カウントダウン

沖縄へダイビングをしに行くこと。
ディズニーランドへ行くこと。
ママのコネでティーン向け雑誌のイベントのバイトをすること。
大好きなバンドが出る夏フェスを見に行くこと。
山の中にぽつんとある駅を見に、たったの二両で走る鈍行列車に乗ること。

補習だとか、追試だとか、レポートだとか。
その辺はまあ取りあえず無視するとして、楽しい予定だけを書き出してみる。

7月の半ばも過ぎた学校はなんとなくそわそわしていて、それは夏が近付いているからで、つまり夏休みがもうすぐだってことだ。
大学に入って初めての夏休みは、楽しみなものもそうでないものもあるけど、白い革にピンクのベルトがついた私のお気に入りの手帳は、半分ほどが予定で埋まっている。

高校から一緒だった友人達と互いの手帳をのぞき込み、笑い合い、アイスカフェオレに浮いた氷をカリッとかみ砕いて飲み込んだ。
次の講義を取っている友人達が席を立ったところで、声をかけられた。

「相変わらずお忙しいことで」

ハスキーで、それでいて甘い声に私は顔を上げる。
お嬢様学校の学食には似合わない、均一に日焼けした肌と派手めの化粧。短いスカートから伸びる足も、相変わらず綺麗だ。

「樹里先輩!」
「もう夏の予定はいっぱいってわけ?合コン誘おうと思ってたのに」

彼氏の仲間にさ、女の子紹介して欲しいって頼まれちゃって。
かわいい子じゃなきゃ嫌だとか言い出してさあ。あ、変なのじゃないよ。学生じゃないけど結構いいとこ勤めてて…。

先輩の話を、懐かしい話でも聞くような気分で、私は目を細めた。

「何笑ってるの雪菜。来てくれるでしょ?」
「ごめーん先輩。今はパス」
「今はって。彼氏がいるとか言わないでね」

彼氏がいるからなんて理由で、合コンだのなんだのの誘いを私が断ったことはない。

「そうじゃないんだけど。今はいいの」
「男断ちってわけ?らしくもない。願掛け?」
「かけてないかけてない」

ダイビングも、ディズニーランドも、ガールズイベントも、夏フェスも、今年は女友達と行くことにしている。山の中にぽつんとある駅を見て古めかしい民宿に泊まる、というヘンテコな予定だけは飛影と行くことにしている。
男の人と遊ぶことに飽きたわけでも、運命の相手を見つけたわけでもない。ただ。

「雪菜」

自販機で買ったらしい紙パックの牛乳を片手に、飛影が近付いてくる。
ほとんどの生徒が高校からのいわゆるエスカレーター式なのだから、もちろん樹里先輩も同じ高校だった。なのに飛影ときたら相変わらず愛想も何もなく、手伝いに行かなきゃだから先に帰る、弁当箱出すの忘れるなよ、などと言いさっさと学食を出て行ってしまう。

「変わんないねー、ひえちゃん。結婚したんだって?早っ」

うん、と頷きつつ、私は飛影の背を目で追う。
周りの人にはわかりっこないけれど、飛影は機嫌がいい。言葉の端々や、歩き方。私には分かる。

このところずっと飛影の機嫌はよく、それは夏休みが近付いているからで。
飛影にとってなぜ夏休みが嬉しいことなのかというと、海でも旅行でも夏フェスでも面白そうなバイトでもなく。

蔵馬さんのそばに、いれるからだ。

残っていた氷をかみ砕き、まだ冷たさの残るプラスティックのカップを私は頬につけた。
同じようにプラスティックのカップに入ったアイスコーヒーを飲みながら、先輩はどうしたの、とでもいうように首を傾げた。

夏休みだから、学校に行かなくてもいいから、ずっと好きな人のそばにいれる。
一緒に起きて、一緒に朝ご飯を食べ、一緒にお店に行き、一日中仕事を手伝って、一緒にお昼ご飯を食べて、一緒に家に帰ってきて、一緒に夕ご飯を食べる。そしてまた一緒に眠る。
それが嬉しくて、それが楽しみで、飛影は夏休みを心待ちにしている。

ほうっとついた溜め息に、樹里先輩がにやっと笑った。

「へー。ひえちゃんの結婚に影響されちゃったんだ?今さら純愛に路線変更?」
「変更っていうか」

二股も、三股も、アホくさい。付き合っているつもりでいる男がいて、でも他の男とするセックスもあって。
たくさんの男に告白されて、付き合って、セックスして。何人に告白されたのかを何人と付き合ったかを、それとなく、けれど自慢気に誇示し合う。

それがモテる証だと思っていた自分が急に馬鹿馬鹿しくなったのは、カレンダーをめくり、8月の数字を眺めていた飛影を見た時だ。

大きな目で、やわらかくゆるんだ表情で、カレンダーの8の数字を飛影は指先で押さえた。
二人は夏の間中、きっとせっせと働いて、お昼になれば紅茶を淹れて、手作りのお弁当を食べるのだろう。蔵馬さんだけが一方的に喋りかけ、無口な飛影は、ああ、とか、そうだな、とかそんな返事しかしないというのに、蔵馬さんはにこにこ笑っていて。

二股なんて考えられないくらい。他の男なんか見えなくなるくらい。
そういう男に出会えていないから、私の恋愛遍歴は増え続け更新され続けているのだ。そういう男を見つけられず、すぐ別れられるくらい、すぐ他の男にも目が行っちゃうくらいの、そんな男としか付き合えなかったのだ。

