ドングリ

「ごめんね、泪さん。土曜日なのに」

派手ではないけど、素敵な着物を泪さんはいつも着ている。
気にしないで、と首を振って笑うその顔は、穏やかでやさしい。

小さな木のお盆に乗っているのはぜんざいで、焦げ目の付いたお餅がいい匂い。
それを私の前に置いて、どうぞ、と泪さんは言った。

どうぞ、食べなさい。
どうぞ、話していいわよ。聞いてあげる。

二つの意味での、どうぞ、を、言って。
***
「飛影が?デート?」

お餅を口に入れたところだった私は、黙って頷く。
猫舌なので、あふあふしながら。

「デートかあ。二人とも大きくなっちゃって、なんだかさみしいわ」

泪さんは、ママの幼なじみで、親友だ。
値段の高い和食の、小さなお店をやっている。昼間は値段の高い甘味も出す。
ママの言うところの“小金持ちの、有閑マダム相手のお店”だ。

小さい頃は仕事でママの帰りが遅くなる度に、泪さんの家に泊めてもらったり、夕ご飯をご馳走になったりしていた。
子供のいない泪さんは私と飛影を可愛がってくれていて、私たちにとってもう一人のママみたいなものだ。
実際、小さかった頃は、私は泪ママと呼んでいたし。

ママと泪さんは顔立ちや体形は似ているのに、雰囲気はあまり似ていない。
蒼い瞳も長い水色の髪も背の高さも似ている。
でも和服を着ているせいもあるけど、泪さんの方がほんわりして見える。
もっとも、ほんわりなのは外見だけで、意外に頑固なのだ。

だって、泪さんはきっと私と飛影のパパである人のことも知っているはずだけど、絶対に教えてくれない。
シングルマザーなのに親戚から絶遠されちゃっているママを、いろいろ助けてくれたのも、泪さんのはずなのに。

「新しい学校はどう?」
「男の子がいるの」
「そりゃあそうでしょ。共学なんだから」
「うん。男の子がいる。それで、飛影を好きになる男の子もいるの」
「それで、何に困っているの?雪菜」
「何って…」

何にも困ってないけど。
ただ、飛影が男の子に告白されて、OKしちゃって、今日はデートに出かけちゃった、ってことだけ。

正直にそう言うと、泪さんはおかしそうに笑った。

「あなただって、ずいぶん男の子にもてるんじゃないの?雪菜」
「もてるよ。でも」

でも、飛影を好きだという男の子も、時々いる。
それがなんだか私は面白くないのだ。

ううん。
今までは面白かった。
だって、飛影がその人たちにOKなんて言うわけなかったから。

飛影が男の子に好かれるのが嫌なんじゃなくて、つまり、私は、

「飛影を取られちゃったみたいで、面白くないんでしょう?」
「…そうかも」

そんなのバカみたいだ。
わかっているけど、面白くない。

それに、心配なこともある。

「飛影は、あんまりしゃべらないし…愛想よくないって言うか」
「そうね」
「だから、男の子がそれを怒って、飛影に意地悪言ったりしたら、嫌だな、とか」
「そうね」
「その男の子が、飛影を傷つけたりしたら、許せない、とか」
「そうね」
「だから、私がずっと飛影のそばにいて、守ってあげるつもりだったのに」
「のに?」
「…私、バカみたい?」
「そうねえ。親馬鹿って聞くけど、これは妹馬鹿なのかしら?」

泪さんはまた、おかしそうに笑って、お茶を注ぎ足してくれる。

「やっぱり、妹馬鹿なのかな?」
「冗談よ。あなたは優しい子よ。でもそんなの心配しちゃだめ」

だって、男の子に興味なんかなかった飛影が好きになった子なんでしょう?
ならきっと、大丈夫。

「どんな子なの?」
「かっこよくて、成績優秀で、運動ができて、話もできる男の子」

あらまあ、と泪さんは眉を上げる。

「面食いなのは氷菜譲りなのかしら?」
「え!? 何?パパの話聞かせてくれるの?」
「さーて、夜の仕込みに入らなくちゃ」

えー?と抗議してみるものの、仕事中の泪さんに無理を言ったのは私だ。
今月のデザートなの、ご賞味あれ、と包んでくれた栗のお菓子を手に、私は店を出る。

「雪菜」

振り向いた私の肩に、泪さんのほっそりした手が置かれる。

「万一、その男の子と飛影が上手くいかなかったとしても」

飛影には帰る場所があるわ。
そこにはあなたがいる、氷菜もいる。

「それって、とても幸せなことよ?」

だから、あなたたちは、心の赴くままに生きなさい。

「傷つかずに生きていくなんて不可能なのよ。傷つけられることなんて、恐れては駄目」
「…そうだね」

…やっぱり、泪さんは泪ママだ。

傷ついたって、うまくいかなくたって、私たちにはちゃんと帰る場所がある。
私は、いつだって飛影を抱きしめてあげる。
私はいつだって、飛影の胸に飛び込める。

「ありがと、泪ママ」

また来るね、と、私は暖簾を勢いよく払って外に出た。
門限の七時にはまだ早かったけど、小走りに駅を目指す。

飛影に会いたい。早く会いたい。
会って、今日どこで、どんな話を“彼氏”としたのか、しつこく聞いてやる。

その夜、白い頬を染めて、ポケットにドングリを詰めて帰ってきた飛影を、私はしつこくしつこく、問い詰めた。

お土産のドングリを二人で机に並べて、飛影が全部白状するまで、幸せな尋問をし続けた。


...End.