おべんとう

卵焼きはシンプルにだし巻きにした。
刻んだレンコンがシャキシャキと美味しい照り焼きハンバーグ。
しらすとほうれん草は少しの醤油と鰹節で和えて。
ベーコンで巻いた舞茸はバターをたっぷり絡めて焼いた。
黒胡椒をきかせた、ツナとコーンのポテトサラダ。
シソを巻いたチーズと交互に串に刺したプチトマトが、弁当に彩りを添えている。

三十分ほど前に詰めておいたご飯は粗熱も取れ、大きめのステンレスの弁当箱のちょうど六分目ほどに納まっている。
冷ましたおかずを手際よく詰め終わり、仕上げに色の薄い、やわらかそうな梅干しをご飯の上にぽんと置く。

小さな手は弁当箱の蓋を持ったまま少しためらう。じっと弁当を眺め、付け加えるかのように昨夜の残りのきんぴらごぼうをご飯の隅に押し込んだ。

大きなナフキンで弁当箱を包み、結び目に箸箱を差す。
熱く香ばしいほうじ茶の入った小さな水筒と共に、いかにも弁当用の小さなトートバッグに入れ、ファスナーを引く。

飛影は両手でトートバッグをつかむと、小さく溜め息をつき、二階をちらりと見上げた。
***
四月。

大学の入学式は少し先で、双子はのんびりと春休みを過ごしている。
普段はぬくぬくと二度寝を楽しんでいる雪菜が、トントンと軽やかに階段を降りてきた。友人と遊ぶ約束でもしているのだろう。

「おはよー。早いね」

キッチンの時計は九時を少し過ぎたところだ。
飛影は二人分の食パンをトースターに入れ、とろ火にかけていた小鍋からトマトスープをカップに注ぐ。

「蔵馬さんは?」
「寝てるぞ。昨夜遅かったからな」
「そんなに遅くまでしてたんだ?飛影は大丈夫なの?」

姉が投げつけてきたヨーグルトのカップを受け止め、雪菜は笑う。

「冗談だって。私が二階にいるとセックスできないんでしょ〜?」
「朝からそういう話はよせ!」

母親はとっくに出かけているとはいえ、その手の話を飛影は家の中ではしたくない。母親も暮らすこの家で、朝っぱらからそんな話を口に出すのは、なんだか親不孝のような気さえする。
お前のせいでパンが焦げた、とブツブツ言いながら、飛影は乱暴にバターを塗る。

什器を揃える、外壁を塗り替える、内装をリフォームする、店の登記に必要なあれやこれやを揃える、仕入れ先の市場や花農家を回る。

花屋の開店に向け、このところ蔵馬はひどく忙しい。
昨夜も内装業者との打ち合わせが長引き、その後店でやることが山ほどあったとかで、二時近くの帰りだった。
起こさないようにそっとベッドを抜け出し、飛影は先に階下に下りてきたのだ。

「あれ?だし巻き?」

トーストに添えられただし巻き卵とポテトサラダに、雪菜が首をかしげる。
普段なら、スクランブルエッグか目玉焼きだ。

「作るのは俺なんだから、文句言わずに食え」
「別に文句はないけど。京都とか、こういう食べ方なかったっけ?」

トーストの片側にだし巻き卵を乗せ、パンを折りたたむと、サンドイッチのようにして雪菜はかぶりつく。
双子が朝食を食べ終え、それぞれコーヒーと紅茶のカップを手にした所で蔵馬がキッチンに現れた。

「おはよう、飛影、雪菜ちゃん」

トースターを温め直そうと手を伸ばした飛影に、蔵馬が手を振る。

「ありがとう、飛影。でももう行かなくちゃ」

顔を洗いに洗面所へ向かう後ろ姿を、飛影は目で追う。
長い髪を束ねる両手。指の長い、それでいて男っぽいその手。

「飛影、手伝いに行けばいいじゃん」
「…手伝えることなんかない」

それはその通りだった。
今は業者との打ち合わせや、取引先の選定や挨拶や、そんなことばかりだ。飛影が役に立つことなどないし、入れ替わり立ち替わり知らない人間が店に来るという時に、いったいどう振る舞えばいいのかも分からない。

水音が止み、シャツとジーンズに着替え、薄手のパーカーを羽織った蔵馬が顔を出す。
見送りというほどオーバーなものではないが、なんとなく立ち上がった双子は、玄関までついて行く。

「行ってきまーす」

いったんドアが閉まり、再び開く。

「飛影、いってらっしゃいのキスは?」
「バカ言ってないで、とっと行け」

しかめっ面をする妻に夫は笑い、今夜はできるだけ早く帰るね、とドアを閉めた。
***
エンジンがかかり、中古のルノー・ラングーが出かけて行った。
どこか緊張した面持ちで、車が見えなくなるまで見つめていた姉を、妹はまたからかう。

