ハルザレ

椅子の高さは70cm程。
乗っかって目一杯手を伸ばしても、電球まではまだ30cm近くもあった。

「も〜。やっぱダメだ。設計ミスだよ」

ブツブツと文句を言い、雪菜は椅子から降りる。

「どうした?」
「あ、飛影。玄関の電球が切れたの。でも届かないや。しょうがない、ママが帰ってきたら替えてもらおっと」

この家に越してから三年ほど。電球が切れたのは初めてだ。

「雪菜、ちょっと持ってろ」

飛影は新しい電球を雪菜に持たせると、椅子に乗った。

「危ないって」
「大丈夫だ」

小柄だがしなやかな体がふわっとジャンプし、器用に切れた電球を外す。
妹の手から新しい電球を取り、古い方を手渡す。
再び、軽やかなジャンプを一回、二回、三回。電球はきちんとはまり、夕方六時の玄関は、たちまちあたたかい灯に照らされる。

「よし」
「ありがと、飛影。今度脚立を買ってこよう」
「この家建てる時に、氷菜ももうちょっと考えれば良かったのにな」
「ママもさ、私たちがこんなにチビのままだとは思わなかったんだろうね」
「……だな」

飛影も思わず、溜め息をつく。
双子はどちらも背が低く、150cmにも満たない。正確に言えば、二人揃って144センチというなかなかの小柄っぷりだ。

私の娘だもの、そのうち大きくなるわよ、と双子が子供の頃は笑っていた氷菜だったが、さすがに娘たちが高校生になった今、それは見込み薄だと悟ってはいるらしい。

リン、と鈴のような着信音を奏でる電話に、雪菜が走って行く。

「あ、ママ。うん。もう帰る?そうだなー」

ほうれん草のキッシュとね、ビーンズサラダとね、ケーキ?いるよもちろん。イチゴのがいいな。あとはね…。
デパ地下にいるらしい氷菜に、雪菜はあれこれ夕飯を“発注”している。

金曜日の夜。
明日明後日と休みなこともあって楽しそうな妹の声を聞きながら、椅子に乗ったままの飛影は電球に手の平を透かすように、両手を高く上げる。

「……もっと背が高かったらな」

小さく、呟いて。
***
「パパって背が低かったのかな?」

風呂上がり、バスタオル一枚で脱衣所の体重計に乗り、口を尖らせ、妹は言った。

「なんだ急に…?」

のぼせて火照った頬をした姉は、髪を拭きながら振り向く。

「だって、ママは背、低くないじゃない」
「そうだな」

双子の母の氷菜は、どちらかといえば背が高い方だ。

「でしょ?だったら遺伝的にパパに似たとしか思えないじゃん」

姉は、さあな、と肩をすくめる。
もっとも、二人揃って小柄だからこそ、高校生になった今でもこうして一緒に風呂に入ったりしているわけだが。

「背、高くなりたいなあ。今から牛乳大量に飲んでもダメかな?」
「ダメだろ。子供の頃さんざん飲んだじゃないか」

むー、と妹はふくれる。
そして何を思いついたのか、ニヤッと笑う。

「…蔵馬さんて、身長何センチ?」
「は?」
「170センチはあるよね?」

急に話の矛先が変わり、ドライヤーを手に取った所だった姉は面食らう。

「さあ…170センチはあると思うが…?」
「ふーん。飛影がこんなにちっちゃくて、キスしたり、エッチしたり、大変じゃないんだー?」
「なっ…!お前…っ!! バカ!」
「いたいいたいいたい!髪引っ張らないでよもう!」
「お前が悪いー!!」

双子のバスタイムは、相変わらず賑やかだ。
***
「今日はどこへ行くんだ?」
「クラスの女の子たちと買い物行くの」
「氷菜が帰るまでに帰ってこいよ」
「はーい」

土曜日の朝。
外は気持ちよく晴れている。

白いシャツにいかにも春らしいピンク色のふわりとしたスカートを合わせた雪菜は、驚くほど踵の高いミュールを棚から下ろす。
玄関に造り付けられた大きなげた箱には、百足以上の靴が並べられている。九割方は氷菜と雪菜の靴だ。背の高さを考慮して、上の方の段には氷菜の靴が、下の方の段には双子の靴が並べられている。

