夏宵

「…浴衣?」

蔵馬の目が、キラキラ輝く。

聞き間違いではない。
確かに今、飛影は浴衣と言ったのだ。

「……何か問題があるか?」

ちょっと頬を染めてそんなことを言われては。
蔵馬としては、ここが学校であることも忘れ、抱きつきたいような気分だった。

「浴衣って…浴衣だよね!? 夏に着る、あれだよね!?」
「浴衣を知らんのか?」
「知ってる知ってる!知ってます!で、それを!?」
「……俺が着ちゃ悪いのか」
「ううん!嬉しかっただけ!」

部活動のために登校している生徒以外はいない、人口密度の下がった夏休み中の学校。

二人は、一緒に夏祭りに行く約束をしていた。この町の夏祭りは遅く、八月も終わりになる頃に行われる。

飛影と一緒に、夏祭りへ。
それだけでも蔵馬はうきうきと指折りその日を楽しみにしていたのだが、なんと飛影は浴衣を着てくる、と言うのだ。

大好きな彼女が夏祭りに浴衣を着てくれるという。
これに喜ばない男がいるだろうか?

「…嬉しいのか?」
「当たり前だよ!本当に浴衣で来るの?来るんだよね!? もう約束したからね?」

何色の浴衣?あ、待って、やっぱり当日まで楽しみにしておくから言わないでね!
嬉しいな、写真撮ってもいい?えー?だめなの?

そんなことを言って心底嬉しそうにしている蔵馬に、飛影もまんざらではなかった。
***
取り出した浴衣をベッドに置き、いくつかの帯や下駄を飛影は出して並べ、眺めてみる。
普段は学校の制服、もしくはモノトーンでシンプルな私服を着ている飛影しか見たことのない蔵馬が、自分の彼女のワードローブを見たら、さぞ驚くことだろう。

意外にも、服はたくさん、本当にたくさん持っているのだ。

双子のクローゼットはウォークイン式の大きなもので、六畳ほどの広さがある。二人で半分ずつ使っても、充分な広さだ。

手前のラックには、いつも着ているモノトーンの服がかけられている。が、その奥には、パステルカラーのワンピースや、水玉模様のスカート、白いブラウス、やわらかなストールや洒落た帽子。身体のラインがくっきり出る、細身の綺麗なロールアップデニム。
ぺたんこではあるが可愛いサンダル、短い髪にも似合う、カチューシャ。

蔵馬の前では着たことのないそんな服が、山ほどある。
おまけに、クリーニングの袋のかかった浴衣も、何枚もかけられている。雪菜と共同の和箪笥には、振袖もあるのだ。

母親の氷菜の仕事はファッション誌の編集者だ。商売柄当然ではあるが、大の着道楽。
大人のファッション誌の担当なのだが、社内にはティーン向けの雑誌の部署もあり、今どきの服を割引でいくらでも購入できた。
おしゃれをするのが大好きな自分と雪菜のためにたっぷりと服を買うのはいいが、妹にだけ与えては不公平になると、姉の飛影にも同じだけ買ってくる。
いらないといくら言っても増え続ける服はまさにタンスの肥やし状態で、飛影が女の子らしい服を着るのは雪菜と、もしくは雪菜と氷菜と出かける時だけだ。

浴衣も、今年もまた新しいものが仕立ててある。
毎年、氷菜の親友である泪が、正月前には着物を、夏には新しい浴衣を仕立て、双子に贈ってくれるのだ。
雪菜は嬉々としてそれらを着るのだが、飛影とて、貰った以上、一度も着ないというわけにもいかない。
浴衣など面倒くさい、と思っていた飛影だったが、さきほどの嬉しそうな蔵馬の顔を思い出すと、まあいいか、と思えてくる。

浴衣を着るのを楽しみにするなんて、これが初めてだ。
***
「かわいいわよ、雪菜」

目を細める泪の前では、雪菜が姿見に映った自分の浴衣姿に満足気だ。
白地に青い朝顔を染めた浴衣に、片蝶結びにした濃い紫の帯、アップにした水色の髪も愛らしい。

「飛影、決めた?」

泪はやさしく問いかける。着付けが得意な彼女は、わざわざ二人のために家まで来てくれたのだ。
浴衣を羽織っただけの姿で、帯の結び方が何種類も描かれた紙を、飛影はじっくり検討している。

