スウィートホーム

開け放した窓からの風はゆるくあたたかい。
紅茶の入ったマグカップを持ったまま、飛影は春の匂いに目を閉じた。
***
春休み。

普段のそれは慌ただしく短いものと決まっているが、今年は違う。
高校を卒業し、大学に入るまでのこの春休みは、一ヶ月以上ある。

たっぷりの牛乳で淹れたミルクティは、ぼんやりしているとすぐに膜がはってしまう。
舌先で器用に膜をよけ、ぬるくなった紅茶を一口飲む。

庭では洗濯物が気持ち良さそうにはためき、雪菜がきまぐれに蒔いた種が芽吹いたのか、種類もよく分からない小さな花が愛らしく揺れている。

「つまらんな…」

小さな、呟き。
呟いた本人にさえ、聞こえないような。

長い春休みをまるごと、飛影は持て余していた。
***
「車?免許?」
「そう。合宿で三週間で取れるんだ」

春から大学生になる“妻”だったが、かたや“夫”は自営業者となる。車の免許は必須だ。
いろいろと忙しく開店準備をしていたのだが、高校を卒業すると同時に、クラスメートである幽助と一緒に車の免許を取りに行こうと思ってる、と蔵馬は言った。

「仕事をするにはどうしたっているしね」
「そうか」
「三週間も俺と会えないなんて、さみしい?」
「別に」
「えー。俺はさみしいんですけど」
「さみしいもなにも…」

この先、ずっと一緒にいるんだろうが、という言葉を、飛影は飲み込んだ。
二人の左手、薬指に光るのは何の石もない、お揃いのシンプルな金のリング。

「ま、この先ずーーっと一緒ですもんね?」

にこっと笑って、蔵馬は言った。

心を見透かされたようで面白くない。
三週間でも三ヶ月でも行ってこいと、飛影は毒づいた。
***
まるごと持て余している、というのは大げさな話で、暇だというわけではない。飛影には飛影なりに予定もある。
蔵馬が婿になることになったおかげで、家の中は増築や片付けでバタバタしていたし、忙しすぎる母にかわっての日常の家事もある。
友人の凍矢と卒業旅行にも行った。

妹の雪菜とはもちろん、買物だ旅行だ映画だと、いつものように一緒に過ごしているのだし。

なぜ、持て余している、などと考えてしまうのだろう。
飛影はぼんやりしたまま、カップをくるりと回し、壁にかけられたカレンダーを眺める。

一軒家のこの家に一人きりでいると、なぜか広く感じる。
静かな家の中に時折聞こえる通りの物音や人の声が、奇妙に遠い。

窓辺に置いた携帯が、ピルッと小さく鳴った。
朝、昼、寝る前、プラス、何か面白いものを見つけた時と、蔵馬は一日に何度も律義にメールを送ってよこす。

今日のお昼だよ〜、というメッセージとともに、ふざけてバカ面をした幽助と、いつも通りの笑顔の蔵馬が写っている。二人の前には、いやに具の大きなカレーライス。

最後にはいつも通り、会いたいよ、の一文。

飛影をよく知らない者の目には、携帯を見つめるその視線は無表情に見えただろう。
けれど、目元はやわらかくほどけている。

飛影の電話嫌いをよくわかっている蔵馬は、他愛ないこともいちいちメールで送ってよこす。
一日に一回の割合で、ひどく素っ気ない返事を飛影は返す。

蔵馬が帰ってくるのは、八日後だ。
***
「おはよー」

休みなのだからと、雪菜の起床時間はめちゃくちゃだ。
今日はましな方で、時計は十時半を指している。

「さっさと食え。片付かないだろう」

苛立った飛影の声に、雪菜はあれえ、と寝ぼけた声を出す。

「ご機嫌ななめだねー、飛影」
「お前がこんな時間まで寝てるからだろ」
「そーかなー?」

いたずらっぽく雪菜は笑うと、冷めかけたハムエッグにフォークを入れる。
冷やしておいたサラダを冷蔵庫から取り出した飛影は、雪菜のためにトーストしてやろうと、長いままのバゲットを手に取る。