「お前、そんな靴ばっかり履いてると、いつかすっ転んで怪我するぞ」
「しないしない。こーゆーのって慣れの問題なの。全然平気だよ」

スカートに合わせて選んだ薄ピンク色のミュールは、リボンを象った、とてもかわいらしいものだ。
もともと濃く長い睫毛をマスカラでくっきりと強調し、グロスだけをたっぷりのせた唇はつややかで、薄化粧の制服姿とはまた違う雪菜は、姉の目から見ても綺麗だった。

「飛影はデートでしょ?」
「…蔵馬と出かけるだけだ」
「はいはい。お出かけね」

確かに雪菜の言う通り、慣れの問題なのだろう。
その証拠に、ヒールの高さは10センチ以上もあるというのに、雪菜はまるで裸足のよう軽やかに、外へと踏み出した。

「おい、雪菜!携帯!」
「あ、忘れた。ありがと」

家の前。平らな道路に立った二人には、今は10センチの身長差ができている。
携帯を受け取った雪菜から、なんだか見下ろされているようで、飛影は面白くない。

「じゃ、行ってくるね!蔵馬さんによろしくー」

急にスラリとしたように見える妹の後ろ姿を見送って、飛影は玄関ドアを閉めた。
***
マスカラだけでも四種類も使う妹と違い、姉の身支度は五分もかからない。
顔を洗い、歯を磨き、服を着替える。それだけだ。

いつも通り黒いシャツに黒いジーンズを穿き、靴を履こうとした飛影の目に、開けっ放しのげた箱が飛び込んできた。

「まったく…」

扉を閉めようとのばされた手が、ふと、止まる。

色とりどり、形もさまざまな雪菜の靴。学校用の靴を除けば、どれも10センチ以上のヒールがあることだけは共通している。スニーカーでさえ、ヒールスニーカーだ。
飛影の視線が、色とりどりの靴と、玄関に出した自分の黒のコンバースとの間をいったりきたりする。いかにも春めいた、素晴らしくいい天気の今日、黒い靴はひどく重たく野暮ったく見えた。

「……」

誰も見ていないのに、おずおずと雪菜の靴をいくつか出し、並べてみる。
妹の雪菜と、靴のサイズはもちろん一緒だ。22.5センチという、子供のように小さな靴。

ミュールやつま先の尖ったサンダルは論外だ。
手に取ったのは、白にオレンジの靴ひも、つま先からすでに4センチの厚みがあり、そのまま10センチほどの高さの踵にカーブを描いているという、ヒールスニーカーだ。

一瞬躊躇った後、飛影は足を突っ込んだ。
***
5センチ身長が違えば、世界は違って見えるとはよく言ったものだ。

待ち合わせの駅まで向かう道すがら、飛影はしみじみと考える。
10センチ足したところで154センチなのだから長身というわけではもちろんない。それでも、なんとまあ変わることだろう。

いつも見上げていた何もかもが、今はほんの少し視線を上げるだけで、しっくりと視界に納まる。背伸びも、首を真上に向ける必要もない、新しい世界。
雪菜がヒールの高い靴しか履かないのが、ようやく飛影にも理解できた。

けれど。
やっぱり、なんだか、こわい。
正直言えば、相当こわい。

踵がむりやり押し上げられて、常につんのめって歩いているような、危なっかしい感覚。
ヒールスニーカーは一応スニーカーだというのにつま先が細めで、すでに足先はじんじん痛む。

駅が見えてきた頃には飛影はもう後悔し始めていた。足に合わない靴というのは、拷問でしかないものだ。
引き返して、靴を履き替えてこようか…。駅の近くの靴屋で適当に見繕おうか…。そう考えながらも、すでに駅に着いてしまった。

駅の入口の階段で、もう一度躊躇う。
履き替えた方が、いい。でも…

蔵馬に、ちょっと見せたい、なんて。
この靴を履いて、隣に並んでみたい、なんて。

「…アホか」

自分に毒づく。
それでも、待ち合わせ場所に向かうべく、階段の入口に足を下ろした途端、後ろから来た誰かが、ドン、と肩にぶつかった。

「あ、すんません!」
「あ…」

サラリーマンらしきスーツの男は余程急いでいるのか、ぶつかった相手を振り向いて見ることもせず、階段を三段飛ばしに下りていった。
まあしょうがない、入口付近にぼんやりと立っている方が…

「わっ…」

飛影の運動神経はいい方だ。
けれど、こんな花魁道中まがいの靴を履いて、しかも階段で、人にぶつかられるというこの状況。

ぐらっと傾いた体を支えようとした瞬間、足首があらぬ方向に捩れ、鋭い痛みが走る。

「っあ」

気付いた時にはもう遅かった。
あっという間に階段を転げ落ち、最初の踊り場に叩き付けられた。

「…っつ〜」

あちこち擦りむいたが、頭を打たなかったのは幸いだ。
けれど、通り掛かりの人間たちが、何事かと足を止め、何人かは親切にも…飛影的にはおせっかいにも…大丈夫かと口々に声をかけ、中には救急車などと言う声も聞こえ、飛影はギョッとした。

「だ、大丈夫だ!」

この状況が、死ぬほど恥ずかしい。
脱げた靴は転がっているし、ひっくり返った自分を心配そうに見下ろす、周りの人間たち。
人情途絶えたと言われて久しいこの時代、ありがたいこと…ではない!恥ずかしい!

