髪飾りあたしの孤独は、まるでコップに水がぽたぽたぽたぽた落ちるみたいだった。街は賑やかで、騒々しくて、みんなが楽しそうに見えて、あたしは水がなみなみと入ったコップを揺らさないように、水面から目を離さずに、それでも必死に駆けていた。 ***
コロロロン、という軽い電子音にあたしはまた携帯を開く。大学の友人が「☆着付け完了☆」というメッセージともに浴衣姿の三人分の写真を送ってきた。コロロロン、コロロロンと立て続けに音が鳴り、次々に写真が送られてくる。 白、赤、緑、洋風とも和風ともつかないかわいい浴衣。中には黒にピンクという驚くような色の組み合わせもある。くるくると巻いた髪は、わざと所々ほどよく解けている。 ああ、とあたしはまた溜め息をついた。 高い湿度と高い気温、アスファルトに反射する熱に、あたしは浴衣姿でだらだら汗をかいている。 目指すお店の場所をメモした紙を取り出し…あたしは携帯で見る地図が本当に苦手だ…駅の並びの商店街、古びたビルの一階にあるというそのお店を目指してまた下駄を鳴らす。 ***
多分同じ大学の人だとはいえ、知らない人に話しかけるなんて、あたしとしてはかなりの快挙だ。そのくらい、その髪飾りは素敵だった。 二人の女の子は、片方はピンク色の浴衣を着て、バラのような花で作った髪飾りを付けていた。もう一人は紫色の浴衣に合わせ、あたしには名前のわからない、小さな朝顔のようにも見える髪飾りを付けていた。 どちらも造花ではなく、生のお花だ。 右耳の上には五輪ほどまとめてたっぷりと。アップにした髪をぐるっと巻き込むように緑の蔓は左耳へと続き、左耳にはごく小さな一輪がちょうど耳の下から覗くように、左右は非対称に出来ている。 「あの!」 女の子たちは驚いたように振り向き、それでも慌てる様子もなく笑った。 「何?」 「その、あの…その、髪に飾った、お花」 「ああ。これ?」 髪飾りの花を差す指先には、綺麗なネイルが光っている。 あたしのコップにまたぽたりと雫が落ちる。 「あ、すごく素敵だなって…作ったんですか?それとも売って…?」 「こんなの作れないよ〜。お祭りの時だけ、これを売ってるお花屋さんがあるの」 「でもすごく人気があって髪飾りは予約制だから、今日はもうないんじゃないかな」 「あ…そうなんですか。予約…」 そうだ。東京ではなんでもかんでも予約がいるんだ。 そうでないとお店はいつだって満員なのだ。たくさんの人がいて、いつだって何もかもが混んでいる。 「あの、その、お店の名前、聞いてもいいですか?」 かわいい顔、綺麗なお化粧。つやつやの髪。ぴかぴかのネイル。 あたしの街、いや、頭の中でさえ嘘をついてもしょうがない。あたしの村だ。あたしの村では見たこともないような、今どきの浴衣。 でも女の子たちは親切に、あたしの取り出したメモ帳に駅の名前や地図を書いてくれた。 ***
学校からそう離れてもいないけど、この駅に降りたのは初めてだ。とはいえ、東京の駅はバカみたいにたくさんある。きっとここに十年暮らしたって、半分の駅も降りることなんてだろう。 慣れない下駄の足が痛い。 何度も行ったり来たりして、ようやくそのお店を見つけたのは、友人たちとの待ち合わせにあと三十分もないという五時半すぎだった。 「私って商才あるな。売り上げの二十パーセントは、私がもらってもいいくらいだね」 カラン、と音を立て、そう言いながら木でできた重そうな扉を押して出てきた女の子は笑っている。 雪のように白い肌をし、大きな目と長い髪をした、ものすごく綺麗な子だ。 あたしはその子と、その子の髪飾りに釘付けになる。水色の浴衣に合わせたのだろう。真っ白と水色の花の、さっきの子たちがしていた髪飾りと同じ形だが、ずっと豪華だ。 「ほんとだね。こんなに売れるとは思わなかったよ」 低い甘い声と共に、背の高い、長い髪を後ろで縛った男の人が出てきた。男の人、といってもあたしとそう歳も変わらないのだから、男の子だ。 なんて綺麗な男の子だろう。あたしは一瞬、目をそらすこともできずにまじまじと見つめてしまう。 「どうしました?」 バイトだろうか。どうやら彼はお店の人らしい。 汗びっしょりの顔も、おばあちゃんの手縫いの濃紺の浴衣も、実家に代々伝わる真っ赤な帯もなんだか恥ずかしくて、あたしは袂をぎゅっと握った。 「あ、あの、ここでお花の髪飾りを売ってるって聞いて…」 「ああ、申し訳ありません。お祭りの日だけ売ってるんですけど、ご予約制なんです」 おかげさまで随分ご好評いただいてまして、今回はお祭りの三ヶ月も前に予約でいっぱいになっちゃいまして…。 男の人の申し訳なさそうな説明に、あたしは慌てて両手を大きく振った。 「あの、いえ、すみません!そうですよね、予約がいるって聞いていたんですけど、もしあったらなーって…あはは、こんなに素敵なんだから、残らないですよね」 男の子も女の子も驚いた顔をし、あたしを見た。 