「見つめちゃって。好きだねー」
「…そんなんじゃない」

むすっとして言うと、飛影は玄関に鍵をかけ、キッチンに戻る。

「結婚したのに何照れて…」
「弁当」
「え?」

少し冷めた紅茶のカップを手に、飛影はぼそっと言う。

「弁当、作ったんだ」

たった今出かけたばかりの蔵馬の姿を思い出し、雪菜は首をかしげる。

「蔵馬さん、お弁当なんて持ってた?」
「…渡してない」
「は?」

コーヒーに氷を入れるために、冷凍庫の扉を開けたところだった雪菜は振り向く。

「渡し忘れたの?」
「違う」
「え?お弁当、どこにあるの?」
「車の中」
「じゃあ、いいじゃない」
「…でも、蔵馬には言ってない」
「言ってない?車のどこに置いたの?助手席じゃないの?」
「後ろの席」

なんで?などと雪菜は聞かない。生まれた時から一緒にいるのだ。聞くまでもない。
氷を足し、ほんの少し牛乳を注いだアイスコーヒーのグラスを持ち、飛影の向かいに座る。

「…後ろの席じゃ、気付かないかもしれないじゃん」
「気付かなかったら、別にいい。俺が夜に食う」

メールとかするなよ?と飛影は口を尖らせ雪菜を制し、自分も紅茶のカップに牛乳を入れた。

「…飛影って、変」

呆れたように、それでいて愛おしさも含んだ雪菜の言葉に、飛影は目をそらし、小さな庭を見る。

蔵馬の植えた花々は、近所のガーデニング愛好家を羨ましがらせるような力強い咲き方で、春を満喫していた。
***
どれでもいい。お前の店なんだから、お前の好きにしたらいい。

壁紙や照明のカタログも、一緒に見て回ったあちこちの古道具屋でも、飛影はそう言った。
そのくせ、大きな瞳は本人よりもずっと素直に、気に入った物を見つめていた。

そんなわけで、店の内装には多分に飛影の好みも反映されている。
レジカウンターも、小さなテーブルや椅子も、花を包むための大きな机も、古道具屋で見つけた、古びた木でできた素朴な物ばかりだ。白くまるい中古のアラジンのストーブは、次の冬に活躍してくれるだろう。
気取ったシャンデリアではなく、透明度の高いガラスの大きな電球も、飛影がじっと見つめていた物だ。

今朝玄関で、何か言いたげな顔をして自分を見上げていた飛影を、蔵馬は思い出す。
ここのところドタバタしていて、一緒に出かけたりもほとんどしていない。明日の打ち合わせが片付けば、後は施工業者に任せて少しゆっくりできる。
東京の桜は散りかけているが、車で少し遠くまで桜を見に行こうか。食べ物屋はどこも混んでいるだろうから、お弁当でも持って。

そんなことを考え出したら、蔵馬は急に空腹を感じた。

「さてと」

時間は十一時。来客も一段落した。次の打ち合わせは一時半だ。
昼には早いが、朝から何も食べていない。ビルの一階で隣り合うテナントは古びた喫茶店で、外に置かれた小さな黒板にはランチメニューの案内があった。
先週挨拶に行った時には、昼時は外したというのにテーブルの七割方には客がいたところを見ると、きっと美味しいナポリタンでもあるだろう。
***
「おう」

店主は白髪を短く刈り込み、いかにも美味い物を作りそうな太鼓腹をエプロンで包んでいる。

「こないだは、どうもね」

先週、菓子箱を手に挨拶に訪れた蔵馬に店主は、今どき隣の店に挨拶に来るなんて、若いのに律義だねえ、あんた。と感心したように言った。

「工事の騒音もありますし。色々ご迷惑おかけしてます」
「いやあ。期間限定の話だ。上の音に比べりゃかわいいもんよ」

喫茶店の真上はダンス教室が借りている。夕方から夜のレッスンの音に閉口し、ダンス教室が入居してからは夜営業は止めたのだと、店主は口を尖らせた。

「こちとら、いまさら店を引っ越すような歳でもないしな」

喋りながらも手は休まない。
きのこにピーマン、玉ねぎ、ベーコンの入ったパスタを豪快に炒め、醤油のように見えるものをジャッとかけ回す。

「何にする?」
「そうですね…」

フライパンを煽る店主の後ろの黒板を、蔵馬は眺める。
本日の日替わり定食は生姜焼きかオムレツ。あとはポークカレーに、和風スパゲッティ、旨辛スパゲッティ、ナポリタン。写真があるわけではないが、旨辛スパゲッティとはきっとペペロンチーノのような物だろうと蔵馬は検討をつける。

「ナポリタン、お願いします」
「あいよ」

大盛りの和風スパゲッティとカップになみなみのスープを、カウンターの端で雑誌を読んでいた客の前に置き、店主はザッと洗ったフライパンを再び火にかける。
パーカーを脱いで椅子の背にかけた蔵馬は、あ、と小さく呟く。

「財布」

財布、車に置きっぱなしだ。
すぐに戻ると店主に声をかけ、ビルの裏手の駐車場に小走りに向かう。

運転席から身を乗り出し、グローブボックスに手をかける。
そこでふと、目に飛び込んできた物に蔵馬は手を止めた。

「あれ?」

ファスナー付きの小さな赤いトートバッグ。
同じ形の色違いの物を、飛影と雪菜が持っているのを見たことがある。二人とももちろんこの車には何度も乗っている。どちらかの忘れ物だろうか?

