焼いて、妬いて

「猫カフェ」

ざくざくと手際よく白菜を切っていた手を、蔵馬は止めた。

「猫って、誰かの飼い猫なの?それとも借りてくるの?」
「本物の猫なわけないじゃん。私たちが猫耳つけてるだけ」
「なるほど。きっと似合うね、雪菜ちゃん。ところで」

テーブルの真ん中には、ひらりと一枚の昆布の浮いた土鍋。
たくさんの野菜と薄切りの肉が乗った大皿。きちんと擦った胡麻で作ったタレや細かく刻んだ柚子の皮の小皿も整然と並べられている。

鍋を美味しく感じるような季節になったなと小さく頷き、期待に満ちた顔を上げた蔵馬に、雪菜はざんねーん、と先手を打つ。

「飛影は猫カフェじゃないよ」
「ですよねえ」

まあ、そうだろうなとは思ったんだけど、一応聞いてみたんです。
そんなことを言いながら、蔵馬は煮立つ寸前の鍋から昆布を取り出す。

「飛影は何を?」

双子はそれぞれ学部も所属するサークルも違う。
学園祭の出店担当もきっと違うのだろう。

「剣道部は毎年鉄板焼なんだって。飛影は焼きそば作る係だって言ってたよ」
「焼きそば…」

なるほど、さもありなん。
多分プラスチックにふわふわとした布を付けただけであろう猫耳を付ける飛影の姿は想像がつかないが、鉄板を前に焼きそばを炒める姿なら蔵馬にも想像がついた。

「来る?」

来るならこれあげる、と300円券≠ニ書かれたピンク色の紙を2枚、雪菜は差し出す。

「日曜だからねえ…」

行けたら行くよ。券もらって行かなかったら悪いから、それは他の人にあげてよ。
蔵馬はそう答え、風呂から上がった妻がキッチンに近付いてくる足音を聞き、鍋に野菜を沈めた。
***
大きな建物はいくつかの棟に分かれ、それぞれはずいぶんと離れて建っている。
歴史のある大学だとは知っていたが、所々に古びたレンガ造りの部分もあり、意外に多い木々も赤や黄色に色づき美しい。

同じ学校でも、高校とはまるで違う。大学というものに行くことがなかった蔵馬にとって、それは新鮮な場所だ。
時折飛影を迎えに来たりはしていたが、女子大だからなのか大学というものがそうなのか、門にはいつも警備員がいたし、きちんと中に入るのは初めてだ。

門からすぐの場所のテントで案内図と出店リスト、イベントのタイムスケジュールなど山ほどの紙を渡されるがままに受け取り、建物を見上げながら、良く晴れた空に蔵馬の足取りは軽い。
驚くほどたくさん出ている屋台の中から、蔵馬が目指すのはもちろん鉄板焼屋だ。
***
「店はいいのか」

黒いジーンズ、白のシャツの上には黒のニットといういつも通りのスタイルの飛影だが、大学の校章が入った、目に痛いような真っ赤なエプロンを付けている。

巨大な鉄板を前に、両手に大きな銀色のコテを持ち、豪快に焼きそばを炒めていた飛影が小さく呟いたセリフはそれだ。
来たいなら来てもいいが、夫だなどと名乗ったら殺す、と事前に釘を刺されている。
来てくれたの、嬉しい、なんて言ってくれると期待していたわけではないが、店はいいのか、はあまりに素っ気ない。いらっしゃいませ、と笑顔を見せてくれたのは剣道部員らしい、他の女の子たちばかりだ。もちろん、妻がお世話になってます、などと挨拶をしてコテで撲殺されるわけにも行かず、ただの学生と客のような顔をして、二人は小声で話す。

「閉めてきた。二時間くらいで戻るよ」
「日曜なのに大丈夫なのか?」

注がれたソースに、鉄板がジャっと香ばしく鳴る。
キャベツともやし、イカの足がたっぷり入っている。そこに紅生姜でも青のりでもなく、山ほどのかつお節と砕いた干しエビがかかるという、ちょっと変わった焼きそばだ。

様々なフレーバーのポップコーンだの、ワッフルだの、毒々しい色合いの綿菓子だの。いかにも若い女の子の考えそうなメニューばかりの中、めずらしくボリュームのある鉄板焼屋の焼きそばはずいぶんと繁盛している。

