未来予想図 I

不毛な恋、と友人の一人は言う。
不毛でも恋をしているだけマシ、と友人の一人は言う。

どちらの言うことも正しいのはわかっていて、それでもあたしは今日もあの店に向かってしまう。
***
すんなり長い指が、花を選び出し、包んでくれる。
レース模様を印刷したセロファンや、英字新聞を真似たわざとらしい包装紙なんかじゃなく、クラフト紙の茶色の包み紙がこのお店にはよく似合う。

こぢんまりしたお花屋さんは、あたし好みの花がたくさんある。あたしの大嫌いな胡蝶蘭みたいなお花はあまりなくて、野に咲くような素朴で、小さくてみずみずしい花が多い。高いお花は薔薇くらいだし、それでも安い野薔薇やかわいらしいミニ薔薇の方が多いのも、いい。この店であたしはたくさん花の名前を教わった。
あたしはいつだって五百円くらいまでしかお金を使わないし、その割にはいろいろ尋ねる迷惑な客だと思う。でも店長さんは嫌な顔ひとつせずに、いつでも笑って迎えてくれる。

レッドベリルというのがお店の名前で、それは赤い宝石の名前なのだそうだ。
ベリルは本来緑色である宝石なのに、稀に赤い色をしている物がある、それがレッドベリルなのだと、綺麗な碧の瞳の店長さんは、ちょっと照れくさそうにあたしに説明してくれた。

「この八重のかすみ草、すごく新鮮なのが入って」

長持ちすると思うよ。そう言いながらにっこり笑って、赤のようなオレンジのような、不思議な色の小さなミニ薔薇をたった三本だけ買ったあたしに、おまけだよ、とその白くかわいい花をたっぷり付けてくれる。

長くて艶のある黒髪はポニーテールのように束ねられている。
綺麗な綺麗な長い指が、白いかすみ草を選ぶ。

その指をずっと見つめていたいけど、それを阻むような、金の光。
店長さんの左手の薬指には、細くてシンプルな、金の指輪がはめられている。
***
店長さんは、あたしと同い年、十八歳だ。
初めてレッドベリルに来た時には、あたしはてっきりバイトの子なのだと思ったが、この店には他に従業員はいない。

高校を卒業してすぐに、花屋さんを開いたのだというからびっくりしてしまった。
そして、自分が十八歳になった日に付き合っていた彼女にプロポーズをして、結婚したのだという言葉にはもっとびっくりした。

一目惚れすると同時に薬指の指輪を発見したあたしのショックときたら。

もっとも、そんな女性客は多いみたいで、十八歳で結婚したことも、その彼女とは中学の時からの付き合いであるということも、店長さんにとって初恋の人であることも、他の常連客が店長さんに尋問のように尋ねているのを盗み聞きして知ったのだけど。

彼女、ならまだ見込み、というか可能性くらいはあったのかもしれない。
でも店長さんには、奥さんがいるのだ。

略奪婚。
ないない。それはない。
あたしはそんなに魅力溢れる女ってわけじゃない。
店長さんは奥さんを裏切るような人じゃない。

しかも中学からずっと付き合っていた人。
店長さんの初恋の人。

初恋は実らない、なんてあてにならないな。
***
レッドベリルに行くのは週に三回まで。そう決めている。

じゃないとなんだかあたしはストーカーみたいだし、それに五百円の買い物だって週に三回なら千五百円だ。
大学生のあたしにとって、それは安い金額でもない。

だから、今日は予定外だったのだ。

今日は朝から雨降りで、もちろん傘は持って出たというのに、学校で盗まれてしまった。
目印のシールを貼っていたとはいえ、ただのビニール傘なのだから誰かが間違えたのかもしれないけれど、それでもなんだか憂鬱だった。

駅からバス停まで、走れば三分もない。
なのにあたしはついつい、逆方向へ、レッドベリルへと足を向けてしまった。

普通、花屋さんというものはガラス張りで中がよく見えるものだけど、レッドベリルは違う。
入口は焦げ茶色のドアで、大きな窓からはお店の中が見えるけれど、カフェのようにも見える外観だ。

雨降りの今日は、窓ガラスは曇っていて、中のお花をぼんやり映して、とても綺麗だ。

店長さんに会いたいからじゃない。ちょっと雨宿りをしたいだけだ。
雨足はそれほど強くもなかったのに、あたしは自分に言い訳をして、木のドアを開けた。
***
ちょっと重たい木のドアに付けられた鈴が、リン、とかわいらしく鳴った。
お花の香り。そしてもう一つの香りは、紅茶の香りだ。

「いらっしゃいませ」

めずらしく、お店にはあたし以外にお客さんはなかった。
ちょうど紅茶を淹れたところだったらしい店長さんが、ふわりと笑う。

「雨、やまないですねえ。タオル、どうぞ」

店に入ってすぐの左手、茶色のカゴにはモスグリーンの小さなタオルが、雨に濡れたお客さん用にいつも用意してある。

「紅茶お好きですか?」

今淹れたばかりなんで、良かったらご一緒しません?
他のお客さんもいないし。

レジの側の小さな丸い木のテーブルには、湯気を立てるミルクティーのカップと、お揃いのポット。
このテーブルは贈り物にするお花を買う人なんかが、配送先の伝票を書いたりするのに使うテーブルで、椅子も四脚ある。

