桜雨


暦の上だけ春だとて、夜は冬と殆ど変わらず冷え込む日が続く。

草履を履いた素足は冷たい。こんな夜更けの使いを頼んだ主人を毒突きながら、飛影は提灯の火が消えぬよう気を付けながらも早足で歩く。丁稚の朝は早い。とっとと店へ帰りたかった。

急ぐ余り石に躓き転ぶような間抜けな事にならぬよう、下ばかりを見ていた飛影の目に、白いものが飛び込む。
埃っぽい乾いた土の上に、白く、点々と。ひらひらと。

「…桜」

冷気と、月明かりと、花弁と。

顔を上げた飛影の視線の先に、古ぼけた神社とそれを取り囲む白い雲のように咲く、何本もの桜が見える。 今が桜の季節である事を知らなかった訳ではない。ただ、桜を愛でるようなゆとりは飛影の生活には今までなかったし、これからもないはずだ。

夜明けと共に仕事が始まり、仕事を終える日没の頃には疲れ果て寝てしまうような日々。
奉公先の仕事は厳しく、金に五月蝿い主人は高級品である蝋燭を使わせてまで夜に使いを出す事など滅多にない。
江戸者はわざわざ火を熾し夜桜見物などと洒落込むと聞いてはいたが、そんなことをしているのは金が唸るほど在る武家や商家の主人達ぐらいだろう。飛影にとって余所の国の話も同然だった。

ぼんやりとした月の光でさえ、満開の桜は美しかった。
ちっぽけな蝋燭の明かりなどでは届かない、深い深い闇を照らすかのように、桜は凛と其所に在る。

引き寄せられるように飛影は鳥居をくぐり、参道を行き、神社に近付く。
遠目で見た時の印象通りの、古ぼけた神社の木がすっかりささくれた建物の端にそっと腰掛けた。

なんと、綺麗なのだろう。

ほうっと溜息をつき、飛影は頭上を覆うような桜を見上げた。
毎年毎年、こうして桜は咲いていたのだろうに、其れに気付く事もなく生きている自分自身の生き方に、歳に似合わぬ苦い笑みが寒さに蒼ざめた唇に浮かぶ。

こんな所で蝋燭を灯したままぼんやりと桜に見蕩れているのを主人が見たら、心張り棒でぶん殴られるところだろう。だが、月が陰れば真っ暗闇だ、火を消してしまう訳にはいかない。
***

寒さに震えながらも、飛影は夢中で、首が痛くなるまで真上を見上げていた。
一体どれ程の時間が経ったのだろう、先程まではなかったはずの大きな雲がさっと流れ、弦月を隠した。

「しまった」

漂う匂いに飛影ははっとする。
紛れもない、水と土の匂い。雨の気配。
何故気付かなかったのだろう。こんな所で道草を食っている場合ではなかった。

飛影を嘲笑うかのようにざあっと降り出した雨は、乾いた大地をたちまち黒々と染め上げる。
慌てて提灯を取り神社の中へ、屋根の在る場所へと飛影は逃げ込む。

「畜生」

今度は、飛影は自分に毒突いた。
雨が降っては提灯は使えない。提灯が使えない以上、夜が明けるまで身動きは取れない。忌ま忌ましさに舌打ちしたとてどうにもならない。せめて風の当たらぬ中に入ろうと、飛影は戸を押した。

本殿と呼ぶには粗末な空間に続く戸には鍵もない。草履も脱がずに飛影は入り込む。
元々信心深い方ではない。雨風に当たらない分、外よりはましだろうと思っただけだ。草履のまま進み、砂にざらつく床へと座り込む。

息を吹きかけ、蝋燭を消した。どうせ朝まではもたないし、蝋燭の無駄分まで殴られるのも馬鹿馬鹿しい。
雨のせいか益々冷え込んできていたが、構わず床に寝転んだ。こう寒くては、眠れる気もしないが。