長々と話し込む訳にもいかなくて、蔵馬は火傷しそうに熱いプラスチックのパックを五百円と引き換えに受け取ると、今日の祭りのためにどこかから大量に借りてきたらしい、古めかしい校舎に似合わない青く安っぽいベンチに腰を下ろす。

「美味しい」

完全に、ひとりごとだ。
焼きそばは熱く香ばしく、削り立てらしいかつお節といい甘めのソースといい、とても美味しかった。変な組み合わせだと思ったイカと干しエビも良く合う。

でも、と蔵馬は考える。
一人で食べるのも、なんだかな。
飛影と一緒に食べたかったのにな、と。

割りばしをくわえたまま見上げた秋の空は、高く青い。
***
「ごめーん、待った?」

四人の女の子に囲まれ、困ったように曖昧な笑みを浮かべていた蔵馬の隣に、白くふわふわの猫耳をつけた、とびきりの美少女が座る。

「待ったよ」

作り物ではない笑みを浮かべ、おもちゃの猫耳を指で突いた蔵馬に、騒々しく声をかけていた女の子たちは、潮が引くように去って行った。
やれやれ助かった、と肩をすくめる蔵馬に、ニヤリと義妹は笑う。

「なに浮気してんの」
「教育学部の棟はどこかって、聞かれまして」
「見え透いてる。女子大なんだから、蔵馬さんがここの学生のわけない」
「さっきの子たちで、六組目だよ」

七分目ほど残った焼きそばのパックを手にしたまま、蔵馬は溜め息をつく。

見ただけではもちろん声をかけてくる女の子たちがこの大学の学生なのかよそから遊びに来ただけなのかなど、さっぱりわからない。三組は良かったら、と自分たちの屋台のチケットを差し出したのでここの学生なのだろう。二組は学校内を案内してくれないかと言い、一組はストレートにかっこいいね、遊ばない?と話しかけてきた。

「飛影に言いつけるよー?」

笑いながら、雪菜は蔵馬の手から焼きそばのパックを取り上げ、まだあたたかいそれを豪快に頬張る。

「へー。剣道部の伝統焼きそばって聞いてたけど美味しいね。なんで残してんの?」
「3個目だから。さすがにお腹いっぱい」

飛影を見たさに、剣道部の屋台の側をうろうろしていた蔵馬だったが、何せ十人の女性とすれ違えば九人は振り向く顔だ。剣道部の女の子たちの鉄板以上に熱い視線を浴び続けるわけにもいかず、あまりの美味しさに三度も並ぶ客、を装ってみたのだ。

「バッカみたい。一緒に住んでるのに」
「だって、学校での飛影を見れるなんて中々ないし」

割りばしを持つ手を止め、雪菜はまじまじと義兄を見つめる。

「蔵馬さん」
「はい?」
「……大学に行かなかったのは、飛影のせい?」

らしくもなく、遠慮がちに雪菜は尋ねる。
東大でも受かる、と太鼓判を押されていた偏差値だったのに、あっさり高卒で働くことを選んだ蔵馬に、この高校から初めての東大合格が出るかもしれないと期待していた教師たちはひどく落胆したと聞いた。

「花屋になるって決めたから、学校はもう必要なかったし」

雪菜が差し出したカップから、苺フレーバーのポップコーンを摘み、蔵馬は口に放り込む。

「なんせ女子大だから、飛影と一緒には行けないし」
「共学だったら進学したの?」
「そりゃあもちろん。学部から取る授業からサークルまで同じにして嫌がられたと思うよ」

二人は声を合わせて笑い、ここからでは遠く小さく見える、剣道部の屋台に同時に視線を走らせる。

「…良かった。飛影のために働き始めたんだったら、ちょっと悪いなと思ってたんだよね」
「飛影のため?」
「うん。ほら、飛影って社会不適合者じゃん?花屋の裏方にならおいておけるって思って開業したのかなって」

社会不適合者。よくよく考えればひどい言い草だが、そこに愛情が詰まっていることを蔵馬は知っている。
飛影の真の理解者でもある彼女だからこその言葉だと、わかっている。

