未来予想図 II

先輩って本当にマジメなんすね、と後輩の一人は言う。
もっと軽く考えりゃいいじゃないかと、友人の一人は言う。

どちらの言うことも一理あるのはわかっていて、それでも俺はやっぱりそういう風にしか生きられそうにないのだ。
***
交流戦、と言ったって、女子相手に本気を出せるはずはない。どちらかと言えば、コーチをしに行く、というのが正確なところだろう。
それでも女子大に行くことができるというだけで、周りの部員たちは一ヶ月以上も前からそわそわしているという有り様だった。

けしからん。
剣道とはそんな軟派な心意気ではいかん。

「いや、だって先輩!あの女子大カワイイ子がいっぱいなんすよ!」
「かわいいとかそういう問題ではなく、我々は剣道をだな…」
「俺、もー!今から超楽しみっすよ!!」
「おい、あまり羽目を…」

俺の話もろくに聞かず、後輩ははずむような足取りで走って行ってしまった。
まったく、近頃の男ときたら。

俺は溜め息をつくと、ロッカーを閉じた。
***
勉学と剣道、文武両道。
それが十九歳の俺の正しい道だ。俺は日々、勉強と剣道とに励んでいる。

「お前、好きな子とかいないの?」
「いない」

講義の合間、女子大の剣道部にコーチに行くという噂を聞きつけたらしい友人は、ひとしきり羨ましがった後、不思議そうに尋ねる。

以前は、いた。
保育園の時の先生と、小学校の時のクラスメートと、中学校の時の部活の後輩の子。それが俺の恋愛遍歴、というか片思い遍歴の全てだ。

「マジ?最後が中学ってなんだよ。ずいぶん前じゃねえか?」

定期的に恋に落ちるものでもないと俺は思うのだが。

「で、まあ保育園と小学校はおいとくとして、中学の時の子には告ったのか?」

告ったなどという浮ついたものではない。思いを告げたのだ。

「で?」
「…振られた」

というか、振られることはわかっていた。
彼女には、すでに彼氏がいたから。

「なんだよその玉砕告白」

玉砕告白。言われればまあそうだ。
自分でもよくわからない。
彼女の付き合っていた男は学校で一番モテているだろう男で、女のように綺麗な顔で校則違反の長い髪をしている、運動部に所属していない優男…と、俺には見えた…だったからかもしれない。

あんな優男は、彼女に似つかわしくないと?
だから、奪いたかったのだろうか?

いや、それだけではない。

あの紅い瞳。
真っ白い肌に、凛と輝くあの瞳に、中学三年生だった俺は、射貫かれた。

あれは、恋ではなかった。

そんなやさしく甘いものではなく、彼女の視線は、胸を貫く、焼けた剣のようだった。
***
俺はうなだれていた。

…女子に負けるとは何事か。

情けないというかがっかりというか。
これでも俺が手塩にかけて育てた一年生たちだというのに。

部の先輩たちは部をさっさと引退し、就職活動とやらに精を出している。
二年生である俺が、今は主将も同然の立場だ。

コーチに来たはずの女子大で、惨敗中という悪夢のひととき。

いや、正確には違う。
男女の力の差は歴然としている、はずなのだ。
ずば抜けて強い女子が、たった一人だけいたのだ。

小学生かと思うほど背が低いというのに、素晴らしく切れのいい動きで、次々と俺の後輩たちを片付けていく。

しなやかなで、無駄のない動き。
躊躇いのない、好戦的な、その動き。

うなだれていた俺は、その動きに魅せられる。

胸が、高鳴る。

なぜ、懐かしい?
なぜ、こんなにも胸を締めつけられる?

