ハッピーバレンタイン

花屋の冷蔵庫はそう大きくはないが、大きな銀色の把っ手がかわいらしく、ずんぐりとしたレトロなデザインが店の雰囲気によく似合っている。

そう大きくはない冷蔵庫の冷凍庫も、必然的にさほど大きくはない。
その冷凍室にぎっしりと詰め込まれた、種々雑多なアイスクリームに飛影はため息をつく。

「雪菜!」
「なーにー?」

奥の部屋、と呼んでいるスタッフルームで、店に来る途中のコンビニで買ったアイスクリームにスプーンを突き立てたまま、雪菜が振り向く。

冬のさなかの二月にひらひらとした薄手のワンピース、素足に短いレースの靴下、ゆうに十センチはありそうな細いヒールの靴という出で立ちの妹に、飛影はもう一度ため息をつく。

「店で使う氷を入れる場所なんだぞ」

たくさんの注文や、配達のための伝票を書く客のために、店には茶や茶菓子の用意が常にある。
この季節に冷たい飲み物を希望する客はそうそういないが、それでも氷は切らさずに冷凍庫に入れてある。

「お前のアイスクリームでぱんぱんじゃないか」
「見かけるとねえ、買っちゃうんだよね」

アイスクリームに目がない雪菜は、コンビニでスーパーで新製品を見かけるたびに、お気に入りが安売りされているたびに、買い込んでは冷凍庫に詰め込むのだ。
家の冷凍庫ならまだしも、最近は義兄の店であるこの花屋の冷凍庫さえ、アイスクリームに侵食され始めている。

「家に持って行け。ろくに手伝いに来るわけでもないくせに、まったく」
「じゃあ、今、三個ずつ食べる?」

夜には雪もちらつこうかという寒さの中、アイスクリームを三個食べようなどという提案に飛影はぶるっと震える。
せめてめちゃくちゃに詰め込んである中身を整理しようと小さなテーブルを引き寄せ、冷凍庫の中身を並べ始めた。

カップが変形するほど詰め込まれていたいくつものアイスクリームの奥には、客用の氷の袋、冷凍の食品が少し、それと。

ごく小さな、ガラスの器。
手のひらに乗るほど小さく、蓋もガラスでできているが、びっしり付いた霜で中身はまったく見えない。
冷たく凍る器を片手に、飛影は首を傾げる。

「なにそれ?」
「わからん。なんだろうな」
「蔵馬さんのへそくり?」
「この大きさでか?そんなわけないだろう」

凍りついているせいで、なかなか蓋が開かない。
両手で包んであたため、ようやく微かにゆるんだ蓋を飛影はねじる。

キッ、と音を立て開いた蓋。
中身もまた霜に覆われ、なんだかさっぱりわからない。

水色と白とキラキラした何かで彩られた雪菜の指先が、霜を払う。
似ていない双子は似ている表情で、冷たさに赤くなった手のひらの上のガラスを見つめた。
***
「俺と?」

風呂上がりの紅茶のカップ越しに、飛影はしかめっ面をする。
ほろ苦い黒糖カラメルをたっぷりかけたほうじ茶のプリンは、料理屋を営む泪の試作品だ。

「うん。明日、部活休みでしょ?」
「行かん」

ゆるゆるとやわらかな今風の物ではない、しっかりと硬めのプリンを飛影は口に運んだ。

「ママが義理チョコ買ってきて欲しいんだって。お金預かったの」
「お前、そういう買い物好きだろう。友達と行ってくればいい。人混みは嫌いだ」
「だって、飛影もチョコ買うでしょ?」

スプーンをくわえたまま、飛影は困ったような顔をした。

「…チョコ、いるのか?」
「いるでしょ。人生で初めての彼氏にチョコ買わないなんてあり?」

転校してきた共学の中学校で早々にできた彼氏とやらは、年が明け二月になった今も無事続いている。
温室で食べる昼食も、土日のささやかなデートも、飛影にとっては幸福な時間だった。

バレンタインデー。
チョコレート。

蔵馬は、チョコを期待しているだろうか?

