darling

「何に腹が立つって、あいつの抜けているところになんだ」

タイトにまとめられた清潔感のあるショートヘア。アイスコーヒーのストローをくわえたまま眉をしかめる友人と、おかしそうに笑う妹を交互に見ながら、飛影は湯気を立てるティーカップにミルクを注ぐ。

誰もが何かに追い立てられるかのようにせわしなかった十二月が終わり、騒々しい正月も過ぎ、一月も半ばになった街はどこかのんびりしている。

十二月。クリスマスや年末年始は花屋のかき入れ時である。放課後や学校が休みの日には店を手伝っていた飛影にとっても、今日は久しぶりにゆっくりできる日だった。

「いいじゃん、本くらい。男なんてそんなもんでしょ」

薄化粧に髪をゆるくまとめた雪菜はアイスティーの氷を口に含み、また笑う。

「よくない。エロ本を買うのがよくないんじゃなくてだな」
「わかってるって。すぐバレる場所に置いておくなって話でしょ?」
「そう。枕の下って。アホかあいつは」
「奥ふかぁーくに隠してあっても嫌じゃん」
「それはまあ…」
「だいたいさ、今時エロ本ってのがいいよ。静止画じゃん。いつの時代の人よ。いいよ、なんか素朴でー」

アイスクリームに目がない雪菜は、自分の頼んだヘーゼルナッツのアイスクリームを綺麗に食べ終え、隣の飛影の分を狙っている。

小学校は全校で十人もいなかった、夕飯のおかずによく川で魚釣りをした、というとんでもない田舎から進学のために上京してきた凍矢の恋人の、訛の残る人の良さそうな口調を思い出し、飛影は思わず微笑んだ。

「何がおかしいんだ」

むくれた顔で洋梨のタルトにフォークを突き立てた凍矢に、飛影は首を振る。

「お前を笑ったわけじゃないぞ」
「どうだか。人妻は余裕だな」
「人妻っ…」

頬を赤くした飛影だったが、人妻であることには違いない。
雪菜に奪われかけてた苺ミルクのアイスクリームの器を取り返し、スプーンですくう。

ケーキが二種類とアイスクリームが一種類選べ、飲み物がついて千八百円という値段。
買物から調理まで、食事の支度をほとんど担当している飛影としてはずいぶん高いものだと思ったが、店内を見渡せば女ばかりで満席だ。

「飛影のとこはそんな悩みはないんだろうよ。なんかあの人、紳士って感じじゃないか?」
「どうかなー?飛影あんまりエッチさせてあげないしー」
「雪菜!!」
「だってそうじゃん。ラブホは嫌だとか家でもママや私がいる夜は嫌だとかさー。飢えてるんじゃなーい?隠すとなったら完璧に隠しそうだしさ、蔵馬さん」

またもや姉のアイスクリームにスプーンをのばし、ニヤッと雪菜は笑う。
トレード、とでもいうように、自分の皿からアップルパイを飛影の皿へ移す。

「それは言えてるな。陣と違って見つかるようなヘマはしなさそうだ」

凍矢までそんなことを言い出し、飛影は眉をしかめる。
確かに、蔵馬の周りでその手のものを見つけたことはない。

店のスタッフルーム、倉庫、仕事用の車、整理整頓されてはいるが、確かに何かを隠すことはいくらでもできる。仕事用のパソコンには、飛影は触れたこともない。そもそも、妻に見られたくないものは実家に置いておくという手もなくはない。

「…別に、蔵馬がエロ本だろうがなんだろうが持ってても俺は構わん」
「またまたー。強がっちゃって」
「お前、案外嫉妬深いだろうが、飛影」

いつの間にやら話の矛先は飛影に向かってきてしまっている。雪菜と凍矢のからかうような視線に、飛影は飲み込んだアップルパイの味もわからない。

「ねー、飛影。…探してみたら?」

かわいい妹の、悪魔の囁き。
悪魔の手にはしっかり、苺ミルクのアイスクリームの器があった。
***
和室の小さなこたつに向かい、店の伝票を傍らに蔵馬はノートパソコンを開いている。
風呂上がりのパジャマ姿で向かいにぺたりと座った飛影に、蔵馬がごそごそとこたつの中からカーディガンを引っ張りだし、妻に渡す。

「ほら。湯冷めしないうちに羽織りなよ」
「わざわざこたつに入れといたのか?」
「あっためといたんだよ。秀吉みたいでしょ?」
「こたつじゃなくて、懐だろうが」
「まあ、そこら辺は現代仕様でして。それとも俺のぬくもりが良かった?」
「何バカなこと言ってんだ」

呆れながらも飛影は渡されたカーディガンを羽織り、こたつに足を入れる。

来週、久しぶりに休みあるから、何か美味しいもの作るよ。ここんとこ飛影にばっかりご飯作らせちゃったし。食べたいものある?寒くなってきたから辛い鍋でもしたいね。でも鍋は氷菜さんと雪菜ちゃんがいる日がいいかなあ。