「どれでもできるわよ。どれにする?」
「………どれが、似合うと思う…?」

困ったような、ちょっと赤い顔で尋ねる飛影に、泪と雪菜は目を丸くする。
去年までの飛影は、どれでもいい、まかせた、と帯の結び方など気にもしてなかったのに。

「…恋の力は偉大ねえ」
「ねー?でも蔵馬さんはどれでもかわいいって言うよ、きっと」
「別に!蔵馬がどうとかじゃ…。だいたい、なんでお前、泪に言うんだ!」

雪菜は泪の後ろに慌てて隠れ、ニヤッと笑った。

「いーじゃない。ママに言ったんじゃないんだから」
「よくない!お前は口が軽っ…」

まあまあ、と泪が笑いながら止めに入る。

「大丈夫よ、氷菜には言わないわ。ところで…」

あなたには、これが似合うんじゃないかしら?
泪の指差した帯の結び方を見て、飛影はいつになく素直に頷いた。
***
「いってきまーす」

カコッ、と軽い音を立てる下駄。

「いってらっしゃい。あまり遅くならないうちに帰ってきて、氷菜にも浴衣姿見せてあげなさいね」

泪のやわらかな声に見送られ、二人は縁日の出ている、家から歩いて二十分ほどの神社を目指す。
七時近い時刻とはいえ夏の宵は暑く、湿った空気に包まれている。

中三の夏。八月も終わろうとしている。
夏が終われば、みな本格的な受験勉強が始まる。

それを厭うかのように、見ないふりをするかのように、同級生たちも、この祭りを楽しみにしている。
祭りの行われる神社へ向かう道々には、見知った顔がちらほら見えた。

「私、かき氷とクレープ食べたい!飛影は?」
「イチゴ飴と…わたがし。たこ焼き」
「いいね」
「焼きそばも食うか?」
「うん!あとね、ポテトと〜」
「食いすぎだろ」

子供の時からの癖で、二人は手を繋いで、クスクス笑う。
今日は、蔵馬も一緒に、三人で縁日を回る約束だった。

待ち合わせ場所の境内の入口の階段で、長い髪をポニーテール風に一つに結び、Tシャツとジーンズ姿の蔵馬を見つける。
立ったり座ったり、そわそわしている姿がおかしくて、二人はそっと後ろに回り、結んだ髪を雪菜が引っ張った。

「わ!…あ、飛影!雪菜ちゃん…」

振り向いた蔵馬は、二人を見つめたまま、黙り込む。
正確に言えば、飛影を見つめたまま、固まっている。

黒地に、優美な白く細い線が流水を描き出している。
黒と白という粋な浴衣にきりっと一文字に結んだ帯。
その帯は飛影の瞳と同じ深紅だ。
右耳の上には、短い髪を留める、龍を象った小さな髪飾り。

蔵馬の不自然な沈黙に、双子は顔を見合わせた。

「おい、蔵馬…どうした…?」

眉をしかめた飛影が問いただそうとした途端、蔵馬はほうっと溜め息をついた。

「……すっごく綺麗だね、飛影…」
「…え?なっ……何言って!お前は!」
「だって…飛影、君って…痛てっ」

足を蹴飛ばされた蔵馬が振り返ると、そこには双子の妹がムスッと立っている。

「あ、雪菜ちゃんももちろん綺麗だよ」
「知ってる。このバカップル!」

ー俺はバカップルじゃない…蔵馬が…
ーあーはいはい。さっさと行くよ、飛影。
ーこんな美人を二人も連れてていいのかな。両手に花だね。
ー今さらフォローしたって遅い!何か買って!
ーおおせのままに。

三人はそんな他愛もない言い合いをしながら、境内への階段を上った。
***
カリッとした飴の中身はすっぱいイチゴ。
蔵馬に買ってもらったイチゴ飴を舐めながら、双子は屋台を物色する。

「あ、ハッカパイプ!ママたちにお土産にしよう!」
「そうだな」

浴衣を着た雪菜は、いつにもまして人目を引く。
そして、少女と見紛うほどに綺麗な顔をした、髪の長い少年。
人波の中すれ違う人々は、みな二人の容姿にハッとし、そしてすぐに、間に挟まれた小柄な黒髪の少女に同情の視線を向け…

再び、ハッとさせられる。

縁日の光は辺りを橙色に照らしてはいるが、そのすぐ上には闇が迫り来ている。
その闇色とボワンとした妖しい灯り、境内の石畳、時をさかのぼったかのようなそれらは、黒髪の少女にひどく似合う。