陶器の器から丁寧に黒糖カラメルをすくい取り、飛影はまたスプーンをくわえる。
蔵馬は甘いものも食べるが、特に好物という感じでもない。

「チョコが好きかどうかとかは、関係ないし」

心を読んだかのような雪菜の言葉に、飛影はますます眉をしかめる。

「なら、お前がついでに買ってきてくれればいい」
「うわ〜!最悪、信じらんない。愛まったくこもってない!」

大げさに責める妹だが、姉が面倒くさがっているというより困惑していることはわかっている。
その手のイベントを苦手としていることは百も承知だ。

「じゃあさ、作れば?」
「作る?」

子供の頃はよく、二人でチョコレートを作った。
父親も男兄弟もいない双子がチョコレートを贈る相手は氷菜と泪で、形も味もいまいちのチョコレートを、二人はもちろんいつでも大喜びで受け取り、世界一美味しいチョコレートであるかのように食べてみせた。

もちろん、今ならあの頃よりはすっとましに作れる。女子校だった前の学校では、いわゆる友チョコ文化もあったことだし。
しかし作ったチョコレートというのは、買ったチョコレートよりも、なんというか。

「買ったやつより、なんか」
「なんか?」
「…なんか……恥ずかしくないか?」
「なら買いに行こ!決まり!」

氷を鳴らしてアイスティーを飲み干し、雪菜は笑った。
***
右を見ても女、左を見ても女。
共学校に転校してきたとはいえ、つい半年前まで通っていた中学校は女子校だった。見慣れている風景のはずだ。
それでも飛影は、この場の雰囲気というか熱量のようなものに、圧倒されてしまう。

甘い香り、色とりどりの箱や缶。
きらびやかなチョコレートの海の中、老いも若きも女たちは楽しそうに泳いでいる。

「チョコレートなんてどこでも買えるのに、なんでこんなに混んでるんだ」

丸ごとワンフロアがチョコレート売場と化したデパートの特設会場で、飛影は愚痴をこぼす。
とはいえ混雑している場所で混雑にため息をつくほど馬鹿馬鹿しいこともない。自分もまた混雑を作り出す一員なのだから。

「あー。これも売り切れてる!」

どうやら事前に何が売られているのかチェックしてきたらしい雪菜が「sold out」の札を指差す。

たった四粒入ったチョコレートの値札は三千七百円だ。
最初は値段の一つひとつに驚いていた飛影だが、会場を半周もする頃には感覚も麻痺してきた。

雪菜は明らかにこの買い物を楽しんでいる。右腕にはいくつもの袋を抱え、左腕は飛影の右腕にからめたまま、雪菜はまるでこの人ごみと熱気にパワーを得ているような足取りで会場をめぐる。

三千円くらいの物を十個、五千円くらいの物を十個、という母親の依頼はあきらかに仕事用の義理チョコで、そのくせ本当に義理のある相手には、きっと自分で選んだ「通なチョコレート」を贈るのだ、という雪菜の推理を聞きながら、飛影はすでに帰りたいモードに入っている。

「まだか」

三千円くらいの物を十個、五千円くらいの物を十個なら、二種類の物をそれぞれ十個ずつ買えばすむ話だと飛影は考えていたのに、どうやら雪菜はさまざま取り混ぜて買うつもりらしい。
持ち切れなくなった袋を受け取りながら、飛影はまたもや深いため息をつく。

「まだ来てから一時間も経ってないよ?」

愛想を振りまく店員達は、笑顔で客の経済力をしっかりと見極めている。
中学生など、この売り場ではせいぜい千円のチョコを一つか二つ買うかどうかだ。ほとんどの店員が二人のような子供の客には目もくれないのに、雪菜が山ほど抱えた有名なチョコレートブランドの袋をちらりと確認するとや、どの女もくっきりとした笑みで試食品を差し出した。

「なんかスパイシーだね」
「そうだな」

トリュフと山椒と柚子のマリアージュ。フランス人ショコラティエが日本の侘び寂びにインスパイアされ創り上げた逸品。本場ベルギーからアメイジングな味わい。輸入物らしいチョコレートの並ぶコーナーには、判で押したように訳のわからない説明があり、彫りの深い外国人が腕を組んでいる写真が添えてある。

変な味だ、という感想は口に出さずにチョコレートと共に飲み下し、飛影は首をかしげる。
欠片ほどの大きさにされたチョコレートを、二人はもう十種類以上口にしていた。なんだか喉まで甘ったるい。

