予言者

「俺が、お前をちゃんと守ってやる」

髪の毛にくっついた虫に半泣きだった私に、飛影はそう言った。
あれはいつのことだったろう。小学校の二年生?三年生?多分そのくらいだ。

私たちは、あの頃もちっちゃかった。背中では、大きすぎるランドセルが揺れていた。
大きすぎるランドセル。私のはピンクで、飛影のは黒だった。

捕まえた虫をぽいと草むらに投げ、もう大丈夫だぞ、と飛影は私の髪を撫でた。

「あー恐かった!虫大っ嫌い!!…ありがと。飛影って、お姉ちゃんじゃなくお兄ちゃんみたい」

笑ってそう言うと、飛影はちょっと嬉しそうだった。

きっと、本当にお兄ちゃんになりたかったんだと思う。
ずっとずっと子供のままだったら、飛影は私のお兄ちゃんでいられたのかもしれない。
***
箱から出した真新しい制服は、黒のワンピースにボレロ、濃緑のリボンといういかにもお嬢様学校風の、なんだか古風な形で、でも私はまあまあ気に入った。スカートを履く習慣のなかった飛影はといえば、いかにもげんなりという風に制服を見下ろしてはいたけど、こればっかりはしょうがない。まあ、黒であることは救いだろう。

「なんかレトロー。でも結構かわいいね?」
「…こんなもの」
「やっぱ、スカート嫌?」
「スカートは女が履くものだろう」
「だって」

だって、飛影は女の子だもん。
でも、そう言ってしまうのは、なぜかできなかった。私がそれを言ってしまったら、飛影がすごく傷つくような気がして。
男に生まれたかったと心底思っている飛影に、そんな考えはバカみたいだなどと告げて、悲しませるのは嫌だった。

夜になって帰ってきたママは大はしゃぎで、私たちに制服を着せて写真を何枚も撮った。
元々口数の少ない飛影は、ほとんど喋らずに、心ここにあらずな顔をしていたっけ。
***
中学に入学して、初めての夏が終わろうとしていた頃だった。

「お赤飯〜?」

ママにぎゅっと抱きしめられたまま、私は口を尖らせた。

「あんまり好きじゃないなあ。せめて栗ご飯とか山菜おこわとかにしてくれない?」

お赤飯は好きじゃないのは本当だけど、半分は照れ隠しだった。
いわゆる“大人”になったことが、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気分で。

「こういう時はお赤飯なの!そう決まってるんだから!泪のお店でお祝いしましょう」
「ええ?お祝い?オーバーだなあママ」

ママは私を抱きしめたまま、にこにこしたまま、仏頂面をしている飛影に笑いかけた。

「大丈夫よ飛影、あなたにもすぐくるわ。心配しないで」

ママのバカ。
ママはなんにもわかってない。

案の定、飛影はガタンと椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。

「…俺には、そんなものは来ない!」

きょとんとするママに、捨てぜりふを残して。

そんなものは来ない。

もちろんそんなわけにはいかなくって。
飛影にもそれが訪れたのは、私がトイレで、わっ!と叫んだ日から、たったの一週間後のことだった。
***
あまり寝起きはいい方じゃない。
でも、隣のベッドの気配に、ふと目が覚めた。

お揃いの、すぐ隣のベッドでは、飛影がお腹を抱え込むように丸くなり、苦しそうに肩で息をしている。
私は慌てて起き上がって、枕元の小さなライトを灯した。

「飛影!大丈夫?」

飛影は苦笑いし、小さく頭を振る。
やわらかいオレンジ色のライトの光でも、飛影が真っ青なのはわかった。

「待って、ママ起こしてくる」
「いい。よせ…大丈夫だから」
「だめ!真っ青だよ!」
「すぐ…治まる…大丈夫だ」

まるで、自分が女であることを受け入れられない飛影の心に同調するように、毎月毎月、生理はひどく重くて、その辺で売っているお薬もあまり効かなくて、見ているこっちがしんどい。
なんだか、飛影の体は、全身全霊で女になることを拒否している、みたいに見えた。

トイレ、と小さく呟いてよろよろ立ち上った飛影の後に、ついて行く。

お手洗いと、洗面台は一階と二階の両方にある。
人に言うと、めずらしいね、って言われることもあるけど、ママの洗面台占領時間、および占領面積は半端じゃないのだ。新製品の化粧品のテスターやらなんやら、ずらーっと山ほど並んでる。まあ、仕事柄しょうがないんだけど。

