一緒に

「出世払いってのはね、出世しそうな人だけが使っていい言葉よ」
「おっ、さすがは螢子。そこに気付いたか」

ご飯食べたきゃ、営業時間中に来なさいよ。こんな中途半端な時間に。
眉間に皺を寄せて言い放ち、それでいてもうフライパンを手にしている幼なじみに、幽助は笑った。

玉ねぎと肉が香ばしく炒められ、手際よくかけられたタレが絡み、食欲をそそる匂いが二人の他には誰もいない店の中に立ち込める。

「で?落第せずにやってけそうなの?」
「落第秒読みだっつの。そもそも高校なんか入ったこと自体が間違いなんだよなー」
「高校を落第だの留年だの、聞いたことないわよ。学校はタダじゃないんだからね。温子さんが働いたお金、無駄にするんじゃないわよ」

フライパンの中身を皿にあけ、タッパーからひとすくいしたポテトサラダと、昼の営業の残りらしい千切りキャベツが添えられる。
あたためられた味噌汁と山盛りのご飯を前に、幽助はぱんと手を合わせて箸を取る。

「うめー。でもよ、学校でさ、勉強教えてくれそーなやつがいてさ」
「アンタに?仏のような人ね」
「仏って感じでもねーけど。気が合うタイプでもねえし、でも」

自分で話し出しておいて、でも、の後が幽助は続かない。

「でも、何よ?」
「仏じゃねえし、気が合うってタイプでもねえけど、ダチになれそうな感じ」

漬物の小鉢の蓋を取ったところだった螢子は、その言葉に目を丸くする。
物心がつく前から知っているこの幼なじみには、友人というものがいたためしがないのだ。

素行のあまりよろしくない、いわゆるヤンキーなのだが、ヤンキーにありがちな群れるということが全くない。いつだって単独行動の一匹狼で、それは螢子にとって心配ごとのひとつだった。

「…どんな人?」
「なんか、すっげー綺麗なやつ」
「え?女の子なの!?」
「ちげーよ」

綺麗なやつという言葉に、指先でつまんだ自家製のカブのぬか漬けを落としかけた螢子だったが、無事に口に入れ、幽助の皿にも数枚取り分ける。

「綺麗な顔してて、頭がいい」
「頭がいいって…」

ぬか漬けを熱い番茶で流し込み、螢子は言葉を濁す。
幽助の入った高校は、あの辺りでは一番偏差値が低く、入学試験の答案に名前さえ間違わずに書ければ受かると揶揄されるような高校だ。
とはいえ、勉強の出来不出来で、誰かを何かを見下すような言葉を口にする女ではない。

「そいつ、ほんとに頭いいんだぜ?」

続きを促すように、よく漬かったカブをぱりっと噛み、螢子は頷く。
午後三時半の定食屋は、どこか繭にくるまれているかようで、外の喧騒が遠い。

古ぼけたヤカンで、二杯目の番茶のための湯がしゅんしゅんと沸くころ、螢子は感心したような呆れたようなため息をひとつつく。

「そんな人、いるんだ」

すぐ近くの名門女子校に通う彼女の側にいたいと、登下校だけでも一緒にできればと、志望校を自分の偏差値に全く見合わない学校にしてしまうとは。
きっと親だって思うところはあっただろう。その人の両親の気持ちを思うと、螢子としてはちょっと複雑だ。

「恋愛って、永遠とは限らなくない?その…別れちゃったりしたらさ」

十五年以上もそばにいる幼なじみ対する想いは棚に上げ、螢子は呟く。
あっという間に一膳目が空になり、突き出された茶碗におかわりの米を盛りながら。

「オレもそう思う。バッカじゃねーの、別れたらどうすんだよって」
「そしたら?」
「笑ってた」

入学早々、女生徒たちを騒がせた、ひどく整った顔で。あの笑顔の意味が、今となっては幽助にもわかる。
何がどうわかるのかと問われれば答えられないが、今はわかるのだ。

「彼女さん、美人なの?」
「…うーん、まあ、ある意味では」
「ある意味ってなによ」
「おめーみたいな、わかりやすくカワイイ顔ってのじゃねーんだけど…」

お世辞を言わないこの男は、目の前の幼なじみがほんのり赤くなったことにも気づいていない。

「白くて、なんか雪っぽくて」

白くてなんか雪っぽくて、目がでっかくて、艶々の黒い短い髪してて。
そんですっげーちっちゃくてさ。小学生かよ、っていう。
でも顔もちっせーから、スタイルとしてはそんな悪くもねーっていうか。

「小学生みたいな小ささなんだけど、それでいてなんか色っぽいのな。黒いワンピースみたいな制服が似合ってた」
「…人の彼女をエロい目で見て、色っぽいとか言うんじゃないわよ」
「見てねーよ。初めて会った時によ」

それは数日前のことで、その人生変えちゃった彼女ってやつ、見せろよ、としつこくしつこく言い続け、ようやく会えたのだ。

鋭いともいえる眼差しに、挨拶よりも先に、手がのびた。
短い黒髪をくしゃっと乱し、考えるよりも先にこぼれた言葉は。

「一緒にいたのか、よかった。って」
「…は?」

急須に勢いよくお湯を注いでいた手を止め、螢子は再び眉間に皺を寄せる。

「なにそれ?」
「蔵馬と一緒にいたのか、よかった、って思ったからそう言った」
「一緒って…そのお友達の蔵馬さんの彼女に、その日初めて会ったんでしょ?」
「ああ」

全部の皿を綺麗に空けた幽助が、ごっそさん、とまた手を合わせる。
静かな店の中に、番茶が香ばしく香っている。

恋人の友人とはいえ、初対面でいきなり髪を撫で、「一緒にいたのか、よかった」などと言い出した男に、怒ったとしても無理はない。
けれど、大きな瞳の持ち主は怒ることもなく、不思議そうな顔で小さく頷き、友人は何かを認めるかのように苦笑していた。

「…アンタって、ほんと、わけわかんない」
「だよな。自分でもよくわからなかったんだけど」

あいつらが一緒にいて、よかったと思う。
一緒にあるべきものが、正しく一緒にあるのを確認できて、ほっとしたって言うか。

「ただそんだけの話」
「…変なの」
「変だよなあ」
「変だよ。…でも、よかったね」
「ん?」
「…幽助がそう思ったなら、きっとそれでよかったんだよ」

やわらかな湯気を立てる、古ぼけた湯のみが、二人の手の中であたたかい。
二杯目の番茶をゆっくりと飲み干すと、どちらからともなく、唇が重なった。