いとしい赤いルノー・カングーが、年季の入った定食屋の前にとまる。三台分ほどしかない店の前のスペースに、するりと車は納まった。 降り立った少年は冷たい空気を吸い込み、気持ちよさそうにのびをする。 木々が葉を落とし、色味の失せ始めた十一月の街中。 車の中だけが、緑で溢れていた。 ***
「よー!蔵馬!」「また寄らせてもらっちゃった。車、店の前でいいかな?」 おう、と短く答え、幽助は、らっしゃい!と快活に笑った。 頭にタオルを巻き、フライパン片手に笑うその姿は、すっかり料理人の顔だ。 三時という時間はこの店では休憩時間なのだが、俺はどうせ仕込みがあるから店にいる、いつでも来ていいぞ。という幽助の言葉に甘えて、蔵馬は時々遅い昼食に訪れる。 「配達の途中か?」 「うん。もう涼しくなったから花を車に入れておいても大丈夫なんだ」 「涼しいつうかさみーんだよ!ったくよ。急に寒くなるんだからな」 「…その格好で言われてもねえ」 半袖のTシャツとジーンズという夏と変わらぬ格好の幽助に、蔵馬は苦笑する。 もっとも、調理場で火を使っているのだから、それほど寒くもないのだろう。 「何にする?」 「今日は何がいいかなー。野菜炒め定食?」 「バーカ。男ならラーメンか肉を食え!」 雪村食堂、と掲げられたこの店はもともとは定食屋なのだが、幽助が店に立つようになってから、ラーメンも加わったのだ。 ろくな修業もせずに始めたのに美味いラーメンだと、近所でも評判らしい。 「じゃあ、ラーメン」 「おう。炒飯もつけてやるぞ。餃子も食うか?」 「店に戻らなきゃだから勘弁してよ。今度夜に来た時にご馳走して」 蔵馬は苦笑すると、足下に置いていた紙袋から、赤とピンクの花だけでかわいらしくまとめられたブーケを出した。 「これ、螢子ちゃんに」 「花ァ?あいつに花なんかいいのによ」 「何言ってんの。たまには奥さんに花くらい贈りなよ」 炒飯を炒める音にまぎれて、幽助は聞こえなかったふりをする。 今どき高校を卒業してすぐに就職する者などいないご時世だが、二人とも三月に高校を卒業し、そのまま仕事に就いたのだ。 蔵馬は小さな花屋を開き、幽助は妻の両親の店で料理人として働いている。妻が大学を卒業するのを待って、そのまま跡を継ぐのだろう。 仲の良いクラスメートだった割には共通点のあまりない二人だったが、十八歳にして職に就き、結婚をしていることは同じだった。 一人息子であるにもかかわらず、婿に入ったことも同じだ。 「よっと。お待ち!」 俺も昼飯まだだったから、一緒に食うわ、と言いながら、幽助は二人分のラーメンと炒飯を運んできた。 美味しそう、いただきますと笑顔を見せ、蔵馬は箸を割る。 「しかしさ、何の修業もしてないくせに美味しいね、君のラーメン」 「天才つうのはそういうもんだ!」 あったまるなーなどと呟きながら、蔵馬はラーメンをすする。 「ラーメンの美味い季節になったよなあ」 俺、冬嫌いだから嫌になるぜ。 ぼやきながら、幽助は炒飯の皿をあっという間に空にする。 「俺は好きだよ、冬」 「ええ?そうだっけ?高校ん時は寒いの嫌いだって言ってなかったか?」 「今は好き。だって…」 古ぼけた定食屋でラーメン丼を前にして、蔵馬はとろけるような、笑みを浮かべる。 「寒いとさ、飛影がくっついて寝てくれるんだもん〜」 「……お前なあ」 変わらねえな、と呆れ顔でぼやく幽助に、蔵馬はにこにこと笑いながら続ける。 「ベッドの中でさ、俺の足の間に自分の足を入れてさ」 冷え性だから、手も足もすごーく冷たいんだよ。だから俺があたためてあげるんだ。ぎゅーって抱きしめても起きないし、気持ち良さそうに俺にくっついて寝るんだよ。 「この話、こっからエロくなんの?てかよく結婚してまで好き好き状態保てるなー」 「わかってないなあ。なんていうか…好き、じゃなくって…」 「なんだよ」 「…なんだろ。上手く言えないんだけど」 いや別に聞かなくていいぞ、と幽助はぼやく。 「側にいるだけで幸せなんだよね…。あの小さい体が俺にくっついてるんだよ?冬って最高じゃない?」 「…そのアホ面、お前目当てに花買いに来てる客に見せてやりてえな」 「螢子ちゃんとは、そういうことしないの?エロばっかり?」 幽助は、ブハッとラーメンを吹き出した。 「さっさと食って帰れーっ!」 ***
結婚を機に増築した部屋は、飛影の希望で和室だった。広いとは言えない八畳間だが、蔵馬の仕事部屋であり、飛影の勉強部屋でもあり、二人の居間でもある。 元は飛影の勉強部屋だった小さな部屋が、今では二人の寝室だ。 ノートパソコンに向かい、帳簿を付けていた蔵馬は、戸の開く音に振り返る。 「…まだ、寝ないのか…?」 不機嫌そうな、声。 短い黒髪、赤い瞳、白い手には湯たんぽを抱えている、パジャマ姿の、妻。 本当に、幽助が呆れるのも無理はないのかもしれない、と蔵馬は考える。 「…寒くて、寝れん」 出会って五年近くも経つというのに、自分の細胞の一つひとつにいたるまでが、目の前の者を愛している。 それを自分自身ではっきり分かるのだから。 「ごめん。今終わったよ」 「なら、さっさと来い」 横柄な物言いと共に差し出された冷たい手を、蔵馬は握った。 ***
結婚祝いにと雪菜のくれたダブルベッドは、小さな部屋の半分以上を使ってしまう大きさだったが、冬の間は不毛な使われ方をしている。なぜって、寒さに弱いくせに暖房も嫌う妻は、夫にしがみつくようにして眠る。シングルベッドでも余るぐらいのスペースしか、いらないのだ。 足を絡め腕を巻き付け首筋に顔を埋めて、飛影は眠っている。 小さな手は、長い髪の中で、体温を貪っていた。 ブラを外した、たよりなくやわらかな胸が、蔵馬の胸元で規則正しく上下する。 シャンプーしか使わない髪が、薄甘く香る。 「……飛影」 囁きにも、頬や唇に落とされたキスにも、目を覚ます気配はない。 あたたかな腕の中で、深く心地よく、飛影は眠っていた。 好き。 愛してる。 君が大切だ。 たくさんたくさん告げた言葉は、今ももちろん変わらずに蔵馬の中にある。 けれど、結婚して、もう一つ加わった言葉が、ある。 昼間、幽助に上手く伝えられなかった言葉を今、蔵馬ははっきりと思う。 ……いとしい。 いとしい。 腕の中の命が、途方もなく、いとしい。 強気で生意気で意地っ張り。 あたためてあげたい守ってあげたいずっとずっと側にいたい。 本当に本当に大切で、いとしい。 「飛影…」 溢れそうな思いを込めて、蔵馬は名を呼ぶ。 小さな胸を手で包み、同じ眠りに落ちようと、目を閉じる。 細く開けたカーテンから覗く冷たく白い冬の月が、そのあたたかさを羨むように、二人を見つめていた。 ...End |