白い帽子つやつやに磨き上げられたドアには、一枚の紙が貼られていた。すっかり暗くなった窓の外とは対照的に、花と緑のあふれる店内はやわらかく明るく、新鮮で冷たい香りが満ちている。 「げ、高っけえ!」 落ち着いた店に似合わない頓狂な声を上げ、ドアに貼られた紙を幽助は指で弾いた。 ***
白いシャツにジーンズ、シンプルな黒いエプロンという、いつも通りのスタイル。長い髪を束ねた店主は、友人のためにとのんびりとティーカップをあたためている。 「おい、蔵馬。なんだこれ」 「フラワーアレンジメント教室、です。ブーケなんかを作るんだ」 「はあ?花束作るのを習うのか?こんなもん金出して習うやついるのか?」 茶色のドアにベージュのマスキングテープで貼られた紙には、手書きの綺麗な文字でそう書いてある。 ドアを傷めぬよう、蔵馬は丁寧に貼り紙を剥がした。 「いるみたいだよ。一昨日貼ったんだけどね、もう満員なんだ」 「マジ?ぼったくりじゃねえの?」 「そうかなぁ。だって、花は五千円分くらい使うし、お茶とお菓子もつくよ?」 「高けぇよ」 「まあまあ。初めてだからね。試しに月一回やってみるんだけど。今後もずっと予約が埋まるとは限らないよ」 「新規事業ってやつか」 「そんなオーバーなものじゃないんだけどさ。隣が空いたんだよね」 花屋の隣は、スパゲティナポリタンの美味しい昔ながらの小さな喫茶店だったのだが、七十になったという店主は、もう引退だと、先月で店を閉めたのだ。 いや、ほれ、なんだ。せっかく隣が花屋だったんだからな。まあ今日くらいはな、かみさんにな。俺は花なんつう柄じゃねんだけどな。 そう言って照れくさそうに花を買いに来た男を思い出し、蔵馬は微笑む。 空店舗となった隣を、蔵馬は花置き場にと、試しに半年ほど借りる契約をした。 「喫茶店だったから、テーブルとか椅子とかそのままあってね」 椅子?テーブル?いやいや、持ってくほどの物じゃないさ。あんたここも借りるんだって?使いたいんならそのまま置いてくよ。 元々処分するつもりだったんだ。こんなもん持って帰ったりしちゃあ、かみさんにどやされるよこっちは。 ならばお礼にと、たっぷりと大きな花束を蔵馬が渡すと、古希を迎えた男は驚き遠慮をしたが、結局恥ずかしそうに受け取り、それでもいそいそと帰って行った。 「フラワーアレンジメントを教えて欲しいってお客さんが結構いたから、試しに隣でやってみようかなって」 「しっかし二時間で一万円かよ」 「満員だからね。需要と供給。そういうことで」 ティーポットをテーブルに置いた蔵馬は、staff onlyと書かれた部屋から、小ぶりな瓶を持ってきた。 「お客さんには出さないんだけど、君には特別に淹れてあげる」 「ん?オレンジ?」 きちんとあたためたカップに、瓶から取り出した薄切りオレンジのシロップ煮が一枚、とろりと入れられる。その上から注がれた熱い紅茶は、みずみずしく甘酸っぱいオレンジの香りとともに、金色の輪を浮かべた。 「どうぞ。飛影のオレンジティー」 「飛影の?」 「これオレンジ、飛影が作ったシロップ煮なんだ。すごく美味しいんだよ」 「…それをお前、飛影のオレンジティーって呼んでんの?」 「そう。飛影の、って付けると美味しさ倍増じゃない?お客さんには出さないんだからね。ありがたく飲んでくださいね」 「……ほんっと相変わらずキモいな」 閉店後の店内には他に人はおらず、二人は客用のテーブルでのんびりとカップを傾ける。 上品ぶった飲み物は苦手だ、俺は缶コーヒーかなんかでいんだよ、と、常々言っている幽助だったが、甘く、香り高く煮つめたオレンジと上質な紅茶は、素直に美味しいものだった。 「飛影は元気か?」 「うん。今日は部活終わったら雪菜ちゃんと店に寄るって言ってたけど」 「じゃあ、みんなで飯でも行くか」 「いいね。螢子ちゃんも呼びなよ」 「あいつ学校のグループ研修だかなんだかで、今週ずっといねーんだ」 「そっか。さみしいね」 「おめーじゃあるまいし」 ティーポットとカップの並ぶテーブルには、先ほど蔵馬が剥がした紙が置かれている。 