Photo op「仲の悪い夫婦の子供の結婚率は下がる、これは君たちも理解できるだろう?」授業の終わりかけ、ただの雑談のように話していた先生の言葉が、ひどく家庭的な食卓を前にしてくっきりと浮かび上がる。 心理学の先生は非常勤のおじいちゃん教授だ。白い髪はふさふさで、とても痩せてはいるが老人らしくなくすらりと背が高い。講義も人気がある。 所々に挟む雑談は、生徒である女の子たちに媚びるでもなく、かといってタイムスリップしてきたような昔の話というわけでもない。その辺のバランスの取り方が、意識せずとも上手い人なのだろう。 「ところがね」 この先生は、私たちが授業中に飲み物を飲むことを気にしない。自分も飲みたいから、と笑う。 ジャムを入れた紅茶という、お気に入りの飲み物の入ったカップからひとくち飲み、先生はいたずらっぽく続けた。 「とても仲の良い夫婦の子供もまた、結婚率は下がるんだよ」 ええー?なんでですかあ? どこか後ろの方で、声が上がる。 「仲の悪い両親を見て育てば、結婚というものに期待はない、むしろ辟易だろう。でもね」 でもね、とても仲の良い夫婦の子供は、結婚への期待度や求める達成度合いも違うんだよ。 自分の両親のようでなければならない、このくらいのレベルの愛情を手に入れられなければ、結婚などしてはいけない、と思うんだね。 「つまり、ハードルが上がるんだな」 チャイムが鳴り、今日はここまで、と先生は資料を片付ける。 だらだら話すのではなく、さらっと切り上げる、このへんも先生の上手い所だと思う。 窓の外は、たっぷりの湿度を含んだ、雨上がりの空だった。 ***
浮かび上がってきた言葉を、湯気の立つお豆腐とつみれのお味噌汁のお椀に沈め、私は食事を再開する。浅漬けの大根ときゅうりはみずみずしい。西京漬の銀鱈は香ばしくこんがりと焼き上がり、絹さやと厚揚げを卵でとじたひと皿は、懐かしく甘い味がした。 飛影の作る料理はいつでも少し甘めで、泪ママの味に似ている。 もっとも、それは泪ママがお店で出す料理っていう意味じゃなくて、私たちに作ってくれたご飯の味だ。 「今日ね、二重にかかっている虹を見たんだよ」 お味噌汁をひとくち啜り、蔵馬さんが笑う。 「虹?どこで?」 ほら、あの大きなマンションを壊した跡地があるじゃない?あの空き地。 ああ、あそこね。そっか、雨降ったもんね。でも二重って珍しい。あれ?デジカメは?今日は写真撮らなかったの? 出版社に勤めるママは大抵帰りが遅い。 以前は娘二人きりになることを気にして家に仕事を持ち帰ることも多かったけど、娘婿が同居をしていることで思う存分働けるようになったらしい。 だから平日はこうして三人でご飯を食べるか、あるいは姉夫婦が二人で食べているかだ。 今日はご飯はいらないと言うと、飛影はいつでもちょっと咎めるような目で私を見るけど、外食の多い私のおかげで夫婦水入らずの時間が持てるのだから、感謝してもらいたいくらいだと思う。 「写真は撮らなかったけど、すごく綺麗だった。ね?飛影」 「…ああ」 「あれ?虹、一緒に見たの?」 油揚げとミョウガの炊き込みご飯は、ママの好物だ。 帰ってきたら食べれるよう、小さなおにぎりにしたものが、ちゃんとラップをかけたお皿に並べてあった。 「いつ?仕事の帰り?」 どうってことのない質問だ。 なのに飛影は頬を赤らめ、返事をしない。 本当に、何度でも感心してしまう。 無言のままで、どうしてこんなに愛情を溢れさせることができるのだろうと、私は飛影をまじまじと見つめる。 「配達があったから、先に飛影だけ家に送ってきたんだけど、その後で…」 「おい、蔵馬」 「いいじゃん、何照れてんの」 涼やかなみょうがをシャリシャリと噛んで、私はうながした。 ***
双子の姉がいて、もう結婚している。学校でそう言うと、大抵の人はびっくりする。 デキ婚?という質問もいつものことだ。 多分、地球上のどこかには自分の運命の人がいるのだろう。 ただ、世界は広いから、本当にすごく広いから、出会えるかどうかはわからない。 出会えたとしても、それがいったい自分が何歳の時かもわからない。二歳では早すぎるし、九十歳ではちょっと遅いだろう。 だからみんな、適当な所で手を打つのだ。それは別に不幸ではないし、愚かでもない。 世界中を探すわけには、いかないんだから。 たまたま、飛影は運命の人に出会うことができた。 たまたま、それは十四歳の時だった。 だから二人はこうして一緒にいる。 一緒に眠り、一緒に起きて、一緒にご飯を食べている。 大きな二重の虹が出ていた話。 慌てて妻を迎えに来たと笑う夫。 サンダルで走って足が痛かったと、頬を染め口を尖らせる妻。 二重に架かった虹に気付くことができる心を持っていて、立ち止まることを知っていて、それを見せたい相手がいる。 虹を見せてあげたいと、走って迎えに行きたい相手がいる。 それは多分、一種の奇跡だ。 でも時々こうも思う。 この二人は、きっと前世から約束をしていてたのだ。 離れることなどできないと。来世でも一緒に生きようと。 私はこの世で一番、姉を愛している。 それでもちょっと嫉妬をおぼえるくらいの幸福が、目の前にある。 物事は、一瞬だから。 今日の虹は、明日にはない。 この街では、空き地はすぐに空き地ではなくなってしまう。 ようやく見上げることのできた空を、誰かがすぐに塞いでしまう。 「ちょっとでいいよ。でもミョウガはいっぱい入れて」 私の茶碗におかわりを盛ってくれる飛影に、注文をつける。 自分で盛れ、と言いながらも、飛影はミョウガをいっぱい入れてくれる。 炊飯器からご飯を盛る。ただそれだけのことをしている妻を、夫はじっと見つめている。 女神が泉から水を汲んでいるのを見るみたいな目で。 物心ついた時から、父親というものはいなかった。 仏壇も遺影もないのだから、死別というわけでもないのだろうけど、ママも泪ママも、私たちの父親の話をすることはない。写真一枚ないのだから、徹底している。 少なくともママの結婚生活というものは、たいして幸福なものではなかったはずだ。泪ママもまた謎の人で、いつでも恋人はいるらしいのに、結婚する気配は全然ない。 ということは、私の身近な結婚生活は、この姉夫婦ということになる。 ここが見本?これが基準?これと同じくらいに? このくらい愛して愛されて? そんな相手を探すの? 「うわあ」 「どうした?雪菜」 「別に。ハードル高いなって」 ハードル?と夫婦二人は全く同時に同じ言葉を放ち、不思議そうにこちらを見る。 私は溜め息をついて、ようやく冷めてきたお味噌汁からつみれをつまんで口に放り込んだ。やわらかくて生姜が効いていて、すごく美味しい。 つみれを頬張ったまま、私は手を伸ばし、ママの椅子に置いてあったカメラを取る。 相変わらず、蔵馬さんの写真はへたくそだ。 構図とかピントとか、何もかもいまいちな写真ばかりが入っているカメラを、私は何の気なしに、ふと二人に向けた。 写真が苦手な飛影が咄嗟に顔を背けるのを、蔵馬さんの大きな手のひらが包む。 二人がこちらを向いた瞬間を、私は指先で切り取った。 永遠の一瞬を、私は指先で閉じこめた。 ...End |