虫除け

「ええ?売り切れちゃったんですかぁ?」

キャリアウーマンらしいシュッとした女性客が、見た目に似合わぬ世にも情けない声で言う。

「ついさっき、残ってた四つを全部お買い上げくださったお客様が

商売用の笑みを浮かべ、蔵馬は軽く頭を下げる。

この客は、何度か来たことのある客だった。
客によって多少対応は変えるが、少なくともこの客は隠している在庫はないのかだとか、どうして四つも同じ客に売ってしまうのかなどと、面倒なクレームをつけるような客ではないことはわかっている。

「残念」

本当に、残念そうだ。
しょんぼりと、肩が落ちている。

「もう九月も終わるんで、需要も減ってくるかななんて思ってたんですけど」

にこやかに話しながらも、蔵馬の手は休まない。小ぶりだが濃く強い色味でまとめた花束は得意客のオーダーで、十五分後に取りに来ることになっていた。

「需要、あります!いります!」
「みたいですね。あの虫ですか?」

この街ではありふれ過ぎた、生活密着型害虫とでも呼ぶべき虫の名は、口にしない。
口に出すのも聞くのも嫌だという客が存外多いからだ。

あの虫、という言葉に、客はうう、と身震いし目を閉じる。

「作りますよ、また」

仕上げのリボンを結びながら事もなげに言った蔵馬に、客がパッと顔を上げる。

「え!あの」
「できるのは十日後くらいですけど。取り置きますよ。いくついります?」

嬉しい、ありがとうございますと満面の笑みを浮かべる客に、連絡先を記入するための用紙を手渡し、ペンを差し出す。

「あー、ほんとに嬉しい、ほんとに助かる。春先にあのオイルを使ってからね、ずっと見たことなかったんですよ。なのにもう秋だからいいかななんて油断して、切らしちゃって」

伝票に書かれた名前や電話番号を確認し、女性客を虜にしている笑みで蔵馬は頷く。

「こんなに売れるとは、思ってなかったんですけどね」

花束もアレンジメントも好調な売れ行きだったが、生花で作った髪飾りと、あらゆる害虫が家からいなくなる不思議なハーブオイルは、この店の隠れたヒット商品だ。

「欲しがるやつが、いるんじゃないか?」

そう言ったのは飛影だ。

元々は家で使うために配合したハーブオイルだった。
玄関や窓辺、台所や寝室と、気になる場所にアロマストーンを置き、数滴垂らすだけでいい。香りのあるうちは、あらゆる害虫を見かけなくなる優れものだ。
何より、天然のハーブを使い、虫除けにありがちな刺激臭はなく、草原のような軽やかな香りは雪菜にも氷菜にも好評だ。

「店で虫除けハーブオイルも売るってこと?」
「ああ。客は女が多いだろう?女は虫が苦手だ」

その「女」の中に自分は含まないような飛影の口ぶりに蔵馬は笑い、次の休みに二人で可愛い瓶を探しに出かけた。

「お待たせするお詫びに」

たった今作った花束のあまりの花で作った、ごく小さなブーケ。
客の感嘆の声とドアベルの音が聞こえなくなったのを確認して、店の奥の小部屋の扉が開く。

黒いニットに黒のジーンズ、小さな手に持て余すような大きなマグカップ。

「帰ったか」
「帰ったか、って。お客さんにその言い方」

夫の言葉を無視し、妻は丸い木の椅子に腰掛け、ミルクティーを飲む。

「ハーブオイル、まだ売れるみたいだ。瓶を仕入れに行かなきゃだね」
「売れるって言っただろう?」

どこか得意げに飛影は言い、飲みかけのマグカップをいつものように蔵馬に渡す。
まだ熱いミルクティーをひとくち飲み、蔵馬は短い黒髪に触れる。

「髪飾りは雪菜ちゃんのアイディアだし、ハーブオイルは飛影のアイディアだし。この店は安泰だね」

およそ仕事、つまり金稼ぎというものに対して、自分を無能だと思っている飛影は褒め言葉に頬を薄く染め、プイとそっぽを向く。

「…せっせと稼ぐんだな」

照れ隠しにフンと笑った妻は、取り返したマグカップの縁をちらりと舐めた。