付き合った男の数を誇ることのしょうもなさ。
その数は失敗した数以外の何ものでもないと本当はわかっていたのに、わからないふりをし続けてきた。

もちろん蔵馬さんが欲しいわけでも、飛影のような生活をしたいわけでもない。それはまた、全然違うのだけど。
ただ、今は何となく。

「らしくないよ。雪菜は雪菜でしょ」
「そうなんですけど。ま、今はね。ちょっとだけ自分を見つめ直すってやつなの」

私飽きっぽいから、今だけの決意に終わると思うんですけどね。気が変わってるかもしれないから、秋になったらまた誘ってください。私は笑いながら付け加えた。
なにそれ。夏だよ?せっかく夏なんだよー?ところころ笑うと、樹里先輩は自分の分のカップを持ち、また連絡するね、と長い髪をひゅんとなびかせ行ってしまった。
***
「あれ、雪菜ちゃん、めずらしいね」

手のひらにおさまるほどのブーケは、十個ほど積み上げられている。
私には名前のわからない花を大きな手が手際よくまとめ、小ぶりのブーケは次々とでき上がっていく。

お店の閉店は七時で、それはこの周辺の店にしてはずいぶん早いのだけど、蔵馬さんはそれでいいと言う。夜は花たちも眠る時間だから、というわかるようなわからないような理屈をつけて。
でもまあこの店はママに言わせれば初めて店を持つにしてはあり得ないくらい流行っている、ということだし、この先ずっと飛影をちゃんと養っていけるくらい稼いでさえくれれば、私は何も文句はない。

「ご飯でも食べて帰ろうか」

蔵馬さんの言葉にそだねーと生返事を返しつつ、飛影を探す。
冷蔵庫のようにもなっている倉庫で、寒がりの飛影は蔵馬さんの長袖のシャツを着て、花を切り揃えていた。

「雪菜。めずらしいな」

夫婦で同じことを言う。

「手伝おうか?」
「お前、終わったところを狙って来ただろう」

どうやらこれで一区切りだったらしく、苦笑しながら飛影は軍手を外す。
落とした茎や葉っぱをざっとビニール袋にあけ、外のゴミ箱へと片づける。

「働くねー、飛影」
「ああ。蔵馬のやつ、タダだと思ってこき使いやがって」

口を尖らせて言ったところで真実味はない。
8月のカレンダーを嬉しそうに見ていた飛影。夏休みを楽しみにしている飛影。

中二の時からの付き合いなんだからもう五年も経つ。なのに。まったくもう。

二人で店に戻ると、配送業者のお兄さんが、さっきの小さなブーケを詰めた箱を運んでいくところだった。
蔵馬さんは、今度は大きな花束を作っている。

緑と白、それにごく僅かのとても濃い黄色。
さまざまな緑が濃淡を創り出し、白と黄色を素晴らしく引き立てる。

「それなにー?」
「幽助の注文。っていうか幽助の友達から」
「あんなガサツな人にそんな繊細な友達いるの?」

蔵馬さんと飛影が、揃って笑い出す。

幽助さんの友達が、お姉さんへの誕生日プレゼントにと注文したものだという。
なんでもお姉さんは美容師で、店のオープンにこの店の花を贈られて以来、花はここの物と決めているそうだ。

「なるほどねー。お姉さんのご指名なんだ」
「ありがたいことだよね。リピーター化してくれるっていうのはさ。あ、来るみたい」

幅の広い、マットな焦げ茶色のリボンを大きく結んだ瞬間、蔵馬さんの携帯が鳴った。
人見知りの飛影は幽助さんの友人であろうと知らない人に会いたくないのだろう。鍵を取り、車で待ってると言ってさっさと裏口から出てしまう。私も一緒に裏口を抜け、花を乗せるために倒してあった後部座席を押し上げ、飛影と並んで座った。

「お客でしょ?挨拶くらいしなよ。そんなんじゃ自営業の妻はつとまらないよー?」
「……俺は手伝ってやってるだけだ」

かさついた手で手動式の窓を開け、ぷい、と外を向く飛影に、私は溜め息をつく。
ほんとにもう、しょうがないんだから。

バッグからハンドクリームを取り出し、飛影の手を取る。軍手をしていたせいでカサカサになった手に、レモンバームの匂いのするクリームをたっぷり擦り込んでやる。されるがままになる飛影は、いつものことながらちょっとかわいい。

「じゃーなー。また」

車の外、表通りから聞こえた声に私は顔を上げる。
助手席の後ろ、飛影の座っている側からは表通りは見えないが私の方からは見える。私に気付いてオーバーなリアクションで手を振る幽助さんに、私もオーバーな笑顔で応え、手を振る。

大きな花束を抱え、後ろに立っていた男の人と目が合った。
この人が美容師のお姉さんがいるという、幽助さんの友達なのだろう。

無愛想な姉に代わって、お買い上げありがとうございます、の意を込めペコリと頭を下げると、男の人はなぜか固まってしまったかのようにこっちを見ている。

「おまたせ。何食べる?」

花屋のエプロンを外した蔵馬さんが、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
男の人は、まだこっちを見ている。

自分で自分の顔がどの程度のランクか私はよく知っている。
あの人が私を見てることはわかったし、見られることにも慣れている。

でも、まだ見てる。
ぽかんと口を開けて。
変な人だ。

背はとても高いが、お世辞にもかっこいいとは言えない。髪形も全然おしゃれじゃない。
でもなんとなく、人がよさそうな、そんな感じで。

車は走り出し、あっという間に二人の姿は見えなくなった。

夜の街並みが窓の外を流れ、ラジオから聞こえるのは、曲名は知らない洋楽のスタンダードナンバーだ。
車の中は、姉夫婦二人の体から香る草花の匂いと、レモンバームの匂いに満ちていた。


...End