鮮やかな一本に、審判の旗が勢い良く上がる。まったく、話にもならない試合だ。
どうやらその女子も、同じように思ったらしい。

「…話にならんな」

面の中から、辺りを凍りつかせるような一言を堂々と放った彼女は、もうこの交流試合に興味を失ったようだ。
スタスタと体育館を出た小さな後ろ姿を、俺は思わず追いかける。
更衣室へ向かうらしい廊下の角を曲がりかけ、面を外したその顔に、俺は目を見張った。

「飛影…!」

振り向いた彼女は、まるであの日からワープしてきたかのように、紅い瞳を煌めかせた。
***
「お前が率いていて、あのザマか?」

冷たい声。呆れた声。

女子更衣室…といってもここは女子大なのだから女子更衣室しかないが…の外に並ぶ木のベンチに、防具を着けたままドサッと腰かけ、飛影は俺を見上げるように睨む。あの、綺麗な綺麗な、赤い瞳で。

「…飛影」

何に驚いたって、飛影があまりにそのままで。
俺の一つ下なのだから、十八歳のはずだ。
なのに、あの日の、十四歳の時と、まったくといっていいほど変わっていない。

運命。
もしかしてこれは、運命ってやつなんじゃないか?

俺は彼女にもう一度出会うために、誰も好きにならずに待っていたんじゃないのか?

「デカイなりして何をボーッとしてやがる」

座ったらどうだ、と飛影がしかめっ面で向かいのベンチを指し示す。
俺は言われるがまま、よろめきながらベンチに座ったが、視線は飛影から離せない。

「大会の優勝常連校のやつらがコーチにくると聞いたから、少しは期待していたんだがな」

運命。俺は、飛影と再会する運命だったんだ…。

「まったく馬鹿馬鹿しい、俺は帰るぞ」

甲手を外し、投げるようにベンチに置く、飛影の白い手。
白くて細い指、左手の薬指の、金の指輪。

………左手の薬指の、金の指輪?

いくら恋愛に疎い俺でも、左手の薬指の指輪が何を意味するかわからないわけもない。
白い手に光る金の指輪が、運命という二文字をガラガラと砕き落とした。
***
「……なんなんだ、お前は」

魂が抜けたまま引きずってこられた食堂で、飛影は自分に紙パックの牛乳を、俺にはウーロン茶を買ってきてくれた。
更衣室で着替え終わって出てきたというのに、外のベンチでまだ放心している俺を見た時は、さすがの飛影も驚いたようだった。

勝手に運命感じて、勝手に打ち砕かれて呆けていたこの俺。
いい加減、俺も軟派な男だ。

俺の中の飛影のイメージは、中学の制服と、剣道着である袴姿ばかりだ。
もちろん今は違う。

黒いシャツに、ごく普通のジーンズ。教科書が入っているらしい、黒いトートバッグ。少年のようなさっぱりした格好に、唯一のアクセサリーは、左手の薬指の金色の指輪だ。

記憶が鮮やかによみがえる。

黒い制服を着て、季節はずれに転校してきた双子。 飛影はあまり笑顔を見せない生徒だった。双子の妹を除けば、同級生に対しても、先輩に対しても、それどころか教師に対してさえ、変わらず無愛想で、無表情だった。
今だって、自分の大学という馴染んだ場所だろうに、決して溶け込まない。ゆるまない。それはあの頃と変わらない。

剣道部に入部してきた飛影は、未経験者だったのに素晴らしい腕前だった。
竹刀はしょせん竹の棒でしかないのに、飛影が持つと、触れたものをスパリと切り落とす、真剣のように見えた。

冷たくて、強い、小さな剣士のようだった。

俺はその孤独を感じさせる凛とした佇まいも、好きだった。強いのに、どこか寂しそうで。
学校一モテる男と付き合い出した時には、驚きもしたし、あんな男を選ぶのか、と、その相手の意外さにがっかりもした。
諦め切れなくて、自分の思いも告げた。

自分の方がふさわしいと、自惚れていたのだろうか?

いったい、今の相手はどんな男なのだろう。
もしかして、指輪には何の意味もないなどと、そんな可能性はあるだろうか?

淡いピンク色の唇がくわえたストローから、白い液体が彼女の中に吸い込まれる。
その唇に思わず視線を引き寄せられながらも、俺は儚い望みを託す。

「それ…」
「なんだ?」
「指輪…」
「なんだ?はっきり言え」
「恋人が、いるんだな…」

ストローから、唇が離れた。
恋人がいるのかなどと聞ける間柄ではないのはわかってはいたが、俺は聞かずにはいれなかった。

「いない」

その時、俺が胸を高鳴らせたことを、誰が責められよう。
いくら左手の薬指に指輪をしていたからって、十八歳で、学生で、しかも見た目は十四歳のままで、まさか結婚しているなんて思わなかった俺を、誰が責められよう。

