繋いだ手

ペンの下書きをなぞるようにして、しなやかな手が刃先を進める。
手を切らないでね、と俺は声をかけたが、刃物を扱う飛影の手付きには危うさはない。
黒、深緑、紫といった花々をまとめながら、俺は微笑んだ。
***
「ごめんね。誰でもいいってわけにはいかないの」

両手で拝むようにし、小さく舌を出す氷菜さんの仕草も顔も、本当に雪菜ちゃんに似ていた。
飛影と雪菜ちゃんの父親の顔を見てみたいものだとひそかに考えながら、俺は朝のダイニングテーブルで義理の母を見つめていた。

氷菜さんの勤め先が三十周年を迎えるとかで、ハロウィンの今夜、大きな会場でパーティーを予定していることはもちろん知っていた。
長年会社が懇意にしている高名なフラワーアーティストにずいぶん前から装花を頼んでいたというのに、ぎっくり腰を起こしたとかで、それどころではなくなったというのだ。

そこで俺に、白羽の矢が立ったというわけだ。

「パーティーは六時からだから、夕方までなの。本当にごめんね、こんなにぎりぎりに」
「大丈夫ですよ、間に合わせますから。定休日なんで他の仕事もありませんし。でもいいんですか?俺みたいな無名の店で」
「何言ってるの、私の見る目もあなたの腕も確かよ。頼りになる婿ね!埋め合わせはするから」

面倒な頼みごとを引き受けた途端に、晴れやかな笑顔を見せる。そんなところも雪菜ちゃんにそっくりだ。

ハロウィンが迫るこの十月は本当に忙しく、定休日の今日は久しぶりにゆっくりして手の込んだ夕飯でも作ろうと思っていたが、この義母の頼みを断れるはずもない。

「じゃあ私は仕事に行くから。飛影、雪菜、蔵馬さんを手伝いなさいよ」

他人事のようにアイスティーに氷を足していた雪菜ちゃんが、えっ!と声を上げる。
ちょっと、という抗議には耳を貸さず、氷菜さんはばたばたと出かけて行く。

どたばたを眺めつつ、バタートーストとみずみずしい葡萄を静かに咀嚼していた飛影は紅茶でそれを流し込み、雪菜、と妹に声を掛ける。

「雪菜、お前単位ぎりぎりだろう。学校へ行け」
「えー?でも今日の夜なんでしょ?やばくない?」

大丈夫だよ、と笑う俺にかぶせるように、飛影が言う。

「やばいのはお前の単位だろう」
「そうだ。確かにやばい。でも」
「俺は大丈夫だから、二人ともちゃんと学校に行って」

ティーポットから自分のマグカップに紅茶を注ぎ、俺は手を振る。一瞬、飛影が不満そうな顔をしたことを俺は見逃さない。
実際はなかなか厳しい作業になりそうだったが、今からかかれば一人でやれないことはない。

玄関で靴を履く俺に、手伝いがいるなら呼べよ、とぼそっと言う飛影と、ごめんねー、と氷菜さんそっくりの顔で舌を出す雪菜ちゃんに手を振り、車の鍵を手に取った。
***
隣の喫茶店に頼んだサンドイッチを頬張りながら、鉛筆と消しゴム、何本かの色鉛筆でざっくりとデザイン画を描く。

準備に予想以上に時間がかかってしまった。アレンジメントを作る以前にそもそも花が全く足りなかったからだ。
この季節はハロウィン向けの色合いの花を多めに仕入れているが、元々今日は定休日だったのも、ハロウィン当日の今日だったのも痛かった。
取引のある問屋や同業者に無理を言い、なんとか求める量の花をかき集めた今は、もう十二時近い。

一枚板の大きな作業台に、山のように花を並べた。

テーマはハロウィン、そして三十周年だ。
大人の女性をターゲットにしている会社にふさわしく、子供じみたかぼちゃはなしにして、黒と紫と二色でシックにまとめ、差し色に赤に近いオレンジ、そこに濃い緑を添えて仕上げるつもりだ。

