大人の階段

「行くの!」
「嫌だ」

先ほどから繰り返される二人のやり取りに、雪菜は天井を仰いだ。
***
いつものことなのに。

冷蔵庫から取り出したサイダーを飲みながら、妹はそれを眺める。

姉が生理痛で早退をするのは毎月のことだ。
だったら最初から学校に行かなければいいようなものだが、母親にあれこれ言われるのが面倒で、朝は普通に家を出るのだ。

今日もそうして家を出たのだが、案の定早退だ。
一人で平気だと飛影は言ったが、今回は飛影のあまりの顔色の悪さに雪菜も一緒に帰ってきたのだ。

普段は役に立つ飛影の恋人は、先日の件もあり、飛影が頼まない限り学校には迎えに行かないという約束を守っている。

仕事を持つ母親の氷菜が帰ってくる時間ではなかったのに、タイミング悪く忘れた書類を取りに家に寄った所に二人は帰ってきてしまったのだ。

「病院に行くの!今すぐ!」
「嫌だ」

不毛だな、と雪菜はグラスの氷をカラカラと回し、ため息をついた。

飛影は病院が大嫌いだ。もちろん誰だって病院なんて好きじゃない。だが、尋常でない病院嫌いなのだ。
普通の病院でさえ行かないというのに、婦人科など絶対に行くわけがない。

「雪菜!毎月毎月早退してたなんて、あなたも何で今まで黙ってたの!?」
「ええー?」

とばっちり、というのはこういうことを言うのだろう。

「やっぱりそうなっちゃう?ごめんねママ。でも私は飛影の味方だもん」
「味方とかそういう問題じゃないでしょ!大きな病気だったらどうするの!」

そう言われると、雪菜も詰まる。
本当のところ、毎月決まって真っ青になって早退する姿を見ていると、一度くらいは病院に行ってみた方がいいとは雪菜も思っていたのだ。

「…うーん。一度くらい行ってみてもいいんじゃない?飛影?」
「絶対、嫌だ」

雪菜の言葉にも飛影はにべもない。
氷菜の携帯は、さっきからカバンの中で何度も何度もしつこく鳴っている。会社からの連絡だろう。

「携帯鳴ってるぞ。仕事に戻らなくていいのか?」

飛影は冷たく氷菜に言う。

「…飛影」

ふと、氷菜は黙り込む。
雪菜と同じ、蒼い瞳がみるみる潤む。

…ママってばするい。
これじゃあ飛影の負けだ。ママの勝ち。

雪菜はそう悟る。

「だって…心配なんだもの…あなたたち二人に何かあったら…」

氷菜の目からは、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「…何かあったら、生きていけない」

その泣き顔に、飛影は大慌てだ。
泣くな、とか、わかったから、とか、そんな風に、アワアワしている。

結局、この母と娘の勝負は、雪菜の悟ったとおりの結末になったのだった。
***
「…行きたくない…」
「まーだ言ってんの?しつこいなあ」

まるで逃げ出さないように捕まえてるとでもいいたげに、二人は手を繋いでいた。

「…こんなとこ妊婦が来るところだろうが…」
「それは産科でしょ。ここは婦人科だってば」

今は年齢は関係ないの。高校生どころか中学生もいるってば。それにここ、おばあちゃん先生だからこわくないよ、優しいよ。学校の先輩がそう言ってたから大丈夫。

会議もすっぽかしてついて行くと言い張った氷菜に、私が一緒に行くから大丈夫、ちゃんと連れて行くから、ママは仕事に戻りなよ、と説得したのは雪菜だ。

「…もう痛くない、帰る」
「往生際が悪いなあ。女なら、どうせいつかは行く日が来るんだから」
「また今度でいい」
「…ママに電話するよ?」
「よせ!」

駅にほど近い、ビルの三階にある病院。
淡いピンクの看板は、いかにもレディースクリニックらしいやさしげな印象だ。雪菜が飛影の手を引いて、ドアに手をかけた途端、年配の看護婦が出てきた。

「あら?」

看護婦の手には“休診”と書かれたプラスチックの札がある。

「あれ?お休みなんですか?」

尋ねる雪菜に、人の良さそうな看護婦はすまなそうに頷く。
雪菜は“おばあちゃん先生”と言っていたが、この看護婦も相当な歳だ。

「ごめんなさいね。いつもはやってるんだけど、今日は午前中だけなの。先生が午後から留守で…」

雪菜の隣でほっとしたのは飛影だ。

「…休みなんだから、帰るぞ」
「しょうがないか…」

ごめんなさいね、ともう一度言いながら二人の顔を見た看護婦が、あらあら!とすっとんきょうな声を上げた。

「大丈夫?あなた真っ青じゃないの。ちょっと休んで行きなさい」
「え?…いや大丈夫…」

看護婦は遠慮する二人を招き入れ、待合室のソファに座らせる。

「ほら、横になりなさい」

二人の祖母といってもいいような歳の看護婦は、有無を言わせず、飛影を横にならせ、奥から持ってきたタオルケットをかける。
すみません、と頭を下げる雪菜に看護婦は、気にしないで、こちらこそ急な休診でごめんなさいね、と微笑んだ。

「生理痛がひどいと辛いわね。何か温かい飲み物持ってくるわね」

どっこいしょ、と言いながら看護婦が立ち上ったその時、奥からガチャンと物音がし、大声がした。

「ばあさーん、幻海ばあさんまだいるー?」
***
「若先生!」

ぎょっとしたのは三人とも同じだったが、看護婦はすぐにホッとした顔で奥へ向かった。

「若先生、今日は担当日じゃないでしょう?」
「そうなんだけど、ばあさんに用があってさ」
「今日は午後いらっしゃらないって、昨日言ったじゃないですか」

そうだっけー?という返事は、若い男の声だ。

姉妹は顔を見合わせる。
双子のカン、と言うほどのものでもないが、なんとなく嫌な予感がしたのは、二人とも同じだ。

「あ、そうだわ。ちょうど良かった!今ね、患者さんがいらしたの」

予感的中。

「いいよ。新患?」
「ええ。今準備しますから」
「急がないよ。採血も済ませてからで」

妹が、姉の手をぱっとつかんだ。
小声で、こらっ、と言いながら。

「どこ行くのよ」
「放せ、帰る。…男じゃないか」
「運が悪いよね。でもまあしょうがないよ」
「しょうがなくな…」
「怖くないってば」
「誰がこわ…」
「恥ずかしいの?相手は毎日見てるんだから何とも思ってないって」

そんな風に言われると、まるで自分が自意識過剰のようで、飛影は反撃できない。
姉妹のヒソヒソ声での会話は聞こえてなかったらしく、看護婦がにこにこしながら戻ってきた。

「良かった。若先生が診ますからね、問診表書いてね」

手渡された問診表を苦笑いしながら受け取った妹は、溜め息交じりに記入する。

隣で死んだふりをする姉に代わって。