そこであたしはようやく、自分の頬に流れるのが汗ではなく涙だって、気がついた。 いつの間にかコップは満杯で、あふれてこぼれてあたしの頬を流れていた。 女の子は、大学なんて行かんでいい。そう渋る家族の反対を押し切って、東京の大学に進学した。田舎で田舎で、本当に山奥で、あたしの村はほとんどの人が氷を作ることを仕事にしていた。 澄みきった美味しい氷の運ばれていく先は東京で、びっくりするような値段で売られていた。 あたしは都会に憧れて、氷を運ぶ保冷トラックと一緒に上京してきたのだ。 ようやくあの田舎から逃げられたのだと喜んでいられた時間は、ほんの一ヶ月もなかった。 東京に実家を持ち、小学生の頃からお化粧をし、ありとあらゆる「都会」を味わってきた女の子たちに、大学に入るまで日焼け止めひとつ塗ったこともなかったあたしが、いったいどうして馴染めただろう。 両親がなんとか用意してくれたのは学費だけだった。不味い水道水を飲み、必死でバイトをし、服を買い靴を買い化粧品を買い流行りの場所に出かけても、あたしはちっとも追いつけた気がしなかった。 綺麗な氷を作るには、時間も手間もかかる。 静かな山の中。鼻の先や頬が凍るんじゃないかってほど、山は寒い。一年中寒い。だからこそ美味しい氷が作れる。作業の合間に飲む熱い焙じ茶や、時折見かける狐や高い所を舞うトンビを恋しく思う日が来るなんて、考えもしなかったのに。 東京がそんなにいいのかよ。 あたしを責めるようにそう言った幼なじみの雪焼けした顔、氷を削る、逞しい腕を急に思い出す。 ずっとずっと大好きだったのに、あたしはなんでここにいるんだろう。 しゃがみこんで子供みたいにワンワン泣きたい気分だった。 あの、良かったら中でお茶でも、と男の子が声をかけてくれた瞬間、また木の扉が開き、今度はショートヘアの女の子が顔を覗かせる。 黒地に白い流水柄、赤い帯。耳には真っ赤な花の髪飾り。髪の長い女の子と同じく、小柄な子だ。 どうやら店の中からあたしの話を聞いていたらしく、まっすぐあたしを見る気の強そうな目は大きい。 なんとなく怒鳴られそうな気がして身をすくめたあたしに、女の子は短い髪をかきあげ、真っ赤な髪飾りを外し、差し出した。 「…やる」 髪の長い方の女の子が、ひえい、と呼びかけたが、髪の短い女の子は聞こえていないかのように、あたしに髪飾りを突きつけたままだ。 「その帯に合うだろ。おい、蔵馬」 男の子は、ひえいと呼ばれた女の子を笑みを浮かべて見つめると、髪飾りを受け取り、あたしを店の中へとそっと押し、木の椅子に座らせた。 お花の香りで満たされたお店の中。 髪の長い女の子が汗で乱れたあたしの髪を手早く手櫛で整え、男の人が小さなピンをいくつも使い、髪飾りを留めた。 奥にも部屋があるのか、髪の短い女の子はその部屋から木の枠のついたノートほどの大きさの鏡を抱え、あたしの前のテーブルに置いた。 かっこ悪い、と思っていたあたしの黒い髪。 名前も知らない赤い花はかすかに香って、黒い髪を不思議に輝かせていた。 「…どうだ?」 「あの、でも、これ…あなたの…」 女の子はフンと鼻を鳴らし、くれてやる、とぶっきらぼうに言った。 「俺はいつでも手に入る。持っていけ」 「……すみません…ありがとうござ…あ、お金!お金払います!いくらですか!?」 「今日はもうレジ閉めちゃったんです。気にしないで。それより、時間は大丈夫?」 男の子が自分の腕時計を差す。 そこから先はよく憶えていない。 何度も何度もお礼を言い、髪飾りが外れないよう両手で頭を押さえてまたもや走り、待ち合わせ場所についたあたしは、おばあちゃんの浴衣と赤い帯とその髪飾りがとても素敵だと、七人分の歓声を浴びた。 髪の短い、ひえいと呼ばれていた女の子。 ネイルもない彼女の白い指先は、あたしの満杯のコップから水をすくい出して、焼けたアスファルトにこぼしてくれた。 半分くらいに減った水。ゆらゆらする水面。 あたしはまだ、揺れている。 まだ、もう少し。 もう少しここで、頑張ってみよう。 残りの夏は、新しいバッグを買おうと思って貯めていたバイト代を使って、あいつに会いに汽車に乗って家へ帰ろう。 そして、またここへ、帰ってこよう。 今度は髪の短い彼女に会いに、あのお花屋さんに行ってみよう。 髪飾りを譲ってくれたお礼と、コップの水を減らしてくれたお礼と、綺麗な氷を持って、あの店を訪れよう。なんとなく、あの女の子はきっと綺麗な氷を喜んでくれる気がするから。 あたしは免許を持ってないから、氷を積んだトラックは、あいつに運転させるのだ。 きっと文句を言いながら車を運転するあいつに、この街を案内してあげる。 そして言ってやる。 ずっと好きだったんだから、四年くらい山ん中であたしが戻ってくるのを待ってろ、って。 ...End. |