「あ、ありがとうございます。なんか、すみません」
「いえいえ。おかけになってください」

白地に青で薔薇が描かれたカップは薄くて華奢で、あたしは間違っても落っことしたりしないよう、そっと持ち上げた。

熱い液体が、冷えた体に滑り落ちる。
紅茶はびっくりするほど、美味しかった。

「…美味しいです」
「良かった。紅茶にはちょっと凝ってるんですよ。妻が紅茶好きなので」

妻。
ふいに、ギュッと胸を締めつけられた気がした。

花の香り、紅茶とミルクの香り、モスグリーンのタオルの、ラベンダーのようなほんのりした、香り。

あたしは、ここに、いたい。
このいい香りの、お花の咲き乱れる、このお店にずっとずっといたい。

あたしがこの人の、妻、になりたかった。

レジの後ろの、staff onlyと掲げられているドアの奥で電話が鳴った。
すみません、ちょっと失礼、と店長さんは奥へと消えた。閉じられたドアの向こうの会話は何も聞こえない。

大きく深呼吸をして、あたしは紅茶をゆっくり飲んだ。
こんな所で泣いたりとか、しちゃいけない。そんな権利はない。
一方通行の恋愛に舞い上がっていることはあたしだってよくわかっていたんだから。

店長さんは、なかなか戻ってこない。
奥さんからの、電話なのだろうか。

リン、と鈴が鳴り、来客を知らせる。
入ってきたお客に見られぬよう、あたしは目じりの涙を拭った。
***
十五歳か十六歳、そのくらいの女の子だった。

同じ十五歳でも中学三年生と高校一年生というのは、服やメイクで案外違いがはっきりわかるものだけど、女の子はスッピンに黒いジーンズ、黒いセーター、黒いブーツという格好で、中学生なのか高校生なのか、女のあたしにもわからない。背はとても低いが、顔も小さい。真っ黒な髪は、男の子かと思うほど、無造作に短くされている。

真っ白な肌に、真っ赤な瞳がとても印象的だった。

ドアのすぐ側に置かれたカゴに慣れた様子で手を伸ばし、タオルを取って濡れた肩や髪を拭く。
初めてのお客さんではないみたいだ。

チラリと店内を見渡すと、スタスタとレジの方へ歩いて行く。
レジの中の丸椅子に乱暴な動作で腰を下ろした女の子に、泥棒、などという言葉が頭をよぎる。

レジを開けたわけじゃない。でも、でもそこはお店の人しか入っちゃいけないはず。レジにはお金が入ってるんだから。
店長さんを呼ぼうかどうしようか迷った瞬間、女の子は店長さんの紅茶のカップを取り、一口飲んだ。

「え…?あ、あの…」

思わず声を上げたあたしに、女の子は無表情に視線を向け、ノックもせずにstaff onlyのドアを開ける。

「おい、客が呼んでるぞ」

お客様がお呼びです、でしょうが、と苦笑する店長さんの声が聞こえた。
女の子はそれを無視し、シュガーポットから出した角砂糖を口に含み、紅茶を飲んだ。
白いのどが、小さく動く。両手で抱えるようにカップを持つ仕草は、小柄な人にだけ似合う動作で、かわいらしい。

両手で抱えた、カップ。
女の子の左手の薬指に、細くシンプルな金の指輪がはめられていることにあたしはようやく気付く。

左手の薬指。
細くシンプルな金の指輪。

赤い瞳。
赤い宝石、レッドベリル。

かろうじて、カップを落っことすことはしなくてすんだ。

この人が、つまり。

「すみませんお待たせして」

ようやく戻ってきた店長さんは、クッキーを載せた小さなお皿を持っていた。
続く言葉はもうわかっていて、それでもあたしは、はかない、微かなかすかな希望をまだ持っていた。

「飛影」

店長さんが女の子の名前を呼ぶ。
その響きは絶望的なくらい、やさしくて。

絶望的なくらい、愛が詰まっていて。

綺麗な綺麗な長い指が、女の子の髪をくしゃりと撫でる。
女の子は手を振り払ったが、白い頬は薄く染まった。

妻です、という言葉が耳に入った瞬間、あたしの希望は、熱い紅茶の中の角砂糖のように溶けた。
***
雨降り、というのはなかなか失恋には似合うシチュエーションだと思うんだけど、もう雨は上がっていて、道路は濡れたアスファルト特有のにおいをさせていた。
歩きながら携帯をかばんから引っ張り出した。聞きなれた女友達の声に、ホッとする。

「失恋しちゃった。なぐさめてよ」

ー花屋の?もともと始まってないじゃん

「そういう言い方するー?傷つくなー」

ーごめんごめん。しょうがないなあ。話聞いてあげるよ。ご飯食べに行く?

「うん。愚痴らせてね」

ーいいよ。じゃあ麻弥のアパートに迎えに行くから。一時間後にね

「ありがと」

明るく喋りながらも、涙がぼろぼろ零れてきちゃって、すれ違う人達はあたしをチラチラ見る。
それがなんだかおかしくて、泣くのはやめた。

泣くのはやめて、笑うことにした。

だって、まあまあいい恋だったじゃない?
店長さんが、ひえい、って奥さんの名前を呼んだ時、愛のシャワーを浴びた気がした。
きっとあのシュガーポットの中の角砂糖はみんな溶けちゃったに違いない。
そんな愛がこの世にあるってことを確認できただけでも良かったじゃない?

いつか、あたしにもそんな人が現れますように。

そして、できればその人が、素朴な花の花束をくれるような人でありますように。


...End