願いごとひとつ「本当は、川に流すものなんだけど」 幻海の遺した庭は、山と林の中間のような場所へと続いている。 不思議にぽっかりと空いた空間で、夜の風に緑の葉がそよいでいた。 何枚もの短冊とやらがひらひらと飾られた笹の葉。 その根元に、蔵馬は小さな火を灯した。 「この辺には川はないからね。天の川に送るよ」 いつだって、蔵馬の言うことは気障だ。草むらに腰を下ろした幽助や桑原、雪菜や幽助の女たちは蔵馬の言葉に歓声を上げ、陶器の器で酒を飲みながら楽しそうに眺めていた。 昼間、蔵馬が用意した笹に人間たちは思い思いの願い事を書き付け、飾っていた。 オレにも短冊と筆が渡されたが、こんな紙切れに願いを書くなど馬鹿馬鹿しいと鼻で笑い、それでも雪菜の手前、ポケットに突っ込んだ。 狐火。 そう蔵馬が言った小さな炎は、笹と短冊とをゆるやかに包みこみ、醜い灰と煤に変えてしまうのではなく、夏の大気に溶け込むかのように、消していった。ふいに思いついて、ポケットの中でくしゃくしゃと丸まった紙を取り出し、銀色の美しい炎の中にオレは投げ込んだ。 細かな白い砂のようなものが巻き上がり、空に舞い上がる。 豊かな空が広がる森。 満点の星空に、まるで吸い込まれるかのように、願いを印した砂が消えていった。 口に出しては言わなかったが、それは本当に、見事な星空だった。 群青にちりばめられた白い輝き。 見上げた、あの星空。 あれからまた、一年が経った。 ***
「今年も七夕に集まるんだって。飛影も行くでしょう?」蔵馬の言葉に、涼しい部屋の冷たい床でうとうとしていたオレは起き上がり、溜め息をついた。 「…人間どもは馬鹿な集まりが本当に好きだな」 去年、そんなものに興味はないと何度も断るオレを、あやしまれることなく雪菜と過ごせる機会なのだからと蔵馬はしつこく誘った。 確かに、妹の姿を見たいという思いはあった。名乗ることはできなくとも、元気に過ごしている姿を見れればそれでいいのだから。 兄が生きていますように。いつか会えますように、と妙に達筆で書かれた雪菜の短冊を見るのは、ひどく居心地が悪かった。 蔵馬もまた綺麗な字で、家族の健康や幸せを願うというような、ありきたりの願いを書き、笹に飾っていたのを憶えている。 「それにほら、オレたちにとっては記念日じゃないですか?」 途方もなく綺麗な顔で蔵馬は笑う。 記念日。 その言葉が苦い水のように、胸の中に満ちる。 去年のあの日、戸という戸を開け放った幻海の寺は、緑の匂いのする風が通っていた。 薄い布団に横たわり、蔵馬がかけてくれた夏掛けをいらんと蹴飛ばし、オレは寝そべった。 大勢と過ごすのは苦手だった。泊まるためにあてがわれた部屋には二人分の布団だけがあり、ほっとしたことを思い出す。 「飛影」 当然のように同じ部屋だった蔵馬が、隣の布団にうつ伏せになっていた。 「会えて、嬉しいな」 そばがら、というものが入っているという枕の不思議な音に気を取られていたオレは、誰にだ、と聞き返してまた枕に頭を落とした。 無言のままの蔵馬を不審に思い振り返ると、オレを見つめる緑の瞳が飛び込んできた。 その表情に、胸がドクンと大きく脈打った。 片ひじをついて身を起こすと、寝そべったままの蔵馬は続けた。 「会えて嬉しい。飛影に」 「何を言ってるんだ…」 お前は魔界にいるし、オレは人間界にいる。 でも時々こうして会えると、嬉しい。すごく嬉しいんだよ。 「オレ、飛影のことが好きだよ」 まだ外にいるであろう幽助たちが大騒ぎをしている声が、遠く聞こえた。 「……好き?……オレを?…どういう意味だ」 部屋の電気は元々消されていた。 それでもたっぷりの月明かり、なんなら星明かりと言ってもいいくらいの夜空は、ささくれた畳と薄い布団を照らしていた。 「どうって」 蔵馬は笑った。オレがおかしな事を聞いたかのように。 「好きだよ」 ただ、好きだなって。