会場のホテルが手配したトラックが四時半に引き取りに来るとかで、かなり大きなアレンジメントにしても問題ないと言われている。

カラン、と入り口のベルが鳴る。
定休日の札のかかる店のドアを平気で開ける者もいるが、そうではないことはわかっていて、俺は振り向いた。

「飛影」

黒いニットの首回りには細いラインのように白いシャツが覗いている。黒いジーンズ、飾り気のない鞄。
いつも通りの通学用の格好をした飛影はドアを閉め、足音のしないやわらかな黒いスニーカーでこちらに近付く。

俺の視線から逃げるように、飛影はふいと目をそらす。

「俺は雪菜と違って、単位すれすれじゃないんでな」

俺はまだ何も言っていない。なのに言い訳めいたことを言う飛影がかわいくて、つい口元が綻んでしまう。

喫茶店の皿の側に色鉛筆を置く。各二つずつ皿にのっていた、ハムサンドとたまごサンドとチーズのホットサンドがそれぞれ一つずつ残してある。

飛影が来ることをわかっていた自分、に俺は気付く。

「ありがとう。じゃあ、取りあえずお昼がわりにこれを食べて。それから二人で分担しよう」

手も洗わずにサンドイッチを一つつまみ、飛影はこっくり頷いた。
***
二人で切り揃えた花を、自分で描いた図案を確認しながら、吸水性のあるスポンジに差し込んでいく。

俺が必要な花を指示し、飛影が手渡す。
およそ仕事というものに向いている方だとは思えないのに、あまり説明をしなくても不思議と飛影には俺の考えが伝わる。あれ、とか、そっち、で意味はきちんと通じるのだ。

愛情のなせる技かな、などとニヤけようにも時間がない。

もちろん絵で描いた通りに上手く納まるわけではないが、花たちはいつでも俺の思う通りの形になっていく。
描いた通りの巨大なアレンジメントができ上がったのは三時半で、引き取り予定の四時半には充分間に合う時間だった。

でも。

「なんか違うな…」

俺の言葉に困ったような顔をした飛影だったが、一歩下がって全体を確認し、俺の言っている意味が分かるというように、小さく頷く。

まとまりすぎていて、まとまっていないのだ。

「…かぼちゃ」
「え?」

ハロウィン用のかぼちゃは、もちろんいくつも仕入れてある。
店の片隅の木箱に積み上げてあった大きな黒いかぼちゃを飛影は手に取り、作業台に乗せる。うちの奥さんは小柄な割には力持ちだ。

「かぼちゃも入れたらいい」
「そう?大人の女性のパーティーだから、どうかなと思ってたんだけど。子供っぽいかなって」
「女の集まりだろう?女はいくつになってもこういう物が好きだからな」

およそ女っぽいところはない飛影なのに、女三人の家族で、女子校、女子大と進んだだけあって、言葉には妙な説得力がある。
ちょっと考え、俺はオッケーと返事を返し、飛影にかぼちゃの切り抜き用のナイフを渡す。

「じゃあ、飛影はかぼちゃを頼むよ。俺は花の位置を変えて、そのかぼちゃが入るようにするから」
***
ピロンと軽い音を立て、氷菜さんからのメッセージが入る。
最高!という言葉の後に、ハートマークがいくつも並べられている。

最高。確かに。

飛影の助言通りに入れたニヤニヤ笑うかぼちゃは、濃い葉陰から覗くようにユーモラスに納まり、最後に入れたダマスク織のシックなリボンと共に、花たちを引き立てまとめ上げた。
大人っぽいアレンジの花に女性が喜びそうな遊び心が加わり、完璧な仕上がりだ。

約束の四時半にぎりぎり間に合ったアレンジメントは、大げさなトラックに積み込まれ、走り去って行った。
なんとか間に合ったという安堵に、動きっぱなしだった疲れを急に感じ、作業台に寄りかかる。

「やれやれ、間に合ったね」
「…悪かったな」
「え?」
「久しぶりの休みだったのに。氷菜のやつ」

俺は作業台に腰掛け、飛影の腕を引く。
腰掛けた俺の足の間に、立ったままの飛影の体がある。こうすると俺たちの身長はちょうど同じくらいになり、飛影が俺を見上げなくとも、目を合わせて喋ることができる。