「ひーえーい」
「なんだ」
「さみしいんだ?」
「さみしい?何がだ?」
「蔵馬さんに会いたいくせにー」
「そんなわけあるか」
「だってさ、こんなに長く会わないでいるの、初めてでしょ」

飛影は目をぱちくりさせる。
言われてみれば、そうだ。

中学二年の秋。
出会い、告白され、付き合い始めた。
それ以来、ほぼ毎日のように会う生活だったのだ。

それは蔵馬が飛影に会いに来る、というのが大半だったとはいえ、一緒にいたことに変わりはない。
どおりで、なんだか時間を持て余すような気分になっていたわけだ。

「会いたいでしょ?」
「……別に!」

慌てた姉が注いだ牛乳が、テーブルに少しこぼれた。
妹が、弾けるように笑う。

「何がおかしい!?」
「もー。素直じゃないなあ。蔵馬さんいつ帰ってくるの?」
「…明後日」
「ふーん。もうすぐじゃん」

ペン立てから赤いマジックを取ると、キッチンの白いカレンダー、明後日の日付を雪菜はキュッとハートで囲む。

「何してるんだ!」
「いいじゃん。明後日ママ出張だし。私も出かけててあげるから」
「はあ?なんでだ?」
「だって、エッチしたいでしょ?」
「は!?」
「家でしないの?ラブホ行くの?」
「…お前は!! バ…バカことばっかり言うな!」

スライスしようと持っていたバゲットで、飛影は雪菜の頭を叩いた。
***
外はしとしと雨降りで、キッチンの窓ガラスは、ことこと煮えるいくつもの鍋の蒸気に曇っていた。
エプロンをつける習慣のない飛影は、いつも通りの黒いシャツとジーンズという姿で、料理をしている。

菜箸を片手に、赤い瞳がチラリと時計を見上げる。
海外出張の際に氷菜が気に入って買ってきた掛け時計は大ぶりで、コッチコッチと音を立てて秒針が動く。

五時を過ぎたところだ。
昼に届いた蔵馬からのメールには、六時頃に駅に着くとあった。

あんかけにしようと煮ていたかぶはやわらかく湯気を立て、山菜の炒め物も、春菊と人参の白和えもでき上がっている。
とろとろの角煮は鍋で揺れ、炊飯器からはグリンピースご飯の炊ける甘い匂い。ボウルの中には砂抜きを終えたアサリが並んでいる。

いつも白い頬は、コンロの熱にほんのり赤い。
薄い唇から、むすっと、不機嫌そうな言葉がこぼれる。

「…作りすぎた」

なんだかこれじゃあ、帰りを待ちわびていたみたいじゃないか。

ー待ってるんだろう?
待ってない。

ー帰ってきて欲しくないのか?
別に帰ってきて欲しくないわけじゃないが。

ーでもなんだか蔵馬の好きな料理ばっかりになったみたいだぞ?
違う。自分が食べたいから作っただけだ。
合宿所とやらの飯はカレーやシチューばっかりでしかも不味そうだったし。

ーじゃあやっぱり蔵馬のため…

ぶるっと頭を振って、飛影は自問自答を断ち切る。
いつの間にやら時刻は五時半で、雨は変わらず降り続く。

「……傘」

蔵馬は傘を持っていない。
傘など駅でもコンビニでも買えるのだし、そもそも傘を持って迎えに来いなどと言う男ではない。

つまり、迎えに行く理由はない。

キッチンを、食卓を、赤い瞳はサッと眺める。
迎えに行く理由を探していることを、本人は気付いていない。

「…柚子」

かぶのあんかけには、柚子を散らした方が美味くなる。
いいことを思いついたとでもいうように小さく頷くと、コンロの火を消し、飛影は家の鍵を手にした。
***
「俺らって天才だな」

二人はつり革に片手をかけ、窓の外の雨模様の街を眺める。
六時近い電車は帰宅ラッシュが始まりかけており、なかなかに混んでいた。

「場内も路上も一発。さすがだな」
「延長なんて冗談じゃないよ。飛影に会いたくて死にそうだった」
「へーへー。言ってろよ。まあこれで免許は取れたしな」
「まだ学科があるよ。君の場合、学科の方が問題だと思うけどなあ」