飛影のことが。 お互い離れて暮らしてるから毎日ってわけにはいかないけど、今夜みたいに、一緒にご飯を食べて、空を眺めてみたりして、こうして同じ部屋で寝て。そういうことをしたいんだ。あなたを見ていたいんだよ。 「…つまり、あなたのことが、好きです」 伸ばされた蔵馬の手が、オレの頬に触れた。 オレの頬が熱いのか、蔵馬の手が冷たいのか、指先はひやりとしていた。 ただ呆然と、オレは蔵馬を見つめていた。 「オレのこと、嫌いですか?」 「…嫌い……じゃないが…」 そもそも、嫌いだったら何と理由を付けて誘われようが、こんなことのために人間界に来たりはしない。 そのくらいは蔵馬もわかっているはずだ。 「じゃあ、時々会ってくれますか?」 どう返事をしたらよかったのだろう。 着替えなんてまるで考えてもいなかったオレのためにと蔵馬が持ってきていた服は白いシャツと短いズボンで、布団の上の丸い膝から足先まで頼りなくて、自分がまるで幼い子供のように思えた。 「飛影。オレはあなたが好きです。この先、オレと一緒の時間を過ごしてくれますか?」 拒否することなど、できない。 目を合わせることもしないまま、オレはなんとか頷き、夏掛けを頭からかぶり蔵馬に背を向けた。 ***
オレが人間界に行くこともある。蔵馬が魔界に来ることもある。 そうして一年を過ごした。 食事をしたり、ただ側で眠ったり。手をつないで深い森を歩いたり、ごくたまにだが、キスを交わすこともある。 何度目かのキスの後、オレのベルトに蔵馬が手をかけてきた時があった。 オレは後ずさり、力いっぱい手を振り払い、はっきりと拒絶した。 それをするつもりはない、と。 我ながら、刺のある拒絶だった。 そんな時でさえ、蔵馬は優しい。 ごめんと謝ると、あっさりと外しかけてたベルトを戻し、頬と頬を合わせ、おやすみと微笑むと電気を消した。 あの夜、規則正しい寝息を立てる蔵馬の隣で、オレは眠ることもできずに天井を見上げていた。 後悔と、情けなさと、苦しさとで、眠ることなどできなかった。 ***
「本当は、川に流すものなんだけど」去年と同じことを、蔵馬は言う。 昼間の熱い陽射しが地面を焼き、笹は夏の熱気に揺らいで見えた。 縁側には、短冊と筆がいくつもある。 井戸水で冷やした西瓜と胡瓜と、雪菜が漬けたという果実酒の甕が並び、人間たちは相変わらず騒々しい。 「飛影さんも、書きませんか?」 雪菜が差し出した水色の紙をオレは受け取り、縁側に腰を下ろす。 ちらりと盗み見た雪菜の短冊には、去年と変わらぬ願いが書かれていた。 書き終えた雪菜が縁側から立ち上がり、束の間、辺りにはオレだけになる。 誰も見ていないことをさっと確かめ、オレは短冊に下手な筆を走らせた。 ***
「燃えちゃうのはもったいないけど、本当に綺麗だねぇ」しみじみとぼたんが言うのに、皆が頷く。 オレ以外の全員が飾った短冊が銀色の炎に焼かれ、去年と同じように笹と共に白く輝く砂になり、立ち上って夜空へと消えていく。 炎が消える寸前、オレは自分の短冊を投げ込んだ。 「あ!飛影おめー!何書いたんだよ!」 「背が高くなりますように、だっろー?」 幽助と桑原の陽気な大声に、オレはごみを燃やしただけだと、無愛想に返す。 酔っぱらっているやつらはそれ以上追求してくることもなく、互いに酒を注ぎ合い、何がおかしいのか笑い転げている。 地面に撒かれた、蔵馬の特製だという人間を刺す虫よけのすうすうするような匂い、花火の煙の匂い、甘い果実酒の匂い。 それはなんともいえない、宴の匂いだった。 虫の音が、うるさいくらいに響く。 夜はまだまだ続くらしい。 雪菜もまた、ぼたんや幽助の女と何かを囁き合っては、笑う。夜空を見上げては、笑う。 いつの間にか、蔵馬がすぐ側に立ち、空を見上げていた。 長い髪が、風を含んで広がる。 「何を書いたんですか?」 「何も書いてない。ごみをついでに燃やした」 蔵馬が肩をすくめる。 どうやらオレの言葉を信じてはいないらしい。 りりり、と虫が鳴く。 長い髪。綺麗な顔。 見納めにと、じっと見つめていると、蔵馬は不思議そうにオレを見る。 「どうした?疲れた?部屋に戻ろうか」 オレの返事を待たずに、蔵馬は歩き出した。 ***