両手に下げたたくさんの綺麗な紙袋を、店員がくれた大きな紙袋に移し替える。
少し休もうにも、ホットチョコレートやチョコレートアイスクリームを出すようなイートインブースも、人であふれ返っている。

「雪菜〜」
「わかってるってば。後は自分のだけ。飛影は決めた?」

そうだった。自分のチョコも買うんだった。
早く帰ることばかり考えていた飛影は瞬く。

一粒千円もするようなチョコレート。群がる女たち。
ぐるっと一周してきたフロアを振り返り、飛影は小さく首を振る。

欲しい物など、何もない。
どれもなんだか、蔵馬に贈る気がしない。

「…いらん。やっぱり自分で作る」
「ほんと?一緒に作る?じゃあ私も手作りにしようかな」
「お前、俺に全部作らせる気だろう?」
「よーし、久々に作ろう!材料買って帰ろ!」

満面の笑みで、雪菜は飛影に重い方の袋を押し付ける。

かわいらしいコートにふんわりとかかる長い髪。女だらけのこの場所で、雪菜は誰よりもかわいらしい。 手のひらに食い込む紙袋の紐を持ち直し、雪菜にチョコレートを貰える男は幸せだな、と飛影は小さく笑った。
***
散らかり放題の台所に、仕事から帰ってきた氷菜は、うえー、と眉をしかめる。
家中に漂うチョコレートの匂い。クルミの焦げる香ばしい香り。粉だらけのテーブル。

「ちょっと…あんたたち、片付けまでやりなさいよ?」
「わかってるってば。もう、今話しかけないで!」

チョコレートテリーヌを焼くのは、それほど難しいことではなかった。
問題は、ガナッシュを挟むために焼き上がったテリーヌを水平にスライスすることで、クルミが邪魔をし、なかなか難しいのだ。

真剣な顔と慎重な手付きでナイフを動かす飛影。ガナッシュのボウルを抱える雪菜。
氷菜は思わず微笑んだ。

「手作りなんて久しぶりじゃない。どうしたの?」

びくっとした飛影の代わりに、友達増えたから、友チョコ安上がりに済まそうと思って〜、と雪菜は笑顔で返す。

「クルミが邪魔だね。大きすぎたのかな」
「入れない方がよかったみたいだな」
「んー、でも、味は入れた方がいいと思うんだよね」
「そうだな」

台所の惨状にもう一度眉をしかめ、それでも氷菜はキッチンに近付いた。

「手伝おうか?」

ボウルに手を伸ばした氷菜に。

「だめ!」
「手伝いはいらん」

二卵性の双子である娘たちはあまり似ていない。
なのに同時に振り返り、全く同じ表情、同じ声で言った。

やれやれ、と肩をすくめる氷菜の顔には、笑みが浮かんでいる。
数日前に娘たちが買ってきてくれた義理チョコはリビングの片隅に積み上げられている。
二人の喧騒に耳を傾けながら、明日に備えて氷菜は中身をチェックし始めた。
***
「これでよし」

チョコレート作りの八割方を姉に任せ、片付けの十割を任せ、雪菜は最後の仕上げの金色のアラザンをぱらりとまく。
べとつくボウルや泡立て器やらなんやらを洗い終え、疲れ果てた様子でキッチンの椅子に座った飛影に、雪菜が箱を差し出す。

「見て。なかなかの出来ばえだぞ〜」
「ほとんど俺が作ったんだろうが…」
「まあまあ。はい。これ」

小さな袋を、雪菜は手渡す。
アラザンの残りかと飛影が袋を覗くと、そこには同じ金色の、二センチ四方ほどの薄いハート型のチョコレートが入っている。

「なんだ?」
「トッピング用のチョコ。飾りなさい。彼氏へのチョコなんだから」
「いらん」
「飾りなさい。人生初の彼氏。初チョコ。思い出のチョコになるでしょ」

思い出という言葉には、過去の響きがある。
なんだか早くも別れが見えているようで、飛影は眉をひそめる。

「そういう意味じゃないよ?」
「…何も言ってないぞ」

小さな箱にちょうどよく、九つ並んだチョコレート。
真ん中の一つだけは、アラザンがかかっていないせいで、さびしげだ。

手作りのチョコレートにハートの飾りを乗せる。
なんとも気恥ずかしい話だが、なにせもうへとへとだ。

飛影は大人しく言われるがままに金色のハートを真ん中に乗せ、そっと箱を閉じた。
***
もちろん、飛影にとってこれが初めてのバレンタインというわけではない。

以前に通っていた女子校でもバレンタインは盛大に行われていた。校内へのチョコレートの持ち込みは禁止されてはいたが、それは表向きだ。
安手のチョコに手作りチョコ、ジョークグッズのようなチョコと、山ほどのチョコレートが教室を飛び交っていたし、授業中に食べたりしなければ教師も見逃していた。