「じゃ、じゃあ。こ、恋人はいないのか!?」
「ああ」

空になった牛乳のパックを無造作に潰し、素晴らしいコントロールで、飛影はそれをゴミ箱に放った。
潰されたパックは、見事にゴミ箱の真ん中に命中した。

「いないが、夫はいる」

その言葉は、俺の脳天に命中した。
***
「何してんの、お前」

大学前のバス停で、俺の肩を叩いたのは、例の友人だ。

「…お前こそ、なぜここに?」
「俺も女子大生のおこぼれにあずかれないかと思ってさ」

ま、その様子じゃ無理だな。
こんなチャンスにまったくお前はよ。

笑いながら、バス停の自販機で買った缶コーヒーを放る。

「で、何バカみたいに呆けてんだよ?カワイイ子でもいたか?」
「…後輩たちが、試合に負けた」
「はあ!? マジ?女相手に?みっともねえなあ」

一番みっともないのは、多分俺だ。
缶コーヒーは、えらく苦かった。

「みっともないのは…」

ハッとして、コーヒーの缶を握りしめる。あやうく握りつぶす所だった。

スラリとした長身、整った顔、長い黒髪。
線の細い少年の体から脱し、青年になろうとしている、その綺麗な男には、見覚えがあった。

いや、見覚えとか、そういうことじゃない。
だって、あいつがここに…。なんでここに…?

「隠れろ!」
「え?いやちょっと、隠れるって」

俺も友人も大柄で、バス停のベンチの背に隠れている姿は傍から見たらさぞ滑稽だっただろう。

綺麗な男は、いや、名は蔵馬と言ったか?あいつが、ここにいる。
つまり、まさか、飛影は。

「わざわざどうした?」

ぶっきらぼうな声が、俺の頭上を通り、バス停の側に停められた車へ向かう。

「たまにはいいじゃない」
「店は?」
「閉めてきたよ」

ベンチの陰から、二人を盗み見る。
男は、蔵馬は、ごく自然に、飛影の肩を抱いた。

…ああ。

ゴン、と音を立てて、ベンチに頭をぶつけた。

馴染んでいる。
ゆるんでいる。

飛影は蔵馬の隣、その場所に、しっくりと馴染んでいた。
双子の妹にしか向けなかった、やわらかくゆるんだ表情で、男の隣に、存在していた。

「今日はお前が飯の当番だろ」
「そうなんだけど、久しぶりに外食でもしようかと思ってさ」

氷菜さん出張だしさ、さっき雪菜ちゃんが夕飯いらないって急にメールよこしたから。今日は店もいやに早く売り切れちゃって。早めに閉めちゃった。

家族っぽい。
いかにも家族っぽい会話に、俺はなんだかしみじみと悲しくなる。

不思議な形の赤い車に二人は乗り込む。
閉ざされたドアからは、もう会話は聞き取れない。
サイレント映画を観るように、俺は二人を見つめる。

運転席に座った男の言葉に、助手席の飛影が、小さく笑ったのが、見えた。

穏やかに、やわらかな、
……幸せそうな、笑み。

あの男は、飛影を幸せにしている。
俺が、あんな見かけだけの優男と憤った男は、飛影を幸せにしていた。

車は走り去る。
サイレント映画にふさわしい、レトロな赤い車が走り去る。

「ルノー・カングーだ。何かの店の車かな」

走り去る車を目で追い、友人が呟く。

「何、今のやつら、知り合いなのか?武威?」

知り合い。
遠くて、甘酸っぱくて、ちょっと苦い、知り合い。

「……昔、好きだった女の子」
「ええ!?」
「と、その夫」
「夫?はあ!?」
「飯、おごれ。酒も」

大学を卒業するまで、酒は飲まないと決めていた。友人は驚いて、目を丸くしている。

「飲むのかよ?めずらしーじゃん。剣道勉強馬鹿のお前が」

よーし、今日はまかせておけ、と友人は俺の背を力いっぱいたたいた。
俺たちは、学生向けの居酒屋の並ぶ、駅前に向かって歩き出した。

彼女の幸せを祝って、今夜は飲もう。
この気のいい友人に、この失恋話を笑って聞いてもらおう。

そしてまた、俺は俺の道を、歩んで行こう。


...End