絶え間ない雨音。
規則正しいその音に、うとうとしかけた飛影の耳に。

ことん、と音がした。

眠りの淵から自分を引き戻し、飛影は肘を付き体を起こした。
小さな音だった。何か、物が落ちたような。

古い建物だったが、風が通る程の襤褸ではない。
気の所為だったのだろうか、だが、確かに…。

しゃらん、と音がした。

物が転げた、風が鳴った、雨が落ちた。そんな物音ではない。
鈴の音にがばりと起き上がり、飛影は身構えた。

「…誰だ」

誰も、居る筈がない。
こんな夜更けに。こんな場所に。飛影と違って、神仏を祭る場所へ勝手に入り込む程この辺りの者は罰当たりではない。

ふと、飛影の背に冷たいものが伝う。

何か、おかしい。
何かが、妙だ。

そもそも…此処に、神社などあったか?

此の道を通るのは初めてではない。何度も通った事がある。いくら日々に忙殺されているとはいえ、此処に神社がある事を知らなかったなんて事があるだろうか。飛影は眉を寄せ記憶を探るが、此の神社の事を思い出す事ができない。
さほど大きな神社ではないが、参道も其れなりに長かった。参った事がなくとも、知らぬ筈がない。

さっと目を走らせるが、暗闇で見えるものなど禄に無い。
本尊を仕舞ってあるのであろう木の扉。他には何も見当たらないように見える。

本尊とは反対の側、入ってきた木戸へと飛影の視線は移る。
なんだか此処は気味が悪い。雨に打たれるのを承知で、外で夜明けを待とうか…?

水を含んで重たくなった木戸を開け、草履の足で雨の中へ踏み出す。
たちまち体中に雨が降り注ぎ、粗末な着物を濡らした。

満開の桜は気の毒に、降りしきる雨に花を散らしている。

花を、散らして。
白いものが、ひらひらと。降り掛かる水などないかのように、ひらひらと。

…なぜそれが、見える?

月は雲が隠してしまった。提灯の火も消えた。
灯となるものは、何もない。

雨がもたらす霧の中、飛影は暗闇に浮かび上がる桜を茫然と見上げる。

「よぉ人間」

驚きの余り、声を上げる事も出来ず飛影は立ち竦む。

参道に立つ飛影の耳に、声は後ろから聞こえた。
雨音の中、低いというのに良く通る声。

振り向いては、いけない。
振り向いては、この世のものではないものを、見てしまう。

水を含んだ花弁は重く、舞う筈もない。
だが、飛影の目の前を、ふわりと掠めた白い其れは、声の方へと舞っていく。

ゆっくりと、飛影は振り向いた。
濡れた草履が、きゅうと鳴る。

「なぁんだ。雄か」

銀色の生き物が、居た。
白い装束に流れ落ちるは、雨の色にも似た銀糸。
腰を下ろしているのに解る、背の高さ。
ぞっとする程綺麗な顔の上には、桜と同じ色、真白い耳がぴんと突き出している。

