リボンとネクタイ

「飛影、今日、部活は?」
「ある。お前もだろう?」

登校時刻の慌ただしい校舎。
げた箱に靴を入れ、双子は揃って階段を上がる。

歴史ある、と言えば聞こえがいいが、ずいぶんと古ぼけた校舎。
だが、女子校であるこの学校では、少女たちのどことなく甘やかな香りが、おんぼろな建物に花を添えている。
同じ靴を履いたいくつもの足が、始業時間に間に合うよう、それぞれの教室へパタパタと走っていく。

「終わったら一緒に帰ろ。じゃーね」
「待て雪菜、弁当」

ありがと。
飛影のお弁当、ママのより全然美味しいよ。

雪菜はそう言ってにっこり笑って弁当の包みを受け取り、2年4組と書かれた教室に消える。

「…調子のいいやつ」

言葉とは裏腹にまんざらでもなさそうに姉は苦笑し、二つ離れた2組の教室に向かった。
***
「………?」

鞄を椅子に置き、飛影は自分の机の上の、それを眺めた。

「リボン…?」

くるっと形良くリボン型に結ばれた細い布。
色は光沢のある紺色だ。

机の真ん中に、ちょこんとかわいらしく乗っている。

「おい、誰かこれ…」

持ち主を捜そうとした途端、ガラガラとドアが開き、一限目の数学の教師が入ってきた。

「おーい。みんな席に着け。始めるぞー」

飛影は仕方なく席に着き、ちょっと躊躇ってからリボンを机の中にしまった。
***
すっかり、忘れていた。

思い出したのはクラスメートの凍矢がいつものように椅子だけを持って飛影の席に来て、弁当の包みを取り出した時だった。
弁当を出した拍子に、そのリボンが引っかかって机の中から出てきたのだ。

「あ、そうだ。おい!これ、誰のだ?」

同じように、そこここで思い思いに昼食をとり始めているクラスメートたちに飛影は声をかけた。

しーん。
一瞬の静寂。

だが、次の瞬間、クラスメートたちは弾けるように笑いだした。

飛影、水くさいよー
ねえ?誰のだ?なんてさー
ルール違反だよねー?
ずるいよー

口々に笑うクラスメートたちにぽかんとしている飛影を引っ張り、凍矢は二人の弁当を抱えて教室を出た。
***
「俺にぐらい紹介してくれたっていいだろう?」
「…何の話なんだ…?」

自分で作った卵焼きをもぐもぐと頬張りながら、飛影は眉をしかめた。昼休みの今は誰もいない、家庭科室の机で、二人は昼食を広げていた。

凍矢は無言で問題のリボンを手に取り、解いて渡す。

「……ネクタイ?」

解いてみるとそれはネクタイだった。
…なんだろう、どこか見覚えが…?

「ん?これ…」

見覚えがあると思ったら、歩いて五分ほどの距離にある高校の、制服のネクタイだ。
…見覚えがあるのは、それが蔵馬の通う高校だからだ。

「蔵馬の学校のネクタイだ。なんでこんなもの…?」
「蔵馬っていうのか?この間の…迎えに来てた人」
「この間…?」

次の瞬間、飛影は真っ赤になった。

先月、ひどい生理痛で早退した日、蔵馬が迎えに来たんだった!
あのやろう、のこのこと校内に入り、玄関まで迎えに来やがった。
他校なんだから、不法侵入だ。

「お前…み、見てたのか?」
「俺が見たっていうか…」

言いにくそうに、凍矢は自分の弁当をつついた。

「その…あの日体育館でバレーボールだっただろ?」

けど、なんかみんな暑くてダラダラしててさ。
ぼたん先生怒っちゃって。
たるんでる!グラウンド十周!とか言い出してさ。
で、しょうがなくみんなグラウンドに出ようと…

「もういい!」

そこまで聞けば、続きは聞かずとも分かった。
内履きから履き替えるために、みんな玄関口まで来ていたってわけだ。

「………」

飛影は頬を赤く染めたまま、半分ほど残っている弁当箱のフタを閉めた。
食欲もなくなった。
教室に戻りたくない。…もう今日はこのままサボってしまおうか。

「付き合っているやつがいるなら、俺にぐらい教えてくれたっていいだろう?」
「隠していたわけじゃ…その…つまり…」
「わかってるよ。お前のことだ。恥ずかしかったんだろう?」
「べ、別に…」

呆れたように凍矢は小さく笑うと、貰ってこいよ、と言った。

「…貰う?何を?」
「ネクタイ。これはみんながいたずら用に誰かから手に入れた物だから」

そう言って、凍矢は机の上のネクタイを見た。

「…貰うって…蔵馬のネクタイを?なぜだ?」
「知らないのか?」

凍矢はちょっと驚いたようだった。

「知らん。何の話だ?」
「これ。気付いてなかったのか?」

凍矢は自分の胸元を指した。
学校の制服は、紺のブレザーにチェックのミニスカート。
襟元の大きなリボンは臙脂色、のはずだ。

だが、凍矢のそれは臙脂色のリボンではなく、濃いグリーンのネクタイだ。それは飛影も気付いていたが、それに意味があるとは思っていなかった。
クラスメートたちの中にも何人か、リボンではなくネクタイを着けている者はいた。それはただの趣味か、もしくは流行りなのかと、飛影は気にも留めていなかった。厳密には校則違反だが、始業式などの式典の時以外で、教師たちがそれを咎めているのを見た記憶もない。

「それ…意味があるのか?」
「これは、あいつのだ」

あいつ、というのは凍矢の彼氏だ。そいつには、飛影も何度か会ったことはある。
じゃあ…つまり…?