トイレに突っ伏した、飛影の背中は震えている。

「無理して食べなきゃいいのに」

背中をさすってやる。
ママが一緒に夕ご飯を食べる日は、いらない心配をさせまいと、飛影は生理中で具合が悪くても、きちんとご飯を食べる。あげく、戻してしまうのだ。

いつの間にやら季節は秋になっていて、トイレの中は寒かった。
背中をさすってやりながら、飛影の首筋が透けるように白いことに、私は初めて気付いた。
***
「わかってますって、先に私が行って準備しておきますから!」

携帯を右耳と肩の間に挟んで、会社の誰かとママは喋っている。乱雑にお皿にあけられたスクランブルエッグとベーコンが、湯気を立てている。
同時にチンと鳴ったトースターから取り出したパンに、バターを塗る。

立ったまま口紅を塗り、バッグにあたふたと荷物を詰めるママ。
いつもの朝の光景だ。

「あなたたち、パンは自分で焼いてね。遅刻しないで行くのよ」
「大丈夫。ママこそ遅刻しないでね」
「はいはい。じゃあ行ってきます。戸締まり気をつけてね!」

慌ただしく、玄関から飛び出して行くママ。

わかってる。ママは忙しい。
女手ひとつで私たちを育ててくれている。すっごく、忙しいのだ。
私たちは双子だから、進学だとか、いろいろなお金がいつでもいっぺんに二人分必要になってしまうし。

それでもなんだか今日はママに腹が立った。
お腹が痛くて一睡もできなかった飛影の、青ざめてむくんだ顔にも気付かないママに、腹が立った。

見るのも嫌だというように、スクランブルエッグの皿を飛影は遠ざけた。
***
バスは、いつも通り混んでいた。揺れと、人いきれと、バス独特のにおい。
いいにおいとは、言いかねる。

「……雪菜」
「飛影、大丈夫?」

大丈夫、ではなさそうだ。
そっと触れた飛影の手は、びっくりするほど冷たい。

「…だめだ。降りる」

酔った、気持ち悪い、と小さくうめくように言い、降りたこともない停留所で開いたドアから、よろめくように降りた飛影を追って、慌てて私もステップを飛び降りた。

外の空気はまだ朝の温度を残していて、冷たくて、気持ちいい。忙しい朝にベンチに座る人などいないらしい。その古ぼけたベンチに飛影を座らせようかと思ったけれど、排気ガスのにおいが気になって、少し離れた、準備中の札のかかったレストランの入口の階段にした。
学校への連絡も、忘れずに。お嬢様学校なもんだから、無断欠席は怒られるというよりも心配されちゃうのだ。

いつも通る場所なのに、見たこともない、知らない場所。バスは次々にやってきて、次々に去って行く。会社へ、学校へ。みんな足早にどこかへ行ってしまう。
十五分ほどもぼんやりしていただろうか。私の肩にもたれて目を閉じていた飛影が、ゆっくり目を開け、溜め息をついた。

「気分はどう?大丈夫?」
「…ああ。お前、学校行っていいぞ」
「気にしない気にしない。どーせ遅刻だし。今日は一緒にサボちゃおうよ」

また、バスが来る。轟音を立てて、走り去る。
ラッシュ時を過ぎようとしている九時半、だんだん人は少なくなってきた。
バス停にあった自販機で温かい紅茶を買って、飛影の冷たい手に握らせた。

「あったかいでしょ」
「……」
「落ち込まないで、飛影。今日はサボって家でごろごろしちゃおうよ」
「…気持ち悪い…腹が痛い…」
「だーかーら、今日は家に帰ろうよ」
「……こんな風に、なりたくなかった」

飛影が呟く。
途端に、息せききったように、言葉が溢れ出した。

ー俺はお前の姉なんかじゃなく、兄になりたかったのに
ー女なんか、うんざりだ。この体も、何もかも
ーこの先もずっと、俺は女の体で生きていくなんて
ー嫌だ。本当に、嫌だ

いつだって外で遊んでばかりいて、小麦色に日焼けしていた飛影の肌は、いつの間にか私やママのように、白く透き通る肌になっていた。痩せているのには変わりはないけれど、ほんの少しだけど、体全体がやわらかみを帯びてきている。

私たちは、少女に、そして女になろうとしている。
そこからは、逃れられない。目を背けていたって、この体は、着々と時を刻んでいる。

「うーん、でもさ、飛影」

私たちは姉妹だもん。つまり女の子なわけ。

「素敵な人に、出会っちゃったりしてさ。いつかきっと、女の子としての幸せ?そんなものも手に入る日が来るよ」
「…いらん。俺はそんなものは、いらん!」
「でもさ、なんか、私、予感がするの」