伝票をめくりパソコンのキーを軽やかにたたきながら、取り留めもないことを蔵馬は喋る。
無口な飛影はいつものように相づち程度の返事を挟む。

「よし、じゃあ俺も風呂入ってくるね」

ひと段落ついたらしい蔵馬はパソコンをぱたんと閉じ、パジャマと下着を持って部屋を出ていく。

いつものように雪菜は大学の仲間とどこかへ遊びに行っていたが、今夜は氷菜は家にいた。自室でなにやら持ち帰りの仕事をしているようだ。
娘とはいえ結婚している夫婦に気を使っているらしく、氷菜は滅多に二階には上がってこなくなった。

風呂に浸かる習慣のない氷菜は、年中シャワーで済ましてしまう。
なんだかね、お湯に入ると溶けちゃうような気がするのよ、と真顔で言うのは双子が子供の頃からだ。飛影も雪菜も、氷菜と一緒に風呂に入ったという記憶は数えるほどしかない。

階段を下りる蔵馬の足音に耳を澄まし、バスルームの扉が閉まる微かな音まで確認したところで、飛影はそろりと腕をのばし、ノートパソコンを自分の方へと引きずる。

隠すなら、やっぱパソコンだよねー。

したり顔でそう言ったのは雪菜だが、凍矢も頷いていた。
欠けたりんごのマークを指でなぞり、一瞬だけためらい、飛影はパソコンを開けた。スリープしていただけだったらしいパソコンはすぐに立ち上がり、数字やら何やらが並ぶ表のようなものを画面いっぱいに映し出す。

しばし数字を眺め、キーボードの上で手を開いたり握ったりを飛影は繰り返す。
よくよく考えてみれば、時折学校の授業で使うくらいで、ろくにパソコン使いこなせないのないのだから、何か隠してあるとしたって自分に探し出せるわけもないのだと、ようやく気付く。

「……馬鹿馬鹿しい」

小さくぼやき、適当なキーをぽんと押す。
するとたちまち数字だらけの表が消え失せ、慌てた飛影の目の前に映し出されたのは、自分の顔だった。

「……な」

うつ伏せで、ソファの上でうたたねをしている自分の顔。
クッションを抱き込み、間の抜けた顔をさらして眠っている。

パソコンの中の自分に、飛影は呆気にとられる。

写真がふっと消え、また新しい写真になる。
スクリーンセーバーだとようやく気付き、飛影はぽかんとしたまま画面に見入る。

「何考え…」

制服を着ている少女。
後ろ姿であっても、短い髪も低い背も、間違いなく中学生の頃の自分だと飛影は目をぱちくりさせる。

撮られた記憶のあるものも、ないものも。
写し出されては消える自分にぽかんとしていた飛影は、十枚ほどの写真の最後の一枚を、見つめる。

弾けるような笑顔の二人の間で、困ったような顔をしている一人。

高校の卒業式の写真。
雪菜と氷菜の笑顔に挟まれ、飛影はどことなく困ったような少し照れたような顔をしている。

白い指先が、そっとふたを閉じた。
元通りの位置にパソコンを押し戻し、こたつ布団に肩まで潜り込んだ、その顔。

どことなく困ったような、少し照れたような顔。
それはつい今し方、薄いパソコンの画面に映し出されていたのと同じ顔だ。
***
「あれ?レポートやるんじゃなかったの?」

教科書も出さずにこたつでぼんやりしている飛影に、蔵馬は不思議そうに聞く。

「…今日はいい」
「そう?提出日まだなんだっけ?」

冷え性の妻とは違い、風呂上がりのあたたまった体でこたつに入る気には到底なれない蔵馬は、冷気の溜まる窓辺に寄る。

「レポート、手伝おうか?」

そう言いながら、細く隙間の開いていたカーテンを丁寧に閉め直す蔵馬の腰に、細いが力強い腕が後ろから巻き付く。

「ん?」
「蔵馬」

生まれたときからずっと、氷菜にも、雪菜にも、愛されて生きてきた。
なのにはっきりと愛情を自分に向けて示されると、いつでも飛影は少し戸惑ってしまう。

例えば、そっくり同じ笑顔で自分の両隣に立ち、笑いかける母や妹とか。
例えば、仕事で使うパソコンのスクリーンセーバーを妻の写真にする夫、とか。

たっぷりと降り注ぐ愛情に、どう応えていいのか、未だに飛影にはよくわからない。自分にその資格があるのか、とさえ時々考える。

「飛影?」
「…蔵馬」

ただ名を呼び、蔵馬の体に触れる。
それは飛影からの誘いの合図で、珍しいことだった。

無口な分、飛影の言葉は一つひとつが他の人間の発するものと、重みが違うように感じるのは自分だけだろうかと、蔵馬はくしゃくしゃの黒髪を見下ろす。

「…いいの、飛影?」

階下には、氷菜がいる。
返事のかわりに、蔵馬の腰に腕を巻き付けたまま、飛影はパジャマの背に顔を埋めた。
***
付けっぱなしのこたつの上には、同じように付けっぱなしのパソコン。
まるで照れているかのように、暗がりの中でりんごのマークはほんのり光った。


...End.