「……狐」

白磁の顔に薄い笑みが浮かび、金の眼がぬるりと光る。
耳と同じく白い尾が、ふさりと揺れた。

「何をしている。来い」

長い指と鋭い爪を持つ手が、飛影に向かって差し出される。
ごくりと唾を飲み、後退ってみたが、不思議に狐との距離は離れない。

「どうした?人の屋敷に土足で入っておいて、何を躊躇っている?」
「……俺はただ…雨宿りを…」

糸を引く様な仕草で動く、狐の指先に、飛影は一歩、また一歩と歩を進める。
金の眼に吸い寄せられるかのように、狐に近付き、ささくれた階段に足をかけた。

走れ。逃げろ。振り向かずに。
暗がりで何処かへぶつかろうが知った事か。今しかないんだぞ。

自分の声で繰り返す声が、段々遠くなっていく。

とうとう飛影は、差し伸べられた手の上に、自分の手を乗せてしまう。
冷たく白い大きな掌に乗せた小さな手が、きつく握られる。

「ほう…初物とは珍しい。ならば雄でも我慢しよう」

狐の体は大きく、背丈は飛影の二倍ほども在るだろうか。
赤子の様にひょいと飛影を抱えると、狐は膝の上、絹と思しき滑らかな生地にぽんと置く。

「名は?」

唯々魅入られ、口も利けずにいた飛影は、漸く我に返る。
輝く様な生き物の上に座り込み、惚けていた自分にはっとしたが、狐の力は恐ろしく強く、腕を回しているだけの様に見えるのに立ち上がる事も出来ない。

「小さいの。名は何という?」
「……人に名を聞くなら…貴様が先に名乗れ」

妖しい金の眼からどうにか目を反らし、絞り出す様な声で飛影は言う。

面食らったかの様に瞬き、次の瞬間、狐は笑い出した。
何が可笑しいのかと睨み付ける飛影の前で、ひとしきり笑い終えた狐は、両の手を飛影の両頬に宛てがった。

「俺の名は、蔵馬」
「くら…ま…?……っん」

噛み付く様な接吻に飛影が身を捩ったのは束の間で、濡れた音が響く頃には、赤い瞳はたっぷりと潤み、小さく荒れた手は銀色の髪を絡めていた。

「…や……あ、あ…っひ、あ、な…んで……こんな…んん」
「お前が勝手に入ってきた。人の家に」

首筋を鎖骨を狐は強く吸い、跡を残す。

「んん……ああ、あ、やめ…」
「草履も脱がぬ不届き者め」

狐は飛影の着物も下穿きもするすると脱がせ、太股を撫で上げ、毛もない股間に手を這わせる。
ぶるりと震え、飛影は大きな手が其所を撫でるのを、銀糸から離した手で止める。

「……何…を…する…」
「知らぬ訳でもあるまい?」

狐の言葉に、心を読まれているようで、飛影は唇を噛んだ。

知っている。何を為れるのかは知っている。
奉公先の店。大勢の奉公人。十数人もの丁稚たちは狭苦しい一部屋に押し込められて寝起きをしていた。
なにせ奉公の身の上だ。女と遊ぶような金も時間もありはしない。年嵩の奉公人の中には、下っ端の丁稚に手を出す者も多かった。男の尻を女に見立て、油を塗って使うのだ。

年嵩の者に気に入られれば何かと得も多い。損得を考え尻を差し出す者も居たが、飛影は悉く其れを拒否していた。罵倒されようが殴られようが逃げてきたのだ。お陰で何かと面倒を被る事も多く、こんな夜更けの使いに出された事とで無関係ではない。

「お前は、逃げ回ってきたのだろう?」

くつくつ笑いながら、白い股間に垂れるものを狐は弄る。
吐息と喘ぎの中間の、声を楽しむ様に。

「なのに、いいのか?ん?」
「あ……ぁあ……く、あ、んあ…」
「お前は、俺を……」

好いたのだろう?
会ったばかりの俺に、惚れただろう?

狐の囁きに飛影は目を閉じ、解らない程小さく、頷いた。

醜いものは、嫌いだ。
自分のように小さく、異人の血が混ざっていると揶揄される赤みを帯びた眼を持つ者がそんな事を口にすれば、生意気な身の程知らずと罵られるだけだろう。だから誰にも、言った事はなかった。

醜く、臭く、不作法で下品な奉公人達。卑しい物言い、卑しい顔立ち。
そんな奴等と交わい体の中に汚い摩羅を受け入れるなど、考えただけで吐き気がした。何をされても何を言われても、絶対に其れはさせなかった。