「全然悪くないよ。でも、飛影のおかげで助かった」
「俺の?」
「うん。なんかまとまりきらなかったから。飛影がいてくれて、あのかぼちゃを入れることを考えてくれて助かった。君がいなかったら間に合わないか、中途半端な物を納品するところだったよ」

間近で見つめ合っていた、飛影の頬が薄く染まる。
いったいどうしたというのだろう。

「役に立ったのか?なら、良かった」

小さく呟くような、その言葉。
なぜかそれに、安堵の響きを感じて、俺はかぼちゃの汁ですっかり汚れた飛影の両手を取る。

「…どうしたの?」
「別に」

飛影の肩を引き、足の間で抱きしめる。
ふわふわの短い黒髪が俺の頬をくすぐる。

「別に、なんて言わないで。どうしたの?」
「……俺はいつも役に立たないから、役に立てたなら良かった」

まじまじと見つめた飛影の顔は、いつも以上に子供っぽく見えた。

「役立たずだなんて、思ったことないよ」

飛影は無言のまま、俺の腕の中にいる。
確かに働いて家計を支えているのは氷菜さんと俺だけれど、一体何を飛影は引け目に感じているのだろう。

ふと、飛影の学校用の鞄、黒い帆布のトートバックに納まり切らずに飛び出している雑誌が目に入る。
四十代向けの女性誌のそれは、普段の飛影が手に取るような雑誌ではない。なぜそれが四十代向けの女性誌だと俺にもわかったかと言うと、十人ほどの働く女性のインタビューが掲載されていて、そのうちの一人が氷菜さんだったからだ。

数日前、見てーママが載ってるの、と屈託なく笑う雪菜ちゃんと一緒にざっと目を通したその本には“愛と依存は別のもの。パートナーに頼らない自分の道を切り開く十人の輝く女性たち”とかなんとか陳腐なコピーが、すらりと美しい女性たちと共に躍っていた。

木細工の掛け時計が、コッチコッチと律義に音を立てる。
表の雑音にかき消されそうな小さな声で、飛影が言った。

「……俺ばかり、お前に依存している気がし…」
「依存して」

きっぱりと、俺は言う。
驚いて顔を上げた飛影に、俺は笑みを浮かべる。

「俺に依存して。俺がいないと生きて行けないくらい。だって」

硬直する体を抱き上げ、俺を跨がせるようにして膝の上に乗せる。

「だって俺はあなたがいないと、生きて行けないよ」

俺があなたにそんなに依存しているのに、あなたがしてくれないなんて不公平じゃない?
俺の言葉に、飛影はみるみる赤くなる。

「…俺は」

ひょいと飛影を抱き上げたまま、入り口の扉の鍵をかける。
通りに面した大きな窓には、開店した時から深緑のカーテンがある。滅多に使わないそれを勢いよく引き、窓も閉ざした。

「おい…?」
「大好きだよ、飛影。依存?…上等だね」

作業台にバラバラと散らばっていた茎や葉を手で勢いよく払い、飛影を下ろす。
トンと肩を押し、仰向けに横になった飛影に俺は覆いかぶさり、唇に頬に首筋にキスを落とす。

「……くら…っ……ん」

小さな口の中で、小さな舌を追い回す。
黒いニットと白いシャツをまとめてジーンズから引っぱり出し、手のひらであたたかくなめらかな脇腹を伝う。
シンプルなブラと肌の間に指を入れた途端、飛影の体が強ばった。

「ルール違反…してもいい?」

大きな目が、揺らぐ。

「…ごめん。こういうのは好きじゃないって知ってる」

きちんとシャワーを浴びて。きちんとベッドで。誰の気配も感じない、静かな場所で。
明文化されているわけではないにしろ、セックスに関して飛影のルールが多いことは理解している。そのルールは全て、飛影の恥じらいからくるものだということも知っている。でも、今は。

「…してもいい?」

唇を重ね、ブラの隙間から小さな乳首の先端をそっとつつき、俺は囁いた。
躊躇うように軽く拳を作った飛影の両手。

次の瞬間、その小さな手が、俺の首に回された。
***
人の声、車の音、どこかの店から漏れる騒々しい音楽。
扉を隔ててどこかぼんやり聞こえる騒めきは、止むことがない。