二組の布団。薄い青をした夏掛け。腰を下ろし、着替えが入っているのであろう鞄を探っていた蔵馬が、立ったままのオレに首を傾げる。 「どうし…」 「悪かったな」 綺麗な目。森のどの緑よりも綺麗な緑。 ためらったら言えなくなりそうで、オレは吐き出す様に続けた。 「あんなことをして…悪かった。だがもう終わりだ」 「あんなことって…何の話をしてるんだ?飛影」 オレはろくな者じゃない。 でも、卑怯者ではなかったはずなのに。臆病者でもなかったはずなのに。 手放すのが、苦しくて、辛くて。 でもこれ以上続けることは、もっと苦しかった。 「あれはもう取り消した。だから」 そうだ。 去年のこの日。 水色の短冊。 誰にも見られないようにと、握りつぶしてポケットに突っ込んだ、あの短冊。 小さく小さく、かすれた文字で願いを書いた短冊。 蔵馬がオレを、想ってくれるようにと。 そう書いた。 もちろん笹に飾るわけにはいかなくて、ポケットに入れていた。 天の川に送るという蔵馬の言葉と銀色の炎に、思わず短冊を投げ入れた。 「…飛影?」 「もう、解けただろう?オレは行く」 外へと続く障子に手をかけた途端、思いがけない力で腕を引かれた。 「飛影!」 背中に、首に、肩に、蔵馬の体温を感じる。 おかしい。去年と同じように、短冊は天の川に昇ったのに。 「くら…」 「取り消しただの、解けただの、いったい何の話だ?」 声には怒りが含まれている。 謝ったとて、取り消したとて、やはり許してはもらえないのだろうか。 「…離せ」 「嫌だね。説明するまでは離さない」 「……子供の遊びだと、思ってたんだ!!」 カッとなって怒鳴ったオレに、蔵馬が目を見張る。 「遊び…?」 「本当に願いが叶うなんて、知らなかった!だから書いたんだ!お前がオレを好きになるようにって!! だいたい本当に願いが叶うならなんで言わない!? 知ってたらそんな卑怯なことはしなかっ…」 肩をつかまれ、体を返される。 向かい合って両腕を回され、息も出来ないほど強く抱きしめられる。 「短冊に、願い事を書いたの?」 「ああ!だがさっき取り消し…」 「なんて?何を書いたの?」 「お前がオレを好きになるようにって言っただろう!! 何度も言わせるな!!」 顔が熱い。 情けない。苦しい。辛い。 去年に戻れたら、あの短冊を自分の炎で焼いてやるのに。 「離せ!」 「嫌だね。何度も言わせるなよ。離さない」 「離せ!!」 「飛影。だだをこねるなよ。聞け」 その声にもう怒りがないことに気付き、オレは顔を上げる。 蔵馬が本気で怒るところを何度か見たことがある。今の蔵馬の顔は全然それではないし、むしろ、なんだか。 「お前のことが好きだよ。飛影」 笑ってる。けれどそれは蔑みではなくて。 蔵馬は、困ったように笑っていた。 「まだ……今年の短冊は効かないのか?」 「短冊、ねえ」 風が通るとはいえ、部屋は暑い。 抱きしめられているオレも、抱きしめている蔵馬も、うっすら汗ばんでいた。 蔵馬が腕をゆるめ、ほんの少し体を離した。 「飛影、あの短冊にそんな力はないよ」 あれは子供のお遊びだ。 あんなものに願いを叶える力があるわけがないだろう? 「…嘘だ。だって、お前は…あの時」 「ずっとお前のことが好きだった。言おう言おうと思っていて、それがたまたまあの日だった」 「嘘を…つくな」 「本当だよ。よく考えてみなよ。あんな紙切れに書いて願いが叶うと思う?」 思ってなかった。でも、叶ったから。 だから。 力が抜け、蔵馬の腕をすべり、布団に座り込む。 