「これさ、客って女ばっか?」 「そうだね。女の人ばっかりだったな」 カチャンとカップを置き、幽助がニヤッと笑う。 「それってよ、純粋にアレンジなんとか目当てか?」 「どういう意味?」 「お前目当ての客なんじゃねーか?飛影は怒らねぇの?」 ニヤニヤ笑いのまま、幽助は続ける。 あいつさ、実は結構やきもち焼きなタイプじゃね?女ばっかり十五人。しかもどうせお前目当ての女だろー? まあこんなもんに一万円払う客なら、そんなに若くはねえだろうけどさあ。 「馬鹿馬鹿しい。そりゃ女の人ばっかりだけど」 「そうかー?過ちってのはどこに転がってるかわかんねえもんだぞ?」 「オムツしていた頃から知っている女の子と結婚した人が、何言ってんだか」 反撃しようと幽助が口を開きかけた瞬間、ドアの鈴がリンと鳴った。 「あれ?幽助さん?」 右側が長く、左側が短いという、アシンメトリーな黄色いワンピースを着た雪菜。大きな白い帽子もよく似合う。 続いて店に入ってきた飛影は、相変わらず黒いジーンズに黒いシャツという出で立ちだ。 雪菜は白の、飛影は黒の、教科書が入っているとおぼしきお揃いのトートバックを持っている。 「どうした幽助。店が潰れたのか?」 「なんつーこと言うんだ飛影ちゃんよ。んなわけねーだろ。定休日なの!」 パチンコの景品のチョコレートで、幽助は飛影の頭を叩く。 彼氏の友人から夫の友人、に変化した幽助だったが、人見知りの飛影にしてはめずらしく、不思議と気は合うようだった。 土産、と言って幽助が持ってきたビニール袋には、ごちゃごちゃと景品の菓子やらジュースやらが詰まっている。 「勝ったのか?」 「当たり前だろ。晩飯おごってやんぞ」 「だってさ。飛影、雪菜ちゃん、何おごってもらおうか?」 「じゃあ焼肉!」 嬉しそうに、雪菜が言う。 椅子に座った飛影は、蔵馬の飲みかけのカップを取り、テーブルの上の紙を無意識に手で押しのけた。今にも落ちそうになっていた紙を幽助はさっと取ると、飛影の顔の前でヒラヒラさせる。 「なんだ?」 「いいのかなー?こんな教室開いちゃって?」 飛影はもちろん知っていたのだろう。紙を手に取ると、ああ、と蔵馬を見上げる。 「申し込むやつ、いたのか?」 幽助と、まるで同じことを言う。 「うん。もう満員なんだ」 「暇と金のあるやつが多いんだな」 肩をすくめて残りの紅茶を飲み干した飛影に、幽助が絡む。 「いいのか?申し込んできたの、女ばっかなんだぞ」 「だからなんだ?」 眉をしかめた飛影の手から、雪菜が紙を取る。 「ふーん。これって、蔵馬さん目当てでしょ?」 「ちょっと、雪菜ちゃんまで何言うの」 片付けをしようと、小さな木の盆にティーポットをのせたところだった蔵馬が、困惑した声を出す。 「だって、ねえ?」 雪菜は幽助と目を見交わし、くすっと笑う。 「ここのお花は綺麗だし、蔵馬さんのアレンジもかっこいいよ。でもさあ、教室?講座?それやって欲しいって前から言ってきてた人たちって、みんな蔵馬さん目当てなんじゃないの?蔵馬さんに教えてもらいたいんでしょー?」 「なー?雪菜ちゃんもそう思うだろ?」 飛影は雪菜の手から紙を取り返し、黙ったままそれを見下ろしている。 「もう。二人して何言ってるの。平日のこんな時間なんて、結婚している主婦の人がほとんどだよきっと」 「どうかなー?わざわざ仕事とか学校とか休んで来る人もいるんじゃないの?だいたい主婦が恋しないとは限らないしー」 「だよなー。いやーモテる男は違うねえ。心配だろ、飛影?」 二人の面白そうな、一人の困ったような。 三人分の視線を浴びた飛影は、少しの沈黙の後、フンと鼻で笑った。 「何が心配なんだかな。アホな話はここまでだ。腹が減った」 「わーい。焼肉!行こ!」 さっと立ち上がった雪菜と飛影に続き、男二人も店を出る。 くしゃっと握った紙を、飛影はポイと店のゴミ箱に捨てた。 ***
