満つる夜「ない」 渡された細長く色のついた紙。 突っ返したそれに、雪菜は少し困ったような顔をした。 適当に答えればいい。適当に書けばいい。 わかっているが、したくなかった。 嘘はつきたくない。少なくとも今は。 ***
蔵馬の手からふわりと落ちた濃緑の葉は、土につくかつかないかのその瞬間、膨らんだかのように見えた。まわりの歓声に引っ張り上げられるかのようにそれはみるみる大きくなる。夜空いっぱいに葉を広げて。 きっかけは、雪菜だったらしい。 人間たちと散歩中、飾りを付けた笹の葉を突き出させている家の窓を見上げ、あれは何かと問うた。それがこの集まりになったというわけだ。 夜も遅くの電話に、いいよ、と二つ返事で引き受けた蔵馬は、つぶれ顔の家の庭に大きな笹を植えた。植えたと言うのか、生やしたと言うべきかはわからないが。 七夕。笹の葉。短冊。願い事。天の川。一年に一度の逢瀬。 人間たちは我先にと雪菜に説明をする。 なんか折り紙で作った輪っかとかあってさ、短冊に願い事書いて吊るして。子供の頃には毎年したよな、懐かしいな、などという話に雪菜は首を傾げた。 「子供の頃?」 「そうね。子供の頃にした。幼稚園や学校でも書いたよね」 幽助の女の言葉に、雪菜は不思議そうに聞き返す。 「今はしないのですか?」 「うーん。しないかも。小さい子供のいる家だけかもね」 「なぜですか?大人になると、願い事はなくなるのですか?」 幽助に、幽助の女。つぶれ顔とその姉。人間たちは、言葉に詰まる。 雪菜さんは純真だなあ、などと、つぶれ顏は一人うっとうしくにやけている。 「そんなことも、ないんだけど…」 よっしゃ、と幽助が煙草を消す。 「じゃあ短冊も書くか!螢子、紙買ってこいよ」 「何を命令してんのよ!あんたが行きなさい!」 蹴飛ばされ、ブツブツ言いながら幽助が買ってきた色とりどりの紙。 綺麗な輪っかに。折りたたんで星のような形に。あるいは網の目のような切り込みを入れて。 「何書こうかな」 「やっぱ宝くじだろ」 「夢ないな」 「こないだどっかの保育園の外に吊るしてあったやつにも、宝くじ当たれって書いてあったぞ」 「親が書かしたんじゃねえの」 やつらは好きなことを言い合い、手に手に紙を取る。 蔵馬は微笑みながら、オレは蔵馬の隣でぼんやりしながら、参加するでもなく眺めていた。 ふと、雪菜が駆け寄ってくる。 二枚の紙を持って。 「どうぞ」 薄紅色の紙を受け取り、ありがとうと蔵馬は笑む。 「飛影さんも、どうぞ」 雪菜がオレに差し出した紙は黄色で、寝ぼけたような色合いだ。 「いらん」 「願い事、ないんですか?」 「ない」 ためらいなく、きっぱりと返した。 願い事など、何もない。 おろおろと紙を引っ込めた雪菜に、人間たちは騒々しく声をかけ、オレから離した。 「雪菜ちゃん、こっちこっち」 「やだねー。ガキのくせに可愛げのないやつは」 「いいんですよ雪菜さん!こんなやつはほっときましょう!」 こちらを振り向きつつも、雪菜は騒々しい輪に戻る。 次々に紙の飾りを付けられた笹は、重そうに枝をしならせる。 「カズー。そうめん茹でたよー」 つぶれ顏の姉の声をきっかけに、オレは蔵馬のシャツをそっと引く。 帰りたいとの意思を込めて。 「オレたちはもう夕食すましましたから。今日はこれで失礼しますね」 女たちはええ?だの、待ってだの抗議の声を上げるが、蔵馬はただ笑う。 「蔵馬さん、短冊は?」 「オレですか?」 人さし指を口元に当て、蔵馬は雪菜に片目をつぶる。 「オレの願い事は秘密。家でこっそり書きますよ」 ***
「まったくもう。あなたときたら」マンションには夕食の匂いが微かに残っていた。 電話がかかって来た時は、蔵馬は夕食後の皿を片付けている最中で、オレはそれを眺めていた。 洗いかけだった皿に、蛇口から冷たい水がほとばしる。 「適当なこと書いときゃいいのに」 「願い事なんぞ、ない」 「なんでもいいんだよ。躯に勝つとかさ。大人気ないんだから」 「…なんで大人にならなきゃならん。オレと雪菜は同い年だ」 蔵馬は泡だらけの手をそのままに驚いたように振り向き、一瞬ぽかんとし、弾けるように笑いだした。 おかしくてたまらないとでもいうように、背を反らせて。 「そうだね…!ほんとにそうだ」 ほんの数秒か、数分の差だもんね。 そんなこと、考えたことなかったよ。 蔵馬はひとしきり笑い、皿を洗い終え、手を拭いた。 薄紅色の紙を手に取り、オレをじっと見る。 「ねえ、飛影。オレがなんて書くかは知りたくないの?」 洗い上げたばかりのグラスに水を張り、蔵馬は再び緑の葉を落とす。 庭に植えたものほど大きくはないが、天井にぶつかるぎりぎりまで笹の葉は繁る。 オレの答えを待たずに、蔵馬はペンを走らせる。 飾りのない笹の葉に、たった一枚、薄紅色の短冊が吊るされる。 チラリと見た短冊には、綺麗な文字が並んでいた。 蔵馬の願いが、そこにある。 オレは立ち上がり、蔵馬の目の前に立つ。 腕を回し、白いシャツの胸元に顔を埋めた。 髪を撫でる指先の温度。 薄い布ごしの蔵馬の温度。 「望むことなど、何もない」 蔵馬の両手が、オレの頬を包む。 唇が重なる寸前、囁くようにオレは伝えた。 「…オレの願いはもう、叶っている」 これ以上、何を望んでもきっと、罰が当たる。 一年に一度しか会えないようなやつらに、祟られる。 窓からのぬるい風に、短冊が揺らめいた。 ...End. |
2015年12月1日再アップ。 |