女子校ならではと言うべきか、運動部の部長やキャプテン、背が高くボーイッシュな先輩に本命チョコレートを渡す女子も山ほどいた。
共学校でも同じような贈り方はあるのだろうが、やはり異性が混ざると雰囲気は全く異なる。

この学校のバレンタインへの姿勢としては、表向き禁止、見つけたら没収、しかし積極的に探して咎めることもない、という女子校よりはやや厳しいルールだ。

教師が黒板を向いた隙に交わされる視線、指先、誰かの囁き。
今日の教室は、あきらかに浮ついている。

共学校の男女半々の背中を見ながら、飛影は自分の机にかけられた、小さなランチバッグにちらりと視線をやる。
いつも弁当を入れて持ってきている袋だ。なのに今日はそこにチョコレートも入っているかと思うと落ち着かない。

四時間目は、あと二十分で終わる。
***
「ごめん。受け取れない」

本日八回目の言葉を、蔵馬は口にする。
でも、とか、貰ってくれるだけでいいの、とかなんとか呟く女の子に、きっぱりと返す。

「受け取れない。俺、彼女がいるから」

顔をくしゃくしゃにして去って行った後ろ姿に、蔵馬とて少々の罪悪感がないわけではない。

とはいえ、曖昧な返事も態度もするつもりはまるでなかった。
朝から机にロッカーにと詰め込まれていたチョコレートは全部、校則違反を理由に担任に渡した。校内に彼女がいる男に直接告白しに来るという、果敢な女の子は、にべもなく断った。

「キッツいなあ」

大袋に放り込まれたチョコレートを持って担任が廊下に消えると、クラスメートの海藤が声をかける。
中学生にして、高校生の彼女がいるという噂の海藤は、バレンタインなどどこ吹く風で、相変わらず片手に文庫本を開いてる。

「あれ、捨てるのかな?」
「さあ。名前があるのは本人に返すんじゃない?」
「モテ男はつれないな」
「想ってくれるのはありがたいけどね、俺は万人を幸せにすることはできないから」

眼鏡を押し上げ、海藤が振り向く。

「…幸せにしたいのは一人だけって?ずいぶのろけるんだな」
「単純な事実だよ」
「ふうん。ところで、彼女はくれるのかお前に。あの子そういうのに参加するイメージじゃないよな」

思いがけず、ふいを突かれ、蔵馬は返事に詰まる。
文学少年の指摘は的確だ。

蔵馬の人生初の彼女、大好きで大好きでしょうがない彼女は、どうもイベントごとに熱心な感じではない、確かに。
もちろん人には得手不得手があるし、バレンタインにチョコレートをくれなかったとしても、何かが揺らぐわけではない。

「…まあ、別にもらえてももらえなくても、いいって言うか」
「へえ」

笑いを含んだ海藤の相づちに、蔵馬はらしくもなくムッとする。

「そんなもので愛情を測るわけないだろう」
「冗談だよ。何マジになってんだ」
「…ほんと。何マジになってんだろうな、俺」

らしくもないとため息交じりに、チョコレート同様に校則違反の長い髪をかきあげる。
ようやくスペースが空いたロッカーに鞄を押し込み、蔵馬は席に着いた。
***
気まずい。

レタスと目玉焼きとベーコンを挟んだベーグルを両手に、飛影は口をもごもごと動かす。

教室まで迎えに来た蔵馬とともに、いつものように温室で弁当を広げ、いつものように食べ始めた。
てっきり、蔵馬の方からバレンタインを話題にするかと思っていたのに、今日がバレンタインであることなど知らないかのように、蔵馬は自作の弁当を食べている。