右側が長く、左側が短いという、アシンメトリーな黄色いワンピースを着た少女は、街路樹の下に隠れるように立ち、すぐ側の雑居ビルの一階を見つめている。五月の風はあたたかだったが、今日は少し強い。黄色いワンピースを、風が時折乱す。 白い手が、大きな白い帽子が飛ばぬよう、そっと押さえる。 雑居ビルの一階。 少女から見て左側の花屋はcloseの札を出している。それはそうだ。店主は隣で“フラワーアレンジメント教室”とやらを開催している。 花屋の窓は大きなものが一つだが、喫茶店だった隣は、道路に面した部分は全てガラス張りだ。中の様子はよく見えた。 店にいるのは女性ばかりで、男は店主だけのようだ。 たくさんの花が、紙だのリボンだのハサミだのの道具とともに、喫茶店のテーブルを埋めている。 長い髪の店主が何かしら言うたびに、女性たちは激しく頷き、目を輝かせているが、どうもその視線は花より店主に注がれている時間の方が多いようだ。 生徒たちに囲まれ、にこやかに、手際よく店主は花を扱う。 ふと、店主が何かを話しかけ、女性の一人の手を取る。 それは単に、上手く花を束ねられずにいる生徒の手伝いをしただけのことだ。 少女の手が帽子から離れ、ふわふわしたワンピースの布をぎゅっと握る。 白いミュールのつま先が、街路樹の根元の小石をコンと蹴る。 一際強い、風が吹いた。 「…あ!」 白い帽子が、風に舞い上がった。 窓の向こうの女性の一人と、少女の視線が合う。 少女は素早く帽子を拾ったが、遅かった。 何人かの女性が指差した窓の外を、店主もまた、見てしまった。 「飛影!?」 元喫茶店のドアがバンと開けられ、蔵馬が飛び出してくる。 慌てて逃げようとした飛影だったが、ひらひらとしたワンピースも、履き慣れぬミュールも、走るには不向きでよろけてしまう。何歩と走らぬうちに、蔵馬の手に捕まった。 「飛影!? どうしたの!?」 「なんでもない!」 「あれ?なんで雪菜ちゃんの服着てんの?」 「やっかましい!!」 黄色いひらひらのワンピース。 白い帽子の下の顏は、真っ赤に染まっている。 「あ、もしかして手伝いに来てくれたの?」 「違う!」 そこでようやく、三週間程も前の、幽助と雪菜の会話を蔵馬は思い出す。 「……もしかして妬いてます?」 「違うっ!! 自惚れやがって!…その…通りかかっただけだ!!」 「雪菜ちゃんの服着て?」 「うるっさい!!」 ドアに、窓に、張り付くようにして女たちがこちらを見ている。 腕を振りほどこうとした飛影の耳に、甲高い声が飛び込んでくる。 「せんせーい。どうしたんですかあ?」 「見えない見えない。私も見たい!」 「誰誰?先生その子はー?」 「え?もしかして…?」 蔵馬が店を振り向いた。 満面の笑みを浮かべているだろうことは、見えなくとも飛影にはわかった。 「妻がねー、来てくれたんですよー」 「ちがっ…!バカヤロウ!! 離せ!」 嬉しそうな蔵馬に、路上だというのにぎゅうと抱きしめられる。 黄色い声、というのはこういう声だというような声が、二人の背後で上がる。 「紹介しますねー。この人、俺の奥さんな…いたっ!」 飛影はどすっと、腹にパンチを食らわせる。 その隙をついて、飛影はするっと腕の中を脱け出し、さっと脱いだミュールを両手に持つと、今日の風のように駆けて行ってしまう。 落としてしまった白い帽子を、そこに残して。 ***
「わざわざ“変装”して、様子を見に来るなんて…」くっくと笑いながら、白い帽子を拾い上げ、蔵馬は汚れを払う。 やわらかく真っ白な、雪菜の帽子。汚したりしたら、きっと怒られる。 「…ほんと時々、かわいいことするんだから」 窓に鈴なりになった生徒たちに、蔵馬はなんでもないというしるしに笑ってみせる。 「今日の生徒さんたちには、サービスしないとね」 蔵馬は呟く。 ケーキは用意してあったが、とっておきのチョコレートと、オレンジティーも振る舞おう。 これ、妻が作ったんですよと言って、飛影のオレンジティーを淹れよう。 大好きな大好きな妻が作ったんです、心して飲んでくださいねと、 笑って言おう。 弾むような足取りで、蔵馬は店へと戻った。 ...End |