隣に座った蔵馬がくすくす笑い、汗で額に張り付いたオレの髪をかき上げる。 「飛影」 「…触るな」 小声で制し、膝を抱える。 ついさっき燃やされた笹のように、今すぐ消えてなくなりたい。 「オレがお前を好きになるようにって、去年の短冊に書いたんだ?」 「うるさい!!」 「けどそんなのはずるだって、今年は取り消したんだ?」 「うるっさい!!!!」 恥ずかしさで、爆発しそうだった。 今夜の自分も、去年の自分も、この一年間の自分も、何もかもが恥ずかしすぎて死にそうだ。 「飛影。もうひとつだけ聞いてもいい?」 「駄目だ!」 「セックスを嫌がったのは、ひょっとして」 「駄目だって言っただろうがこの馬鹿野郎!!」 そうだ。 インチキな手を使って好きになってもらって、この上抱かれたりしたら本当の卑怯者だ。取り返しのつかないことになってしまう。 そう考えたら、できるわけがなかった。 「ひーえい」 「うるさ…!」 突き飛ばされるように押され、布団に転がる。 覆いかぶさってきた蔵馬の唇が、オレの頬をなぞり、唇に重なる。 長い指が髪を梳き、舌が唇をこじ開ける。 「……ん」 「飛影…好きだよ…好き」 「…っあ…」 「好きだよ…紙切れになんか願わなくたって、オレはずっと前から…」 体中に、蔵馬の言葉が染みこんでいく。 これが夢だったら、覚めた時には死ぬしかない。 そんな絶望には、耐えられない。 両手を上げ、蔵馬の背、少し湿ったようなシャツを握りしめる。 背をつかみ髪に指を絡める。離したくなくて、力いっぱい。 蔵馬の手が、ベルトにかかる。 じれったくて、待ち切れなくて、オレは自分の手でベルトを引きちぎる勢いでズボンを下ろす。それに応えるかのように、蔵馬の手が器用にオレの足からズボンを引き抜き、もう片方の手が下腹を探る。 目を閉じたまま、足を広げた。 ***
虫は、眠らないのだろうか。息を切らし、汗だくになり、体の中に蔵馬を入れたままでそんなことを考える。 オレの両足を肩に担いだ蔵馬が腰を打ち付けるのに合わせ、オレも腰を振る。 痛くて、苦しくて、最高に気持ちがいい。 りりりり、と虫の声がする。 狭い場所を押し広げて、蔵馬がどんどん奥に入ってくる。これ以上は無理、と思う次の瞬間には、もっと奥を広げられ、オレは堪えきれずに小さく声を上げる。虫のような、小さく高い声を。 「うあぁ……あっ…あっ…ひあ」 「…ひえ…飛影…っ」 「も…、う、あ、…くら…ま…あっ…あっ…」 尻の中を刺激され、何度もイッたものが性懲りもなく硬くなる。 硬くなり、弾けて、また硬くなる。自分の体に、呆れてしまう。 腹の中に注がれた蔵馬の種を零さぬよう、きつくきつく締めると、蔵馬もまた、小さく声を上げた。 崩れ落ちるようにオレの上になった蔵馬を受け止め、互いの鼓動の早さに気付く。 布団は乱れ、ぐちゃぐちゃになったシーツは剥がれかかっていた。 襖こそ閉めてあるものの、雨戸も障子戸も開いたままで、蔵馬と折り重なっている自分が信じられない。 反対側だとはいえ、屋敷には雪菜もいるというのに。 りりり、と虫が鳴く。 乱れ切った長い髪をかき上げ、蔵馬はまた笑った。 「…最高。一年も我慢して損したなぁ」 「……オレも、損をした」 オレの言葉が意外だったのか、蔵馬は瞬く。 尻の中でまだ脈打つものをずるっと引き抜き、布団の上に起き上がる。 汗を乾かしていく風に、目を細めた。 「飛影」 「なんだ」 風が髪をほどき、微かな花火の残り香を運ぶ。 「オレはお前が好きだよ、飛影。お前は?」 そこかしこに散らばった服。 蔵馬の服のポケットから飛び出したらしい、余りの短冊もばらまかれている。 もう二度と、紙切れに願いを書いたりはしない。 願いは自分の口で伝えると、今決めた。 「…オレもお前が、好きだ」 水色の一枚を拾い上げる。 汗ばむ手のひらでくしゃりと丸め、大きく夜空へと放った。 ...End. |
2017年6月再アップ |