そもそも、と飛影は考える。

こういう物を渡す時、いったい何と言って渡すのだろう。
思い返す記憶は女子校時代のものばかりで、全く参考にはならない。

例えばバレンタインを機に告白をしよう、というならまだわかる。
好きだ、とか、付き合ってくれ、とか言うのだろう、多分。

しかし既に付き合っている状態の場合、何といって渡すのだろう。
言うべき言葉が、さっぱり思いつかない。

「食欲ない?」

すっかり手を止め、ぼんやりと温室の花を眺めていた飛影に蔵馬が心配そうな声をかける。

「え?あ、いや…」
「かえっこする?」

きんぴらごぼうや生姜焼きといったおかずの弁当箱を、蔵馬は差し出す。
大人しくそれを受け取り、飛影は自分の食べかけのベーグルを渡す。

時折、二人はこんな風に弁当を交換していた。
人の家の食べ物というのは不思議なものだ。
きんぴらごぼうや生姜焼きといったありきたりのおかずも、それぞれに味が違う。

交換した弁当を食べながら、二人の間にはほとんど会話がない。
いつもは蔵馬が話し、飛影は相づちを打つ。それで成り立っていた会話だけに、蔵馬の口数が減れば当然、沈黙が横たわる。

食べる前に渡せば良かった。完全に、渡すタイミングを見誤ってしまった。
飛影は俯き、すぐ側に置いたランチバッグを見る。

予鈴のチャイムが、温室にも響き渡る。
聞きなれた音に、二人はびくっと顔を上げる。

「行こうか」

空の弁当箱を受け取ろうと差し出した蔵馬の手に、勢いよく飛影のランチバッグが叩き付けられる。

「いたっ」
「やる!」

ぱっと身を翻し、温室から駆け出そうとした飛影のスカートを、蔵馬の手が素早くつかむ。
バランスを崩した飛影はよろめき、花壇の縁に腰掛けた蔵馬の膝の上に尻餅をつく。

「おい!」
「待って、行かないで」

いつになく真剣な響きに、立ち上がりかけていた飛影は驚き、すとんと腰を下ろす。

「蔵馬?」
「チョコレート?」
「……そうだ」

布製のランチバッグから取り出した箱を、蔵馬は手のひらに乗せ、じっと見つめる。
飾り気のない黒い箱には、ごく細い金色のリボンが結ばれている。

「もしかして、手作り?」
「そうだ!悪いか!」

飛影の白い頬が、赤く染まる。
嫌なら食うな、と続けようとした瞬間、ぱあっと花が咲くように、蔵馬の顔に笑みがこぼれる。

「嬉しい」

ストレートな言葉に、他の人間には見せない本当に嬉しそうな笑みに、飛影は固まってしまう。
手作りの方が安上がりだ、とか、雪菜に頼まれたチョコレートを作るついでだ、とか、いつもなら言い出しかねない憎まれ口は引っ込んでしまった。

「…嬉しいのか?」
「すごく」

笑みを浮かべたまま、蔵馬はリボンを解き、箱を開ける。
ひとくち大のショコラテリーヌが九つ。金色のアラザンがちりばめられ、真ん中のひとつには小さなハートが金色に輝いている。