妹と同じ、雪のような白い肌。
短い黒髪は艶やかに、大きな赤い瞳が凛と輝く。
黒い浴衣と赤い帯、髪飾りの龍。

夜の神社の境内という、非日常の場所で。
それらはまるで、少女を異界からの使者のように魅せた。
***
「ゆーきーなー!」

ヨーヨー釣りの屋台の前でしゃがみ込んでいた三人に、祭りにふさわしい、陽気な声。
雪菜と蔵馬のクラスメートである、1組の女子が三人。みな可愛らしい浴衣を着ている。

「あー!みんな〜!」

早々にこよりだけになってしまった釣り針を振り回しながら、雪菜は陽気に立ち上る。
蔵馬の手の中にも、収穫ゼロであえなく散った、白いこより。

「雪菜、デートの邪魔してんの?」
「してないもん。お姉ちゃんが一緒に行こうって言うから」

ーそれって邪魔って言うんだよ。
ーうっそ!そうなの?
ーそ。ねえ何食べたー?
ーイチゴ飴とね、かき氷と…
ーえー!かき氷は一緒に食べようって言ったじゃん!
ー大丈夫。かき氷なら何杯でもいけるから

女の子たちは、くるくる喋り、くるくる笑う。
時折、噂の彼女、である雪菜の姉を横目でチラリと見ながら。

飛影はといえば人がきたことにも気付かずに、真剣なまなざしで、水面を見つめている。
二個目のヨーヨーに狙いをつけ、上手く釣り上げた。紫のヨーヨーと黒いヨーヨーを一緒に後ろ手で蔵馬に手渡し、早くも次に狙いを定める。

三個目は、赤地に白と黄色の縞模様のヨーヨーだ。
細く白い指が、迷いなく狙い、すいっと動き、軽やかにヨーヨーを釣る。

その様に魅入られている蔵馬に気付いた雪菜とクラスメートたちは、何やらごにょごにょ囁き合う。

蔵馬さん、と雪菜が小さく呼ぶ。

「……あ、ごめん。何?」
「私、みんなと回るから。帰りに合流しよう」
「え?なんで?」
「実はね、みんなと約束してたの」
「じゃあ、みんなで一緒に…」
「バッカだなあ。飛影と二人きりにしてあげるって言ってるの」

ヨーヨー釣りに夢中な飛影は、喧騒に紛れる会話には気付きもしない。

「…夏休みの宿題で、手を打つよ」

二時間後に、神社でね。
それまでは、フリータイム。

雪菜はそう言ってニヤッと笑い、コン、と下駄を鳴らした。
***
チッと舌打ちをして、飛影が立ち上った。
とうとうこよりが切れたらしい。

「おいおい、ねえちゃんもう十分だろ〜?」

テキ屋が苦笑するのも無理はない。
飛影はヨーヨーを八個も釣り上げていた。

「十個はいけると思ったんだがな…あれ?雪菜は?」

水と空気でぴっちり丸くふくらんだヨーヨーを抱え、飛影はやっと雪菜がいないことに気付く。

「クラスの子たちと会ってさ。その子たちと回るから、二時間後に待ち合わせようって」
「なんで俺に言わずに…」

いや、言ったけど聞いてなかったよ、と思わず蔵馬は笑う。

「二人きりじゃ、嫌?」
「…別に」

嫌ではない証拠に、白い頬は薄く染まった。

「これ、後でそいつらにやれ」

ちゃぽちゃぽ水音を立てるヨーヨーを蔵馬に全部押し付け、飛影もまた、コン、と下駄を鳴らした。
***
「あーん」
「アホか。自分で食え」
「冷たいな〜」

どこもかしこも人で溢れ返っていたが、本殿の裏手に回れば、座る場所くらいはある。
やけに繁盛している屋台で買ったたこ焼きは、焼き立てで美味しかった。

山ほど抱えたヨーヨーも、竹串に刺したたこ焼きも、あり得ない色のべっこう飴も、何もかもが、嬉しく、楽しい。

蔵馬はしみじみと、そう感じる。
その理由は、わかってるけど。

隣に座る、恋人の体温。びっくりするほど浴衣が似合う恋人の、浴衣ごしの、温かさ。八月の終わりとはいえ、うっとうしく感じてもいいその温かさが、ひどく心地よい。

なのに。

「蔵馬」

はい、と微笑んだ蔵馬に、飛影はあっさりと、容赦のない爆弾を落とす。

「志望校のことだけどな…」
「うん。どこにするか決めた?」

以前から、蔵馬は言っていたのだ。
飛影と一緒の高校に行くと。だから志望校を決めたら教えてくれと。
なにせ学年で一位の成績だ。飛影がどこを選んでも、同じ高校に行くつもりだったのだ。