「本当に大丈夫ですか…?今、駅員さん…」
「大丈夫だ!なんでもない!!」

必死で立ち上ろうとしたが、右足首に鋭い痛みが走る。立ち上って、階段を上るのはとても無理だ。
蔵馬、あいつどこに…?近くにいるはず…。

すうっ、と、飛影は大きく息を吸い込む。

「蔵馬ーーーーっ!!!!」

数秒おいて、階段を駆け上がってくる、足音。
黒髪をひるがえし、踊り場に立った少年に、周りの者は場所を空けた。

「飛影!?」
「……蔵馬」

もともと好き好んで厄介事に関わりたい者などいない。
知り合いが来たのならこれ幸いと、気をつけてね、お大事に、などと言葉を残し、みな足早に立ち去った。
***
「骨は大丈夫」

レントゲン写真を、長い指が弾く。

「捻挫だな。でも靭帯も傷付いてるみたいから二週間は固定してろよ。二三日ははつかまる場所がない所では、歩くのも禁止な」

腫れと痛みが引いても走るとかそういうバカなことは当分よせよ?家に帰ったらできるだけ安静にしてろ。横になって、固定した足を高くしておけよ。その方が治りも早いからな。風呂で温まるのも今はやめておけ。シャワーだけにしろ。
腫れた足首に乗せていた氷のうを下ろし湿布を貼り、テーピングで固定しながら、ヨウコは言う。

「良かったあ。骨折してなくて」

ホッとしたように蔵馬は言う。
飛影はむすっと横を向き、どちらの言葉にも返事をしない。

「大丈夫?痛い?」
「……」

土曜日の午後では、大抵の病院は休みだ。
こんな時ばかり弟ぶって、蔵馬がヨウコを呼び出して診させたのだ。

「湿布と痛み止め出すから持って行け。おい、顔や腕も洗って薬塗ってやろうか?」
「結構です。後は俺がしますから。どうもありがとう、兄さん」
「歩けないだろ?送ってやるぞ」
「結構です。もうタクシー呼びましたから」

蔵馬は天使のようににっこり笑い、兄を制する。

「かわいくないなー、お前は。時間外診療頼んでおいて」
「感謝してますよ。なので送ってもらうなんてこれ以上の迷惑はとてもとても」

診察台に腰掛けた飛影の足下に、蔵馬は跪く。

「飛影、つかまって」
「……」

どうせ、ここまでだっておぶってもらって来たのだ。
今さら駄々をこねてもしょうがないと悟ったのか、飛影は蔵馬の首に手を回し、大人しくおぶわれた。

「じゃあ、兄さん、ありがとう」
「貸し一、だからな」

ヨウコはニヤッと笑うと、ひらりと手を振った。
***
タクシーが止まったのは蔵馬のマンションの前だ。
足以外にもどこか痛めたのではないかと蔵馬が心配になるほど、飛影は無言で、大人しくおぶわれたままでいる。

「大丈夫?」

エレベーターの中で、蔵馬は心配そうに聞くが、飛影は蔵馬の背に顔を埋めたまま、返事もしない。
取り合えず飛影をベッドに座らせ、玄関を閉めに行った蔵馬は、先ほど自分で放り出した、自分と飛影の靴を並べる。

「あれ?」

駅の階段ではそれどころではなく、慌てて拾ってカバンに突っ込んだ飛影の靴だったが、見慣れない靴だった。
飛影は大抵、黒い靴しか履かないのに、これは白で、しかも靴ひもはオレンジ色だ。いやに踵が高く、先が細く、普段の飛影の履く靴ではない。男の蔵馬としては理解しがたい、骨折をしなかったのが幸いだと思えるようなヒールの高さだ。

