋を外してやり、スプーンと一緒に渡してやる。 「誰に会いたかったんだ?」 聞いていたのかとちょっと驚いた蔵馬だったが、隠していてもしょうがないとコーヒーを飲み干す。 「母親さ」 人間かぶれだのなんだのと馬鹿にするだろうと飛影を見ると、アイスクリームのスプーンをくわえたまま、蔵馬を見上げる。 「なぜだ?」 「見納めになるかもしれないと思って」 心の中で考えていたことを口に出してみると、それははっきりとした形になった。 驚いた顔でスプーンを口から離した飛影に、蔵馬はどこか老いた笑みを浮かべる。 飛影がどのくらい子供であるかを、今この瞬間こそ、蔵馬は思い知った。 無邪気で、傲慢で。 それが許されていることを当然だと思っていて。 老いも死も、時の流れでさえ自分とは無関係であるかのような顔をして。 子供はいつだって、永遠を生きるつもりでいる。 飛影の手からスプーンを取り、蔵馬は自分の口にもひとくちアイスクリームを入れる。 儚く甘く、跡形もなく溶けるそれは、清々しいほど人間界だった。 「……オレは、長い時間を生きてきたんだよ」 大人、だからだ。 最善を願ってはいる。願ってはいても、最悪も予想しておかなければならない。 暗黒武術会。 首縊島。 戸愚呂兄弟。 たとえば、この戦いで負けるかもしれないということ。 たとえば、二度と大切な誰かに会うことはできないかもしれないということ。 たとえば、自分が死ぬ、ということ。 「…お前はもうここへ帰らないのか?」 「帰れるよう最善を尽くすよ」 「負けると思っているのか?」 「勝つためにも最善を尽くすよ。ただ、尽くすことと叶うことは別だね」 空になったサンドイッチの皿の上に、空になったアイスクリームのカップを置き、飛影は何か理解したとでもいうように、小さく頷く。 「貴様は、弱っちい半妖だ」 だが、と飛影が顔を上げる。 「オレは強い。オレは負けない。だから」 「…だから?」 「だから、オレが勝ってお前をここに帰してやる。帰ってきたら、好きなだけ母親とやらの顔を見たらいい」 あっさりと言うと、飛影は自分の分のコーヒーカップを棚から取り、差し出した。 お前をここに帰してやる。 今日の夕食の話でもするかのような、単純で明解な言葉。 蔵馬はしばしポカンとし、ゆっくりと、笑みを浮かべた。 「…ありがとう」 こんな子供に、そんなことを言われるなんて。 とんでもない約束を、簡単にしてしまうなんて。本当に子供だ。 おかしいような、くすぐったいような。 愛おしい、ような。 ふいに、自分でも何をしているのか意識しないままに、蔵馬は身をかがめ、飛影に唇を重ねた。 やわらかく、小さな唇。 吐き出す息に、バニラアイスの香りが混ざっている。 「なんだ?」 「おまじない。勝つための」 オマジナイ?オレを信用していないのか? 幼い顔で眉を吊り上げる飛影に、蔵馬は笑い出す。 「信じてる。だけど、もう一回してもいい?」 何だか知らんが別にいいぞ、と、見上げる飛影に対し感じた気持ちが何であるのか、蔵馬はもうわかっている。 飛影のカップにコーヒーを半分ほど作ってやり、残りの半分は牛乳を注いで、角砂糖をふたつ放り込んでやる。 久しぶりの恋が、こんな場所で、よりによってこんな時に始まるとは。 長く永く生きてきた。何もかもを知ったような気でいたのに。 どうやらまだ、この人生には続きがある。 思いがけない驚きも、まだ用意されているらしい。 「…飛影」 「なんだ?」 片手に甘ったるいコーヒー牛乳、片手にスプーンを持ったままの飛影は、どうやらもう一つアイスクリームを食べるつもりらしい。 「約束ですよ、飛影。ちゃんとオレを、ここへ連れて帰ってきてくださいね」 ああ、と頷く飛影の頬を両手で包み、蔵馬はもう一度唇を重ねた。 ...End. 300000キリリク「蔵飛、甘め、R23、珍しく飛影が蔵馬を助けるようなシチュエーションなんてどうでしょう…?」 りん様よりリクエストいただきました! ありがとうございました!R23が入れられなくてすみません…。次回にご期待くださいませ!(^^;) |