愛娘

髪の長い、とてもきれいな顔をした男の子。
その子が角を曲がって見えなくなるのを待って、氷菜はようやく物陰から出た。

…驚いた。
あの子が、ねえ?

もっとも、氷菜の驚きはすぐに笑みに取って代わる。

かわいい、かわいい、自慢の娘たちは双子ではあるが似ていない。だから、見間違うことは母親の自分でなくともあり得ない。
今し方、自宅へもう少しで着くというこの通りで、奥手だと思っていた姉の方が男の子にキスをしているのを見たのだ。

かわいらしいキスの後、どういうわけか飛影は男の子のネクタイを受け取って帰って行った。
男の子の方を振り返って手を振るでもなく、走って家に帰ってしまう後ろ姿。

若い頃の自分にそっくりの雪菜は、どうも特定多数…母親としては自分に似ているだけに頭が痛い…の異性と恋愛を楽しんでいるようだったが、姉の飛影はどうもそういうことに疎い、ように思っていたのだが。

親バカを差し引いても美しい顔立ちで、愛想も要領も良く、いかにも女の子らしいちゃっかりした所もある雪菜はもちろんかわいい。対照的に、ぶっきらぼうで愛想がなく、男の子のような振る舞いをする飛影もまた、ある種のかわいらしさがある。

どちらも氷菜にとっては、愛おしい大切な娘なのだ。
***
去年、いわゆる出世というやつをしてから、氷菜は仕事が忙しく、出張であちこちを飛び回ることも多くなった。
もちろん女手一つで娘を育てている身としては、給料も大幅に上がる出世は大歓迎だ。だが、泊まりがけの出張も多くなる、と上司に言われた時、真っ先に思い浮かんだのは二人の娘のことだった。二人は、賛成してくれるだろうか…?

「別に気にしないでいいよ。子供じゃないんだから」
「…ああ。気にすることない。二人でも大丈夫だ」

意外にも、娘たちはあっさりとそう言った。
それでも年ごろの娘を持つ氷菜としては心配で、新たにセキュリティをあれこれ増やし、仕事に打ち込むことにした。

「ただいまー」

指紋認証、だの、暗証番号入力、だのを済まし、ようやく家の中に入れる。

キッチンでごそごそしていた飛影が、ぶっきらぼうにおかえりと言う。

「早かったな。俺も今帰ったところだから飯まだできてないぞ」
「たまには私が作ろうと思って早く帰ってきたの」
「…別にいい。俺が作るから座ってろ」

飛影はすでに冷蔵庫から様々な材料を取り出し終わり、すでに包丁を握っていた。

「ところで雪菜は?」
「あ〜…。明日追試があるとかでクラスメートの家に泊まって一夜漬けするとか…」
「またあ?あの子追試ばっかりじゃない?」
「…そうだな」

雪菜と違って飛影の嘘は上手いとはいいかねる。
とはいえ今日の氷菜は、そこに意地の悪いつっこみをする気はなかった。
それより…

「さっきね、ほら、コンビニの前の通りをね」
「んー?」

冷凍してあったご飯を二人分、電子レンジに放りこみ、手早く野菜を刻みながら、飛影は生返事をする。料理を任せるようになってからそれほど経ってはいないのに、母親が驚くほどに姉は料理が上手になった。
一度食べた妹の料理は目も当てられなかったが。ま、誰にでも得手不得手はある。

「すっごーくかっこいい男の子が歩いているのを見たのよ」
「…ッて!!」

軽やかにまな板を打っていた包丁が、飛影の指先を切った。

大丈夫!?と慌てて氷菜は駆け寄る。
切った指先を洗ってやり、救急箱を取ってくる。

「…つ…」
「座ってなさい。あとは私がするから」

思いかけず深く切った傷をガーゼと包帯で手当てをしてやり、氷菜は包丁を握る。

悪いことしちゃった、氷菜は内心で舌を出す。
まったく、我が娘ながらわかりやすいにもほどがある。

「それでね、その男の子なんだけど…」
「…まだ続きがあるのか?」

包帯の巻かれた指先を見つめるフリをしてうつむいているが、その頬がうっすら赤いのを、氷菜は見逃さない。

かわいい。
本当に、かわいい。

八宝菜の材料を刻みながら、氷菜は笑みを押し殺す。

「あんまりかっこいいから、追いかけようかと思っちゃった」
「なんでだ!?」
「なんでって、もちろん仕事に」

氷菜の仕事は雑誌の編集者だが、時折モデルを使うこともある。
最近は素人モデルが流行りで嫌になっちゃう、と以前氷菜はこぼしていた。

「し、素人は…プロ意識がないから嫌いだとか言ってただろう?」
「うん。でも、それを差し引いてもかっこいい子だったのよー。背も高くて」

ちょっと女の子かと思うような顔だったけど、という言葉に飛影が一瞬ムッとする。
わかりやすい。わかりやすすぎる。

にやけそうになる顔を引き締めて、氷菜はフライパンに火を点けた。

「ま、顔のいい子は得てして性格が悪いのよねえ。あんなかっこいいと女の子を泣かせてるかもね」

フライパンの立てるジュウジュウ盛大な音に負けないように、陽気に喋る。

「ね?飛影もそう思わない」
「……思わない!」
「どうしたの?」
「…いや、なんでもない…」

飛影はのろのろと皿や箸を二人分並べ始めた。
心なしかしょんぼりした後ろ姿。

氷菜は思わずフライパンを置き去りにして飛影に駆け寄り、後ろから抱き締めた。

「わっ!何して…!危ないだろうが!」

落っことした皿は幸いにも割れることもなく、床でくるくる回っている。

「おい、氷菜!放せ!フライパン焦げるぞ!!」

大人しく腕を解いた氷菜を振り払い、飛影はフライパンを火から下ろす。
ちょっと炒めすぎた八宝菜を皿に盛りながら、飛影は盛大に溜め息をついた。

「飯を作っている時に冗談はよせ。火事になる」
「だって、飛影があんまりかわいいから」
「は?いきなり何言ってるんだ?」

相手にしていられないとでも言うように、飛影はてきぱきとご飯を盛り、すでに出来ていたスープを盛った。
二人分の夕食を並べ終わると、一人さっさと座り、食べ始めた。

「ほんとにかわいいわよ。飛影は」
「…今日はいったいなんなんだ…?」
「あのかっこいい子、いつ紹介してくれるの?」
「…っ、ぐ」

これまたわかりやすくむせ返った飛影に、氷菜がウーロン茶を差し出す。

「…見てたのか!?」
「うふふ、見ちゃった」

真っ赤になって椅子から立ち上った飛影の肩を沈め、再び椅子に座らせる。

氷菜はにっこり笑うと、今度は真正面から飛影を抱き締めた。

「…なんだ?」
「あの男の子はお目が高いわ。私の宝物に惚れるなんて」

母親のストレートな愛情表現に、飛影は落ち着かない思いで目を反らした。

「…私の飛影」

飛影がおどおどと視線を上げる。

「あなたと、雪菜は世界一の娘よ。誰よりもかわいい、私の娘」

そのあなたを選んだんだもの。
あの男の子は、才色兼備、ってやつね。

今度紹介してね。
急がないわ。
気長に待ってる。

「さーて。冷めちゃうわ、食べましょ」
「…ああ」
「スープも美味しい!料理上手になったわねえ」
「…そうか?」

二人きりの食卓はいつも通り、会話が弾むというわけでもなかったが、
湯気を立てる料理と共に、ふんわりと温かな時間だった。