さくらと君ときみ

卒業式にも入学式にも桜が舞い散るイメージがあるが、それはおかしな話だ。
卒業式に桜が咲いてしまっているのならば、入学式は当然葉桜のはずなのだから。

それでも例年よりはわずかに早く、五分咲きといったところの桜を見下ろし、蔵馬はそんなことを考える。
学校には必ず桜があるのはなぜだろう、とも考えながら。

ずいぶん前に勝手に作っておいた合い鍵で開けた屋上の扉。
見下ろす先には、生徒たちの群れと、保護者の群れ。

生徒たちの大半はクラスごとに分かれ、この後カラオケだなんだと卒業式の打ち上げがあるらしい。高校生ならば酒のひとつも入るのだろうが、中学生などかわいいものだ。保護者は保護者で、お茶会もどきの集いがあるらしい。それもまた例年のことだ。

毎年毎年、桜の木の下で繰り返される変わらぬ風景。

「卒業式後に屋上なんて、感傷的じゃない?」

片手には鞄、片手には卒業証書の入った筒を持ち、蔵馬にとってはクラスメートであり、恋人の妹でもある少女が笑う。
蔵馬と並び、下にいる小うるさい教師だの保護者だのに見つかり咎められることのないよう、柵から少し離れて立って。

「行かないんでしょ?」

二人のクラスもビュッフェ形式のファミレスでの食事、その後カラオケという定番コースを予約している。
普段ならその手のイベントには軽く顔を出し、そつなく振る舞うことを常にしている蔵馬だったが、今日は別だ。

「今日はパス」

蔵馬の恋人は、ファミレスも、カラオケも、クラスメートとの別れのひとときも、第二ボタンのごたごたも、女の子たちの涙も、卒業式の今日という日を多分まるごと全部苦手としている。
双子の母親の氷菜はといえば、どうしても仕事を休めず、式だけ見ると慌ただしく帰ってしまったのだという。

「見たかったな、氷菜ママ」
「私の大人になった姿を想像してみて。そして背を伸ばして。そしたらそれがうちのママになるから大丈夫」
「ますます見たかったよ」

風が吹き、桜が揺れる。
花びらをこぼすにはまだ早すぎる。
白くかたい蕾ごと、桜は揺れる。

「雪菜ちゃん」
「なーに?」
「お疲れさま。そしてこれからもよろしく」

沈黙。そして風。
グラウンドでは下級生の女の子たちが、上級生にまとわりつき笑ったり泣いたり、している。

雪菜の目元にも、多くの女の子たちと同じく、泣いた形跡が微かに残っている。

「なんのこと?」
「君が卒業式で泣いたりする種類の女の子じゃないってこと、わかってる」

雪菜の白い手が卒業証書をくるっと回し、バトンのように受ける。

「誰のために嘘泣きするのかってことも、わかってる」

もう一度、卒業証書は宙を舞う。
パシッと音を立て、黒とも緑ともつかぬ色合いの筒が手のひらに収まる。

「…勘のいい男って、嫌われるよ。男なんて鈍いくらいでいいんだから」
「気を付けます」

最後まで校則違反だった長い髪を蔵馬はかき上げる。

「君の荷物、半分持たせてよ」

雪菜を見つめ、蔵馬は微笑む。
雪菜は風に髪をなびかせたまま、無言でいた。

学校という混沌と醜さと、そして残酷さから、妹は姉を守ってきた。

彼女の気遣い、彼女の機転、彼女の嘘、彼女の愛情。
それがなければ飛影の学校生活は、これまでも、そしてこれからも厳しいものだったろう。

愛想もなく、友人もろくにいない。
言葉にも視線にも容赦も丸みもなく、ただただ率直で。

学校という世界で、そんなことではそうそうやってはいけない。暮らしては、いけない。

もちろん、飛影は殴られたら殴り返すだろう。無視をされようが意地悪を言われようが、平然と相手を見つめ返すだろう。
けれど、殴られて殴り返す人生よりも、殴られない人生の方がはるかに楽に過ごせることは言うまでもない。

どんなに強くあっても、心は摩耗するものだから。
小さな傷が気付かぬうちに膿み、いつしか人を殺してしまうことも、ある。

それだけで学校内での絶対的な地位を与えられるほどの美人。明るく、しかし男子生徒にも男性教師にも媚びず、スポーツもそこそこ、けれど勉強は苦手。
友人は多く、敵は少なく、ささいなことにも感動しやすく、涙もろく、同性には甘え上手。

そんな妹がいるという免状があってこそ、飛影はもろもろの不愉快を避けて通れたのだ。
心を削ることなく、このコンクリートの建物の中で野蛮な生き物たちと過ごせたのだ。

あたたかく力強い防波堤にずっと守られてきたことに、いつか飛影は気付くだろうか。

「飛影のこと、荷物だなんて思ってないよ」
「わかってる。でも半分持つよ」

蔵馬もまた、防波堤だった。
優等生であり、モテる男の彼女になるということは何かと面倒を引き起こしがちだ。蔵馬の方から好きになったことは確かだが、それを周りに過剰なまでにアピールしたのは、いわゆる学校内でのいざこざ…くだらない陰口。子供ゆえの心無い行動…から飛影を守るためだ。

もちろん、いらぬ世話だと憤るであろう本人には知られぬよそうしてきた。

「大事な荷物ほど、重くなるじゃない?だから、俺にも半分持たせてよ」
「甘い。いずれ全部持ってもらうんだから」

下唇を突きだし、目にかかった前髪をフッと吹き、雪菜は剥き出しのコンクリートに制服のスカートのままぺたんと座る。
こんこんという軽い足音に、二人は同時に気付く。

鉄製の扉がきしみながら開き、二人の荷物であり宝物が、顔をのぞかせる。

「雪菜。蔵馬」

赤く大きな瞳。
気の強さと、負けん気と。……傷つきやすさと。

「どうした?」
「うちのクラス、この後食べ放題!アーンド、カラオケなんですけど」
「行ってくればいいだろう」
「蔵馬さんは行かないんだってー」
「行けばいい。お前たち二人とも」

そう言いつつも、飛影はふいっと目をそらす。

「蔵馬さん、飛影と帰るんでしょ?私という人気者がいないと始まらないから私はもう行くね」
「ごめんね。みんなによろしく」

一人で帰れる、行ってこい、と眉をよせる飛影の肩を抱き、嫌がるのに構わずくしゃくしゃと髪を乱し、蔵馬は短い髪に顔を埋めた。

「まったくもー。何してんの」

ほら、忘れ物だよ、と、雪菜は蔵馬が放り出し転がっていた卒業証書の筒を渡し、軽やかに階段を駆け降りていってしまう。

受け取った筒、だたの紙切れの入った筒は、それを受け取ったつい一時間前より不思議に重く蔵馬は感じた。

見納めにと、一際大きな桜の木に、蔵馬は柵から身を乗り出し、雪菜がしたように、フッと息を吹きかける。

「行こう。飛影」

屋上から届くわけもない吐息に、桜が一輪、花開いた


...End