俺にとっては完璧な大きさに思える、白い胸に強く吸い付く。
硬くなった乳首を口の中で転がし、下着の中に入れた指でぬるりとした感触を捉え、飛影がすっかり濡れていることに俺は嬉しくなる。

「…飛影」
「……っ、ぁ…」

とろとろと蜜を流すそこを中指で探り、たっぷりと濡らした親指で、少し上の肉の粒を弄る。
左右に小刻みに指を動かすと、その動きに合わせるかのように、俺の下で声が漏れる。

「う、あ、…っあ…っあ…っあ…っ!く…ら……」

感じやすいくせに、声を上げるのはよしとしない。
子供のような顔と体で、快感にはすぐに濡れる。

このアンバランスさがまた、俺を狂わせる。

きつく俺の髪を握っていた手が離れ、脱ぎかけていた俺のジーンズの中にそろそろと入ってくる。
飛影が触るまでもなく飛び出していたそれにびっくりしたのか、小さな手が慌てたように引っ込む。

「…蔵馬…っん」

口を尖らせて何か言いかけた唇に今度は軽いキスをし、俺は飛影の両足を肩へ乗せた。
白くまるい膝。真っ直ぐなラインの足。
その間から覗く飛影の顔は、うっすら汗をかき、上気している。

ぐっしょり濡れたピンク色の割れ目に、俺はゆっくりと差し込む。
包みこむ肉のあたたかな締め付けに、初めてコンドームを忘れたことに気付いたが、もう止められない。

弓のように反り返る飛影の背。
切れ切れの喘ぎ声。

表の雑音も聞こえなくなるほど夢中で、両手で飛影の体を探り、なめらかな皮膚に跡を残し、俺は腰を振る。
掛け時計も呆れるほど長く、飛影の体内を俺は行き来する。

俺の体から滴る汗が、飛影の肌の上で跳ねるのが見えた。

「くら……っあああ…」
「飛影…ひえ…!」

夢中になってはいても、してはいけないことはわかっている。
絶頂の一瞬、俺は腰を引きかけ…

ふいに、強い力で抱き寄せられた。

「…蔵馬」
「飛影、っあ!」

あっと思った時には遅かった。

脳に直接アルコールでもぶちまけたような快感の中、俺は飛影の体内に放っていた。

「…ごめん」

抜こうにも、手遅れだ。
きゅうきゅう締まる飛影の中に、俺の種は全部注ぎ込まれてしまった。

一緒に上り詰め、一緒に解放された飛影は息が整わず、体を弾ませている。
俺を抱き寄せていた両腕から力が抜け、作業台の上に落ちる。

「ごめん、飛影。中に…」
「……構わん」

薄く笑って言うと飛影は体を離し、まだ乱れている呼吸のまま、作業台の端にちょこんと座るように起き上がった。

「ひえ…」
「…お前が我を忘れるのを見るのが、俺は好きだ」

裸で、汗だくで、上気した頬。

「お前をそうさせるのは、俺だけだろう?」

裸で、汗だくで、上気した頬で、飛影は笑った。
おかしそうに、嬉しそうに。

「飛影」
「俺だけなら、いい。許す」

大きな作業台のあちこちに散らばっていた下着を拾い、飛影はぴょんと床へ降りる。

「ガキができたらできたで、養うのはお前だしな」

照れ隠しの憎まれ口をひとつたたき、下着を着ける。
さっさと服を着ろ、帰るぞ、と投げつけられた服。

ああ、と俺は目を閉じる。

氷菜さんにした約束を、俺は忘れたことはない。
飛影を一人にはしないと、例え一日であっても俺の方が長生きすると、誓った。

依存が聞いて呆れる。
飛影がいないのなら、一日でさえ、きっと気が遠くなるほど長い。

「腹が減った。片付けは明日にしろ。帰るぞ。…おい?」

差し出した手を思いがけず強く掴まれた飛影が、振り返る。

「どうした?」
「…ずっと、俺のそばにいてね」

きょとんとし、俺はここにいるぞ、とあっさり言う飛影の手を、俺は握る。

小さくあたたかな手がどこにも行かないように、離れて行かないように。
強く硬く、握った。


...End

2018年、ハロウィン期間限定アップ。
2019年10月、再アップ。