「…悪いが、俺は」

飛影らしくもなく、歯切れが悪い。

「………明桜に行く」
***
明桜。
明桜女子学院。
この辺ではお嬢様学校として有名な、百年以上も歴史のある、古い女子校だ。

「………」

文字通り、言葉を無くしている蔵馬に、さすがに飛影も気まずそうな顔をした。

「すまん。なんだか…言いそびれていた」
「………」
「その…氷菜の母校で…そこに進学するって…氷菜が前から決めてたんだ」
「………」
「そのために、半端な時期なのに転校してきたんだ、俺たちは」
「………でも…そんな…」
「明桜に行くんじゃなけりゃ、そもそもこの中学にも来なかった」
「………」

そう言われては、返す言葉もない。
別々の高校に行くか、元々出会うこともなかったか。

その二択ならば、もちろん蔵馬は前者を取る。

けれども。

先ほどまでの、浮き立つような祭りの喧騒が遠く聞こえる。
別の高校へ行くということが、どういうことか飛影は少しも分かってない、と蔵馬はうな垂れる。

登下校のひととき、授業の合間の休み時間、昼休みの1時間、放課後の体育館で飛影の部活が終わるのを待つ、幸福な時間。
小さな時間は、日々重ねれば莫大な時間だ。

「……がっかり…」

あまりに素直なその言葉に、飛影は困り果てる。
最後の一個だったたこ焼きを刺し、蔵馬に差し出した。

「…食っていいぞ」

まだ温かいたこ焼きを口で受け取り、放心したまま蔵馬は咀嚼する。

「そんなに気を落とすな。別に会えないわけじゃなし」
「……うん」
「帰りとか、休みの日とか、あるだろうが」
「……うん」
「……そんなに…俺と、一緒にいたいのか?」
「うん」

しょんぼりと、蔵馬は頷く。

「…たまには一人でいたくないのか?」
「いたくない」
「お前には、家族も友人もいるじゃないか」
「うん」
「…なのに、俺と四六時中、一緒にいたいのか?」
「うん。俺は…」

俺は誰かと一緒にいたいんじゃなくて、飛影と一緒にいたいんだ。
できるだけ長く、できるだけ近くにね。

「…大好きだよ、飛影」

イチゴ飴のように、みるみる頬を赤くした飛影は、変なやつ、と小さく呟く。

「…好きです。だから、我慢するよ」

蔵馬の左手が、飛影の右手の上に乗せられる。

「……」

俺も好きだと、言葉で返すべきなのだ。
だから違う高校へ行くぐらいでガタガタ言うなと。
しかし、口に出して言うことが、飛影にはなかなかできない。

「……蔵馬」
「ん?」

蔵馬を見上げたまま、飛影がふわりと目を閉じた。
大きな赤い瞳が閉ざされると、驚くほどあどけない、幼い顔になる。

「え…?飛影…?」

飛影の意図が分かって、急に胸の中で跳ね出した心臓に落ち着けと言い聞かしながら、蔵馬はなめらかな頬を手の平で包む。

「飛影…」

形のいい、綺麗な唇。
蔵馬もゆっくりと目を閉じ、そっと唇を重ねる。
***
二人にとって、初めてのキスは、ほんの、五秒くらいのものだった。
そのつもりで自分から目を閉じたというのに、飛影にはずいぶん長い時間に感じられた。

唇が、離れる。

互いに、ゆるゆると目を開ける。
間近で顔を見つめ合ったまま、数秒。

碧の瞳と赤い瞳が、吸い寄せ合う。

祭りの喧騒。
熱気の満ちた、空気。

「…飛影…もう一回、してもいい?」
「だ、だめだ!」

こんなに人がいる所で俺は何をしているのか、と我に返った飛影が、慌てて蔵馬を押し退ける。
蔵馬もそれ以上ごねはせず、笑いながらわたがしの袋を開けた。

騒々しい色のビニール袋に入った二本のわたがしを一本ずつ持ち、黙って口に運ぶ。
照れ隠しに、二人揃ってヨーヨーに指を通し、パシャパシャとたたきながら。

「ねえ、飛影」
「…なんだ」
「来年も、一緒に来ようね」
「…ああ」
「再来年もね」
「…ああ」

女の子たちの、騒々しい笑い声が近づいてくる。聞きなれた、雪菜の笑い声もする。下駄の鳴る音。
近づいてきた女の子たちに、蔵馬は立ち上がり、ここだよー、と手を振る。

飛影は指先でそっと唇をなぞり、夜空を見上げた。

夏が、終わる。

中学校最後の夏は、
ぬるい夜風とともに、大気に溶け出し、終わろうとしていた。


...End.