予感?と飛影が顔を上げる。
赤い瞳、白い肌。

飛影は、綺麗だ。
男の子たちはまだ気付いていないかもしれないけれど、私はもうわかっている。

「私さ、こんなに美人でモテるのに、最終的には心優しき不細工な男と結ばれる予感がするんだよね」
「…なんだそれ…しかも自分でよく言うな…」

ちょっとだけ、飛影が笑った。

「なんかそんな予感がするの。でね」

飛影は、すごくカッコいい人と結ばれる気がするの。
私の方がモテるってのに。でもまあ、私が綺麗だから、相手は不細工でもいいかもね?私が補えるし。

「お前なあ…」
「だから」

一緒に、幸せになろうよ。
ずっとずっと、私が飛影の側にいる。
いつか、私よりももっと飛影を好きで、私よりももっと飛影のことをよくわかっている人が現れるまで。

「絶対に、離れないから」
「……何、言ってんだ」

わかってる。飛影が短い髪をかき上げるのは、照れている証拠だ。

あの日、飛影に語った予感は、適当な慰めなんかじゃなかった。

多分私は、予言者だったのだ。
***
キッチンは甘く香ばしいにおいで満たされている。

「雪菜ちゃん、おはよう」
「おはよ…。もっかいオヤスミしてもいい?一限サボっちゃおうかな…」
「だーめ。単位落としちゃうよ」

昔も今も、朝は苦手。
バッタリ、倒れるみたいに椅子に座った私の前に、冷たいハーブティーが出される。レモングラスのいい香り。
サラダは彩りも鮮やかに、冷たい器に盛られていた。焼き立てのスコーンには、クロテッドクリーム。クリームチーズと手作りジャムも添えられている。

「スコーンって、普通アフタヌーンティーじゃないの〜?」
「朝の甘い物は、脳を活性化させるんだよ」
「…はーい」

いつも通り、大慌てのママがキッチンに飛び込んできた。

「遅刻遅刻!」
「おはようございます、氷菜さん」
「おはよ!あら美味しそう!でももう行かなくちゃ」
「あ、氷菜さん」

スコーン、今朝焼いたんですよ。多めに包んでおいたんで、会社でどうぞ。玄関に置いておきますね。

「…素敵」
「は?何言ってんのママ」
「こんないい男捕まえてくるなんて。飛影ってば」
「もう。バカ言ってると遅刻するよ」

ほんとだ!とママはキッチンを飛び出して行った。
ドタバタと靴を履き、いってきまーすと大声を張り上げて。

「ほんとにママときたら」
「あはは。元気でいいじゃない」

私のためにサラダにドレッシングをかけながら、彼は笑う。

「朝からスコーン焼くなんてマメだねー」
「今日は定休日だからね」
「飛影は?一限ないの?」
「生理中だから、まだ寝せさてあげようと思って」

なるほど。
奥でコトコト湯気を立てているお鍋は、生理中で具合の悪い飛影でも食べれる、梅と大根とかつおぶしのリゾットだ。

「これ食べさせたら、薬飲ませるから大丈夫だよ」
「…ねえ、蔵馬さん」

はい?と返事をした彼は、長い髪をポニーテールに結び、エプロンを着けているという姿でも、かっこよかった。

「飛影のこと、好き?」

味見をしていたお皿から口を離し、蔵馬さんが、真っ直ぐ私を振り向く。

「はい」
「大好き?」
「…はい」

その、微笑み。

やわらかく、けれども凛とした、強い意思。
私に微笑んでいるけれど、私を通り越して、飛影に微笑みかけている、この人は。

「私、やっぱり予言者だな」
「え?」

なんでもなーい。笑ってかわし、スコーンを頬張った。

「晩ご飯、中華がいいな。あの辛い麻婆豆腐食べたい」
「飛影のお腹痛いのが治まってたらね」
「はいはーい。ダメだったら梅リゾットでもいいよ」

玄関に置かれたランチバックをひょいと取る。本日のランチは“姉の旦那さんお手製のお弁当”だ。大変手の込んだ美味しいお弁当でありまして、私としては文句は何もございません、と。

「いってきまーす」

いってらっしゃい、車に気をつけて、という優しい声に送られて、私は玄関を出る。
道路に踏み出した途端、視線を感じて、二階の窓を見上げた。

出窓に寄り掛かり、私に向かって力なく白い手を振っている。
あまり顔色は良くないけれど、どうせ一日中蔵馬さんがベタベタと世話を焼くのだから、大丈夫だ。

私よりももっと飛影を好きで、私よりももっと飛影のことをよくわかっている人が、飛影の側にいるのだ。

それが嬉しくて、幸せで、子供みたいに飛び跳ねたくなってしまう。
少しも寂しくなんかない、と言ったら嘘になるけど。

「飛影!いってくるねー!」

両手を力いっぱい振り返して、駅への道へを私は駆け出した。
晩ご飯は、麻婆豆腐だといいな。


...End