「…雪菜ちゃんのかな?」

けれど、双子が服や靴を共有しない…というか趣味が合わない…ことを知っている蔵馬は、ヒールスニーカーを見下ろし、首を傾げる。
水を入れた洗面器とタオル、救急箱を抱えて蔵馬が寝室に戻ると、飛影は座らせられたままのベッドで、俯いてしょんぼりしている。その姿は、いつにも増して小さく見えた。

「飛影、大丈夫だよ。足はちゃんと良くなるし」

手や顔のすり傷を濡れタオルで綺麗に洗う。

「あとは、たいしたことないから。洗って傷薬…」
「…俺、バカみたいだな」

ポツリと落とされた言葉に、蔵馬は驚く。

「え?転ぶなんて誰でもあるでしょ?」
「……」
「まあ、しばらく剣道はできないけど」
「……」
「元気出してよ。あ、俺が下にいたら受け止めてあげたのになぁ」

明るく茶化して蔵馬は言ったのに、飛影の眉間にはしわが寄る。

「…怒ってるの?」
「……お前、身長何センチだ?」

急に変わった話に蔵馬は目を瞬かせる。

「え?えーと…確か前の身体測定では174センチだったと思うけど」

ぴったり30センチ。30センチもの差だ。
ますます不機嫌そうにする飛影の頬に、蔵馬は傷薬を塗ったガーゼをとめた。

「あの、さ」
「…なんだ」
「今日、どうして雪菜ちゃんの靴、履いてきたの?」

一気に赤く染まった白い肌に、蔵馬はようやく今日の事の顛末を理解した。

女の子は小さい方がかわいいに決まってるよ、とか、他の男はどうだか知らないけど俺って小柄な子が好みだからさ、とか、そんな月並みな言葉なら、山ほどあるのだけど。
しばらく無言のままで、あちこちにバンドエイドやガーゼを貼る。楽に横になれるようにと、蔵馬は飛影のジーンズを脱がせ、パジャマのズボンを着せてやる。足を高くしておく方がいいというヨウコの言い付け通り、横になった飛影の足の下に、クッションを入れる。

「足、高くしておくね」
「……」
「ねえ、飛影」

ぷい、と壁の方を向き目を閉じた飛影の背に向かって、蔵馬は言う。

「飛影ってさ、すごーく小さいよね」

ピクッと肩が動く。

「でも、大好き」

のろのろと、眉間にしわをよせたまま、飛影が振り向く。

「小さいからか?くだらん慰めはい…」
「どんなに君が小さくたって、仮に君がスーパーモデルみたいに180センチくらいあったって、もっと言えば仮に君が男の子だったとしても」

飛影の短いくしゃくしゃの髪を、しなやかな指がかき上げる。

「俺は絶対に君を好きになったよ」
「……」
「腕を組むより、手をつなごうよ」
「……」
「君にキスしたい時は、俺が屈みます」
「……」
「だから、あんな靴履かなくたって、いいんです」
「…………バーカ」
「そうかな?真面目に言ってるんだよ?」
「お前、頭おかしいぞ」

吐き捨てるような言葉は、照れといたたまれなさとでできていることは、蔵馬にはもうわかっている。その証拠に、眉間にしわはもうない。

「俺が180センチでも男でもいいって?まったく適当なことを」

飛影はプッと吹き出した。

「本当だってば」
「嘘つけ」
「本当です。君が180センチなら君が俺に合わせてくれればいいじゃない?」

俺が転んで捻挫したら、君におんぶしてもらうよ。

「君が男の子だったらさ」
「…だったら?」

蔵馬は、先ほど兄に見せたのとはまるで違う、本当に綺麗な、心からの笑みを浮かべた。

「ちゃーんと、男同士で愛し合う方法、マスターするから!」

冗談のように軽い口調で言ってはいるが、それが本気で言っているのだと、飛影にはわかった。

144センチでも、180センチでも、男でも、いいって?
それでも、絶対に好きになるって?

「……お前、本当に頭おかしいぞ」

溜め息まじりの言葉。
開け放たれた窓からは、暑くも寒くもない、風。春の風が、湿布のにおいのする部屋の空気と混ざり合う。

「なんとでも。それにしても今日は君をおんぶできるなんて幸せだったなぁ」
「なんだと!?」
「だって、背中に君のあったかさと、君のやわらかいおっぱ…」
「黙れーっ!! この変態!」
「なんかちょっとやみつきになりそう…月曜日、学校までおんぶしてあげようか?」
「バカ言うな!」

まだ続いている二人のかわいらしい応酬は、春の空気にゆるりと溶け出し、ふわりと舞う。

今年も、春が来た。


...End