学科試験は来週二人で受けに行くことにしている。
合宿では学科の講習もきちんとあったし、空き時間にはみっちり教えてやったとはいえ、幽助の学科試験は蔵馬には明るいものにはどうも思えない。

「ま、なんとかなるだろ」

幽助がそう言うと、なんとかなるような気がするから不思議だ。
電車の独特のアナウンスが、次の駅を告げる。

「じゃあ、またね幽助」
「おう。来週な」
「ちゃんと家でも勉強するんだよ」
「わーったよ。するする。ところでさ」

ボストンバッグを降ろした蔵馬に、幽助は声をひそめて、顔を寄せた。

「今日はさ、やっぱりヤんの?」
「そういったご質問にはお答えできません」

わざと幽助にぶつけながらバッグを肩にかけ、蔵馬はドアの前に立つ。

「飛影、迎えに来てるんじゃね?雨だし」
「まさか。そういうタイプじゃないよ。君こそ螢子ちゃんが来てるんじゃない?」
「あいつこそそーゆータイプじゃないっつの」

ドアが開き、湿ったホームに蔵馬は降り立った。
***
雨のにおい。
夕方のにおい。
人のにおいだの立ち食いそばだのドーナツだののにおいがごちゃまぜになった、駅のにおい。

辺りを埋め尽くすにおいが、自分の服にもたっぷり染み込んでいることに気付き、蔵馬は肩をすくめ、足早に階段を下りる。
今はただ一刻も早く、飛影のもとへ帰りたかった。

帰宅途中のサラリーマンやOL、制服の学生たちの織りなす紺色と灰色の海の先に、黄色く丸いものが、ぽーん、と宙に上がり、すとんと落ちるのが見えた。

ぽーん、すとん。
ぽーん、すとん。

白い手が、黄色く丸いものを器用に受け止めて、包み込んだ。

「…飛影?」

柚子を包んだ白い手。
ビニール傘をかたわらに、黒いジーンズに黒いパーカー、くしゃくしゃの黒髪は雨の日は一層艶やかだ。

自分を呼ぶ声に、飛影は振り向き、そして

…ふわりと、笑った。

ぽかんと口を開け、ほっとしたようなその笑み。
無意識に浮かべたのであろう、その少し間の抜けた笑みに、蔵馬の胸はあたたかいもので満たされる。

会いたかったのは自分だけじゃない。
飛影も、自分と同じくらいそう思ってくれていたのだ、と。

「ただいま」
「ああ」
「迎えに来てくれたの?」
「…たまたま柚子を買いに来ただけだ」

いつも通りの小生意気な表情に戻ったその顔を、蔵馬はしみじみ見つめる。

「何をじろじろ見ている」

一本だけ持っていた傘を当然のように蔵馬に押し付け、二人で一本の傘に入る。

「そりゃ、見ますよ」

会いたくて、死にそうだったから。

臆面もなく言い放つ蔵馬に、飛影はしかめっ面を返す。
コンロの熱もないのに、頬を染めて。

「俺は三ヶ月でも良かったぞ」
「だめです。そんなの俺が耐えられない」
「バカか」
「なんとでも」

パーカーのポケットに柚子をねじ込み、飛影は舌打ちをする。

「今日は氷菜も雪菜もいないぞ」
「え!? じゃあエッ」

どすっと入った肘鉄に、蔵馬は苦笑する。

「車買ったら、一番に乗ってね」
「俺はまだ死にたくない」
「安全運転に決まってるでしょ。君を隣に乗せるんだから」

強くなってきた雨足に、二人の靴やジーンズは色を変えていく。
けれどその足取りは、軽やかだ。

家に帰った蔵馬は、きっと飛影の手料理に歓声を上げるだろう。
家に帰った飛影は、きっといつもよりちょっとだけ素直に、久しぶりのキスを受け止めるだろう。

たっぷりとした美味しい料理の待つあたたかな家に、二人は帰っていった。


...End