誰にも、言ったことはない。

美しい者が、好きだった。
ずっとずっと昔から。

だからこの桜に、魅かれた。
だから今、この狐から逃げられない。

なんと、綺麗なのだろう。

泣きたい様な気持ちで、飛影は目の前の狐を味わう。
自分の胸元を探る唇も、股間を弄り回す長い指も、意地の悪い色を魅せる、金の眼も。
唇を合わせ、尻を探る指先に大きく体を開き、期待に満ちた息を吐く。

「ほぅら。いいだろう?」

冷たかった筈の狐の手は温かく、飛影の体の中に入り込む。
ゆるゆると中を掻き回し、時折引っ掻くような動きに、飛影は堪らず声を上げた。

「ああ!ああ、ん、あ!」
「いいぞ。桜が聞きたがっている。もっとだ。遠慮するな」

指を抜き差しするかの様に尻を揺らし、飛影は桜の方へ、夜の空へと声を放つ。
騒めくように桜は揺れ、白い花弁を舞い散らす。

「あふ、ふあ、あ」

指を抜いた狐が寛げた絹の狭間からにょきりと出てきたものを見ても、飛影は怯むどころか、無意識に唇を舐めた。
持ち上げられた尻の肉を、両側へ引く様に広げられる。
引っ張られた穴が開き、夜風をすうと感じた途端、熱いものがぶすりと突き刺された。

「ああぁぁぁぁーーーーっん、あぁあああ!」
「……ああ、良いな…お前は……なかなか良い」

とんでもなく痛い筈なのに、不思議と苦痛は感じない。
魔物の一物は、飛影を蕩かす様だった。

「あっ!あっあっ!ぁあっ!」

ずぶりずぶりと肉棒が体内を行き来する。
体内を掻き回され、突かれ、捻じ込まれ、飛影は悲鳴にも似た嬌声を上げ続ける。

「ふ、ああぁ、っん、ひあぁぁぁぁあ!」

尻に抜き差ししながらも、狐は初物を余す所なく味わおうとでもいうのか、両の手と唇とを使い、飛影を自分自身とを何度も、何度も高みへと押し上げる。
ざわざわと、桜が花を散らす。

降り注ぐ花。
ひらひらと舞う無数の花弁。

一際高い声が、古びた社を抜けた。

***
「もう此処を探すなよ。小さいの」

絹の上に、濡れた裸体を晒した飛影に、狐は笑んで言う。

「……何故…だ?」

息も整わず、尻の穴は痙攣でも起こしたかのようにひくひく蠢いている。
そんな有り様でも、飛影はまだ狐から目が離せない。

「探すな。今度此処へお前が辿り着いたら…」

狐の周りに、円を描いてに花弁が舞う。
まるで主人を慕って取り巻くかの様に。

「お前を攫うぞ………飛影」

雲が切れ、月が辺りを照らした其の時。
舞い散る無数の花弁は、狐を、夜空を、飛影の視界を、隠した。

「待っ……」

強く風が吹く。
花弁に襲われる様で、思わず飛影は顔を覆った。

風が止み、顔を上げた其所には。

何も、なかった。
参道も、神社も、桜も。

狐も。

店へと続く、用水路に架かる細い橋のたもとに飛影は座っていた。
辺りは明るく、どうやら朝の様だった。いつもの様に、粗末な着物と草履。傍らには火の消えた提灯。

しばし、立ち上がれずに居た。
見回した風景は見慣れたもので、此処はいつもの場所、いつもの時間だと理解するのに時間がかかった。

「………ゆ…め?」

がくがくする足で立ち上がり、土を払う。
提灯を取り、其の重みに漸く現だと理解したが、夢とは思えぬ尻の違和感に飛影は眉を顰めた。

「…寝惚けたもんだな」

疲れ果てていたとはいえ、こんな所で眠るとは。
仕事始めの刻までに戻らねばと、深い溜息と共に飛影が歩き出した其の時。
粗末な着物に張り付いていた、白。

一片の桜が、ひらりと舞った。


...End.

2016年、桜限定小話。
2019年4月再アップ。
実和子
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