ふたつの天秤「まあ、天秤みたいなものなのよね、結局」静かに呟くと、黒蜜をたっぷりかけた自家製のわらび餅に、きな粉の皿を添えた盆を、泪はそっと置いた。 今週のデザートだというそれは、皿の上でふるふると涼しげだ。 「天秤?」 出されたおしぼりで手を拭き、できたてのわらび餅を注意深く黒蜜に沈め、飛影は不思議そうに聞き返す。 「もー、後で聞くってば。おごるおごる。何でもおごるって」 泪と飛影の座るカウンターから少し離れ、電話をしている雪菜が言う。 五分ほど前に電話をしてきた雪菜の友人は、何やら男と別れたらしく、大荒れなのが電話の向こうからここまで伝わってくる。 泪と飛影は、雪菜とかしましい電話相手から視線を外し、わらび餅に戻る。 「そう、天秤」 夏らしい白い紗の着物に、浅葱色の帯を締めた泪が頷く。 泪の店は猛暑の夏でさえ、どこか陰があり、冷たい風が通る。 昼営業のない今日は、店の表には誰もいない。のれんの向こうの調理場から、威勢のいい声や、煮炊きの音が漏れ聞こえている。 「いいところと悪いところを、天秤にかけて」 いいところの方が重いうちは、嫌なもろもろは我慢するしかないし、悪いところが重くなった時は別れるしかない。簡単な話よね。 付き合ったり、結婚したりするといい方の皿が重くなることはあまりなくて、悪い方の皿にばかりじわじわと分銅が積み上がっちゃって、でもそれを積み上げている側は気付かないのよ、だいたいね。 「分銅…?ああ」 懐かしすぎて、一瞬思い出せなかった言葉だが、すぐに銀色の小さな重しを飛影は思い出す。 理科室の緑とも黒ともつかない机の足や、埃をかぶった、得体の知れない標本や何かとともに。 「あーもう、参った」 ようやく戻ってきた雪菜は、きらきらとしたカバーのついた電話をバッグにねじこんだ。 わらび餅の盆を引き寄せ、優雅に箸を取り、蜜ときな粉をまぶして口に運ぶ。 「あ、美味しーい。やっぱりここのわらび餅は美味しいね」 「大荒れね、お友達」 「しょーもないんだから。嫌になったなら別れればいいじゃない。別れたくないなら我慢するしかないし」 恋愛経験豊富なこの妹は、ドライに断ずる。 急須を手に取った泪に、私、冷たいのがいい、と笑顔でオーダーしながら。 「別れたくはないけど嫌なところも我慢できない、なんて無理なんだよね」 人は変えられないもん、と年に似合わず達観した雪菜の言葉に、泪は頷き、飛影は首を傾げる。 「…嫌なところを、変えることはできないのか?」 無理、と泪と雪菜は声を合わせて返す。 飛影は納得できないらしく、眉を寄せる。 「好きな相手のためなら、変えられるだろう?」 「お、人妻の格言出ました!」 茶化したように言う雪菜を、飛影はぺしっと叩く。 泪は銅製の急須から、ほとほとと茶を注ぐ。 「だいたいさ、飛影はそのままで愛されちゃったんだから、何も変えてないじゃん」 薄くグロスを塗った唇の端にきな粉をつけ、雪菜が口を尖らせる。 雪菜の分のお茶にだけ氷を入れ、泪は面白そうに二人を眺める。 「俺は、別に」 「なによ、何か変えた?」 「な、何かって」 箸でつまみ上げたわらび餅をゆらしたまま、飛影は口ごもる。 なにせ、恋愛経験については、豊富とはとても言えない。初めて付き合った相手と、そのまま結婚したのだから。 「ねー、泪ママ。飛影は運がいいよね」 「そうね。でも私たちの知らないところで、二人がどうしてるのかは分からないことよ」 「蔵馬さんなんかね、こないだも……あ!また電話鳴ってる!もー」 氷菜に似ている、でも違う笑みで、泪は双子を愛おしげに見つめた。 ***
「天秤?」午前中に家事を片付け、午後は花屋で蔵馬を手伝うのが、飛影の夏休みの日課だ。 濃淡は様々だが、ピンク色で統一した花束をまとめながら、蔵馬は聞き返す。 洗ったブリキのバケツを拭き上げながら、飛影は雪菜と泪の、天秤の話をしていたのだ。 「まあ、それが合理的だよね。というか、それ以外に方法はないし」 意外にも、蔵馬は雪菜と泪の天秤説に同意した。 「人それぞれ、何を長所とするかは違うだろうけど」 お金持ちとか、見た目がいいとか、やさしいとか。 浮気するとか、車の運転が荒いとか、行きたい旅先の趣味が合わないとか。 「そういうことの一つひとつが、無意識に天秤を上げ下げするんだろうね。俺は好きな人と別れるっていう経験をしたことがないから、想像でしかないけど」 幅の広いリボンを短く結び、出来上がり、と呟き、振り返った蔵馬の目に、ブリキのバケツを持ったまま、何やら考え込む飛影が映る。 「飛影?」 「…じゃあ、お前も俺を天秤に乗せているのか?」 黒いTシャツに、黒いジーンズ。飾り気のない黒いスニーカー。 いつも通りの飛影のスタイルだ。 「乗せてないですよ」 「誰でも天秤を持っているんだろう?」 白い頬が、かすかにふくらむ。 「持ってますよ。でも心配しないで。俺の天秤は固定型だから」 「は?」 固定型?と飛影が聞き返す。 「そ。いい方の皿が、下に固定されてる。セメントで固めてある。だから反対側にいくら重りを乗せても意味がない」 「お前…」 まるで本当にある機器の説明をするかのように、サラッと言う蔵馬に、飛影は呆れたように肩をすくめる。 それでも、さっきまでふくらみかけてた頬が緩み、小さな笑みが浮かんだことを蔵馬は見逃さない。 「逆にさ、あなたの天秤は?無言で分銅積み上げないで、悪い方が重くなったら言ってよね」 「言ったって変わらないって、雪菜が言ってたぞ」 「普通はね。でも俺は普通じゃないから」 きょとんとする飛影の手からバケツを取り、蔵馬は屈んで、顔を近づける。 「俺の何かが気に入らなかったら言ってね。別れを検討する前に。俺、絶対に変わるから」 「…お前、本当に普通じゃないな」 「ありがとう。取りあえず、今何か俺に不満とかある?」 扉をチラと確認し、客が来る気配がないことを確かめると、飛影は目を閉じた。 「くら……ん!んう!」 軽く重ねるだけのキスを待っていた飛影の口の中に、素早く舌が差し込まれる。 逃げる舌を追い、くちゃくちゃと絡め、息が苦しくなった飛影がバケツをゴンと叩くのを合図に、蔵馬はしぶしぶ唇を離す。 口紅も塗っていない唇をぐいっと拭い、真っ赤な顔で飛影は怒鳴る。 「っは、あ、バカ!客が来たらどうする!」 「俺は別に構わないけど」 「…お前……そういうとこだぞ!」 「あはは。でもさ」 今ので、飛影の天秤の悪い方の皿、重くなってないんじゃない? 「そうでしょう?」 「うぬぼれやがって…」 悪戯っぽく笑う蔵馬を飛影は睨み、赤い顔のまま、ぷいっと目をそらす。 見計らったかのように、コロンとベルが鳴り、木の扉が開く。 騒々しい笑い声と夏の熱気を纏った風が、花々を揺らす。 素早く裏に引っ込む飛影の背に、いらっしゃいませ、といういつもの声が響いた。 ...End |