「彼氏います、って意味で、相手の制服のネクタイを着けるんだ。うちの学校では」
「はあ?」

初耳だ。
飛影は目を丸くする。

「誰がそんな恥ずかしい真似…俺はやらん!」
「まあ、彼氏いてもしない子もいるからいいんだけど」

だけど、なんだ?
語気荒く、飛影は問う。

「…あんな風に、早退するのに彼氏を呼びつけて、玄関まで迎えに来させ…」
「俺が呼んだんじゃない!」
「そんなのクラスの子たちに分かるわけないだろ」
「……!」
「それで、何人かが雪菜に聞きに行ったんだ。そしたら、彼氏だって言うし」
「……!」
「堂々見せつけておいて、ネクタイはしてないなんてルール違反だー!って。それでお前をからかう計画を立ててたんだ」
「………!!」

机をひっくり返してやりたい気分だが、あいにく家庭科室の机は床にがっちり固定された大きな机だ。

「…くっそ!全部あいつのせいだ!」
「何怒ってるんだ?優しい人じゃないか」
「どこがだ!大迷惑もいいところだ!!」
「具合が悪い彼女を迎えに来るなんて、優しいよ」
「誰が頼んだ!?」
「そういう言い方、よくないぞ」

いつもおっとりしている凍矢が、珍しく非難めいた声で制する。

「優しい人だ。そんな風に言うべきじゃない。お礼を言ったのか?」
「礼だと…?」
「ありがとう、って。黙っていたって相手には伝わるだろうけど、時々は口に出して言わなきゃだめだ」

薄々思ってはいたことを、きっぱりと言われた。
飛影はふくれっ面をして、凍矢の青い瞳から目をそらす。

その青い瞳は妹の瞳にちょっと似ていて、
飛影はなんだか逆らえないような気分になった。
***
「飛影、雪菜ちゃん」

部活を終え、バス停に向かう双子の後ろから声がかけられる。

「あ、お疲れー。蔵馬さんも今帰り?」
「うん」
「ほんとに?」
「…ほんとは待ってた」
「やっぱね」

ばれちゃった、と、笑う蔵馬に、つい、いつもの癖で飛影は毒づく。

「ヒマなやつだな、お前は」

言ってしまってから、凍矢の言葉を思い出し、心の中で舌打ちをした。今日ぐらいは口の悪さは引っ込めておくつもりだったのに。

だが蔵馬はまったく怒る様子もなく、にこにこしている。

「飛影と一緒にいれる時間以外は、いつだってヒマだよ俺」

相変わらず聞いている方が気恥ずかしくなるようなことを言い、蔵馬は飛影の肩を抱く。
バス停に向かう道は、人通りの多い道だ。飛影が思わずその手を振りほどいた瞬間、陽気な音で雪菜の携帯が鳴った。

「はーい。何?今から?いいよ。車で迎えに来てくれるなら」

うん、わかった。
じゃあ待ってるね。

雪菜は携帯をパチンと閉じる。

「出かけてくるね!ママにはうまくごまかしといて!」
「おい、誰と…」
「ひみつー。じゃあね」
「雪菜!」

妹は空っぽの弁当箱を姉に押し付けると、あっという間に雑踏の中に消えた。
***
いつ言おう。
今?
いや、今はだめだ。
もう少し人通りの少ない所で…。

バスを降り、話しかけてくる蔵馬に生返事をしながら、飛影は考え込んでいた。

いつも、ありがとう、って?

…こっ恥ずかしい。
だいたい俺は何も頼んでなんか…。

いや、頼んだとか頼んでないとか、そうじゃなくて…
つまり…

「飛影、飛影ってば。今日はなんだかボーッとしてるね」

その言葉にハッと顔を上げる。
いつの間にやら、二人は飛影の家のすぐ近くまで来てしまっていた。

「…今日は…ここまででいい。氷菜が帰ってきてるかもしれないから」
「ねえ、そろそそ氷菜ママに俺のこと紹介してくれないのー?」

蔵馬はからかうように言った後、困った顔をする飛影に、嘘、冗談だよ、と笑う。

「じゃあ、今日はここまでね。また明日ね」

手を振って来た道を引き返そうとした蔵馬の手を、飛影の小さな手が止める。

「ん?どうしたの?」

今。
今言おう。
ありがとうって。

「……」
「飛影?」

だめだ。
やっぱり言えない…

ふと、紺色のネクタイが目に入る。

「飛影?どうし…」

ネクタイをぐいっと引っ張り、身長差のずいぶんある蔵馬の頭を飛影は引き寄せる。

唇を軽く重ねるだけの、キス。
飛影からのそれは、ふわりとかすめるような、小さなキス。

蔵馬の碧色の瞳に、驚きの色が浮かぶ。

「…飛影からしてくれるなんて初めてじゃない?何のごほうび?俺、今日は誕生日じゃないよ?」
「…よこせ」
「え?」
「これ、俺によこせ」

真っ赤になった飛影が、よこせと要求したのは、蔵馬のネクタイだ。

「これ?いいけど…?」
「…よこせ」
「これ、ずっと使ってたから傷んでるかも。学校で新しいの買っ…」
「うるさい!これでいい!」

ちょ、待って待って、首が絞まっちゃう。
飛影に引っ張られたネクタイを、蔵馬はシュッと外した。

「はい、どうぞ」
「……」
「何するの?こんなもの」
「………秘密」

妹の口癖を、無意識に呟く。

受け取ったネクタイを鞄に押し込むと、また明日ねー、という蔵馬の声を背にして、飛影は家へと駆け込んだ。