「いいよ。社会になんか適合しなくたって」
「おっ。一生俺が養ってやる宣言?今どきなかなかいないよ?かっこいー」
「飛影は俺にだけ適合してくれてればいいの」

焼きそばの最後のひとくちを飲み込んだところだった雪菜が、眉を上げる。

「…なんかそれ、ヒワイな意味に聞こえる」
「受け取り手の問題じゃない?」

再び二人は笑い合う。
誰もが振り返るほどの顔をした二人は、いつの間にかあたりの視線をすっかり集めていた。

「そろそろ店に戻らなきゃ」
「五分待って。飛影連れてきてあげるよ」

空になったパックとカップを押し付けゴミ箱を指さし、雪菜はひょいと立ち上がった。
***
「雪菜」
「売れてるねー。そろそろ交代でしょ?」
「ああ。お前も食うか?」

輪ゴムをぱちんと留めたパックを差し出した飛影の耳元に、雪菜がすいっと近付く。

「蔵馬さん、浮気してたよ?」
「…ばかばかしい」

飛影は輪ゴムの間に割りばしを差し込み、雪菜に手渡す。

「結構美味いぞ。蔵馬なんか三パックも買ってった」
「飛影、時々バカだなあ」

何を、と振り向いた飛影に、雪菜は再び囁く。

「浮気してったてのは嘘だけど、女の子に囲まれてたのはほんとだよ?」

大きな赤い目が、ぱちぱちと瞬く。
唇をきゅっと結び、ソースに焦げたコテを放り出し、飛影はエプロンを外した。
***
「うーん、ごめんなさい。俺ここの学生じゃないから」
「えーでも地図持ってるでしょー?私たち地図読めないの。案内して?」
「いや、それは」
「冷たーい」

茶色っぽい髪をくるくると巻き、ふんわりしたスカート、ピンクのグロス。ピンクのチーク。
雪菜ほどではないにしても、この三人も充分にかわいらしい。かわいらしく、そして無個性だ。

どうして女の子というものは、友達同士で同じような格好をするのだろう。
似ているから友人になるのか、友人になるから似てしまうのか。

そんなことを考えながら、蔵馬は不思議に首を傾げる。

「すみません、待ち合わせしてまして」
「えー?誰とー?彼女?」
「妻と」

待ち合わせてはいないけど、そんな嘘をついてみる。
妻?とすっとんきょうな声を上げる女の子たちに軽く手を振り、歩き出した蔵馬の手を、綺麗なネイルを施された手がつかむ。

「そんな嘘つかないで。ね、遊ぼうよ」

やさしく言っているうちに諦めて欲しいのに。
溜め息交じりに蔵馬が口を開いた瞬間、香ばしい匂いが鼻先を掠める。

「待たせたな」

蔵馬の左腕に、ぐいっと腕が通る。
恋人同士がするように、すがるようにぎゅっと絡められた黒いニットの腕。白い指と、短く切り詰めた何の色もない爪。

全身から焼きそばの匂いをさせて、飛影がそこにいた。

「飛影」

声に甘さがあるとしたら、この声は蜂蜜だ。
背伸びするように自分に腕をからめる姿に、蔵馬の声はとろけている。

「何してるんだ?店を開けるんだろ?帰るぞ」
「はい」

飛影に引っぱられ、蔵馬は睨むようにこちらを見つめる女の子たちを一瞥もせずに歩き出す。
小柄なくせに足は速く、いつだって飛影はスタスタと力強く歩く。

「もう焼きそば当番は終わったの?雪菜ちゃんとあちこち見て回らなくていいの?」

ピタッと足が止まり、飛影が見上げるように睨む。

「お前が…」
「はい?」

浮気、はしていない。
それはもちろんわかっている。
でも、やっぱり。

「…面白くない」
「え?」
「こんな所に、来るな」

しばしぽかんとした蔵馬だったが、ゆっくりと、満面の笑みを浮かべる。

「妬きました?」
「焼いたのは焼きそばだろ。帰るぞ」

下手な冗談で会話を終わらせると、飛影はまた足早に歩き出す。
ほんのり赤くなった頬を見られないよう、蔵馬の先に立つ。

通り過ぎる秋の空気に、香ばしい匂いを振りまきながら。


...End