長い指でそっと一粒摘み、蔵馬はゆっくりと口に入れる。
冬でもあたたかな温室はいつでも何かしらの花の香りがするが、そこにほのかなチョコレートの香りが混ざる。

「美味しい…」

あまりに長い沈黙に、不味かったのかと不安になった飛影に、蔵馬が微笑む。

「ありがとう。でも慌てて食べるのは嫌だから。後は家でゆっくり食べるよ」
「そうしろ。そろそろ時間が」

ほっと肩の力を抜いた飛影の耳に、再びチャイムの音が聞こえた。

「あ、行かなきゃ」
「ああ。まずいぞ」

慌ただしく立ち上がる飛影の目に、丁寧に蓋を閉め、そっと箱を仕舞う蔵馬が映る。
くすぐったいような恥ずかしさに、飛影は教室へ駆け出した。
***

あ、と小さく口を開け、ガラスの蓋を閉めようとした飛影の手に、雪菜がサッと手を伸ばす。
ガラスの器をしばし訝しげに見つめ、あ、と同じように雪菜は口を開ける。

「…うわ。これ、あの時のチョコ?」

わー、という雪菜の声は、感嘆というよりは呆れたという響きだ。
あの時の、ということは中学二年生の時のバレンタインのチョコレートだ。

「蔵馬さん、飛影と結婚できて良かったね…」

結婚してなかったら、やばいよ。ストーカーだよ。ホラーだよ。
うう、こわ。顔がいいから余計にディープにこわい。

というのは心で思うだけで、雪菜はもちろん口にはしない。
ガラスの蓋を片手に持ったままの飛影に、チョコレートの入った器を返す。

「飛影?」

返された器を、びっしりと付いた霜で何やら不気味な物体に見えるチョコレートを見つめたまま、飛影は白い頬をうっすら赤く染めている。

「…飛影?」
「え、あ。いや…あいつ、本当にバカだな」

こんなものを取っておくとはな。何を考えてるんだか。まったく。
言葉とは裏腹に、飛影はガラスの蓋をきゅっと閉め、冷凍庫の一番奥に器を戻す。

「ほんと、バカだねー」

でも、お似合いだ。と雪菜は考える。
初めて貰ったチョコレートを冷凍して取っておくとかストーカーだしホラーだしこわすぎる。でも、飛影はそれを喜んでいる。
自分への度を超えた愛情とか執着の強さとか、そういうものをまるごと受け入れて、喜んでいる。

ため息まじりの笑いをふっと小さく漏らし、雪菜は飛影の頭にぽんと手を置く。
ヒールの靴を履いているせいで、外ではいつでも雪菜の方が背が高い。

「どうした?」
「お似合い。飛影と蔵馬さんは」
「え?」

何がだ、と飛影はぽかんと口を開ける。
雪菜は椅子にかかっていたエプロンを取り、店の表に出る扉に手をかける。
五、六人ほどの客がいる店内に、雪菜を追いかけようとした飛影は慌てて奥へ引っ込んでしまう。

「いらっしゃいませー」

姉には到底真似できない、花が咲くような満面の笑みで雪菜は客へ向かう。
一組の客の相手を終えたところだった蔵馬に軽く手を上げ、マニキュアの光る指先で奥の扉を指差し「お客の相手をしてあげる、三分で戻って来てね」の意を込めて指を三本ひらっと立てて見せる。

きちんと意図を汲んで、ちょっと失礼と奥へ向かう義兄に、やれやれと雪菜は眉を上げる。

「何にしましょうか?」

年配の夫婦に、雪菜は明るく話しかける。
もちろん花束に仕上げることは出来ないが、お客の目的に叶う花を選ぶ腕はなかなかのものだと蔵馬も認めている。

こっくりとやわらかなミルクティーのような色の薔薇、暮れる空のような紫色の薔薇。色の違う二種類の薔薇を勧めながら、奥の部屋への扉に雪菜はちらっと視線をやる。
どうしたの?なんでもない、さっさと店に戻れ。そんな会話が聞こえるようだ。

夫婦が選んだ花を大きなテーブルに並べた所で、タイミング良く蔵馬が戻ってくる。
客には滅多に見せることのないやわらかな笑みが、パッと商売用の笑顔に戻る。

「ありがとう、雪菜ちゃん」
「どうしたしまして。リボンは?」
「じゃあ、焦げ茶と深緑を」

はいよー、と陽気に答え、雪菜はリボンをしゅるりと解く。
手際よく花をまとめる蔵馬にリボンを渡しながら、背伸びをし耳元に囁く。

「蔵馬さん、私、今夜は泊まりで出かけてあげる」
「あれ?今日は氷菜さん泊まりだから一緒に幽助の店にご飯食べに…」
「今夜、絶対に誘うよ。飛影」

え?と口を開ける義兄をそのままに、雪菜は大きな鋏をテーブルに置き、じゃあ私はこれでー、とエプロンを外す。
入り口の扉に付けられた鐘が、カロン、と音を響かせる。

「雪菜ちゃん?」
「ハッピーバレンタイン」
「え?バレンタイン?まだ先じゃ…」

ひらひらと透けるスカートを揺らし、雪菜は扉を閉めた。
再びカロンと鳴った鐘に小さく微笑む。

ヒールの音も軽やかに、雪菜は歩き出した。


...End