運転席に片膝を乗せたままという体勢で、腕をのばしてトートバッグを取る。
小ぶりなわりに重い。体を返し、足を車外に投げ出して運転席に座ると、蔵馬はファスナーを開けた。
***
「すみません!それ、持ち帰りってできますか?」

今まさにもうもうと湯気を立てるナポリタンを皿に盛ろうとしてた店主が、手を止める。

「今食わないのかい?熱々が美味いのに」
「すみません。急用が入ってしまって」

いかにも申し訳なさそうに、それでいてどこか嬉しそうに蔵馬は言う。
あいよ、と応え、店主は戸棚の引き出しから持ち帰り用と思しきプラスチックの容器を取り出した。

「まだ熱いから気いつけてな。冷めてからならコッペパンに挟むと美味いよ」
「そうします。ありがとうございます」

今度は妻と来ますね、と笑う蔵馬に、来た時と同じように、おう、と短く応え、店主は手を振った。
***
だし巻き卵はふっくらしている。
照り焼きハンバーグは、刻んだレンコンがシャキシャキと美味しい。
醤油と鰹節で和えたらしい、しらすとほうれん草。
バターが香る舞茸のベーコン巻き。
ツナとコーンのポテトサラダは、粗く挽いた黒胡椒がきいている。
シソを巻いたチーズとプチトマトが、弁当に華やかに彩っている。

ご飯の隅に押し込められたきんぴらごぼうに、思わず蔵馬の頬が緩む。
昨夜の残り物を消費するために弁当を作っただけだと、きっと飛影は主張するつもりなのだろう。

もちろん写真を撮ってから、蔵馬は食べ始めた。
そこら中に配線のケーブルやら板だの散らばる自分の店で、大きめの角材に腰を下ろし、子供のようにきちんと両手を合わせ、いただきます、と宣言して。

今朝玄関で、何か言いたげな顔をして自分を見上げていた飛影を、蔵馬は思い出す。

きっと今ごろ、弁当を見つけたかどうかやきもきしているくせに、電話もメールもしてこないのだ。
そもそも、助手席じゃなく後部座席に置くなんて。

まだ木の板で塞がれたままの窓の代わりに、道路に面した入り口の扉は大きく開け放してある。
いかにも買ったばかりというようなスーツに身を包んだ若者たちが、笑い転げながらその前を通っていった。

ハンバーグを頬張ったまま、蔵馬は見るともなく見る。

きっと近くの大学の入学式だろう。
学びに行くのか遊びに行くのかはともかく、大学生活の始まりというやつだ。

後で無駄になることはない、せっかくどの大学でも行ける立場にあるのに、どうして行かない?
高校の教師も、義理の父も蔵馬に何度もそう言った。
商売を始めるのはいい、でもどうしてそれが大学を卒業してからじゃだめなんだ?何も高卒で世の中に出ることはない。いずれ嫌でも働くことになるのだから、今は大学に行ってみてはどうかと。

母親だけが飄々と、あなたの選んだ道なら、仕事だろうが結婚だろうが母さんはなんでも応援する、と言った。

思うがままに生きなさいと、笑顔で言った。
優しげな顔をして、意外に芯の強い女なのだ。

大学に行くつもりも、勤め人になるつもりも蔵馬にはさらさらなかった。
花屋になる必要があったわけではないが、自分でも向いている仕事だと思っている。

あなたは緑の手をしているのね。

そう言ったのは小学校の時の教師で、聞きなれぬ言葉に不思議そうな顔をする蔵馬に、小学生の目から見ればおばあちゃんとしか言いようのなかった定年間際の副校長は笑った。

あなたが触れると、まるで木も花も喜んでいるみたい。
このクラスの花壇の花はどれも枯れかけていたのに。ほら、見て。どの花もすっくと立っている。
お日さまに向かって立っているんじゃなくて、まるであなたのために立ち上がったみたいに見えるわ。あなたが主人で、この花たちは忠実な犬みたい。

それは本当のことだった。どういうわけか、蔵馬が世話をする植物たちは、どれもこれも生き生きと成長した。

開け放した扉から、ゆるく春の風が通る。
遠くからでもわかる沈丁花の香りは、蔵馬にとって春の匂いだった。

同じ働くのでも、自分が自営業にこだわった理由を蔵馬は分かっている。
自分の店、自分の商売。

一分でも一秒でも長く、飛影と一緒にいたかった。
ここなら、飛影が気兼ねなく来ることができる。
店を手伝ってくれてもいいし、手伝わなくてもいい。

ただそばにいてくれるだけでいい。
蔵馬にとって、飛影はそういう存在だ。

水筒の蓋を開けようと、弁当を木材の上に下ろすと、弁当箱とナフキンの間から小さな紙がひらりと舞った。
何やらメモ用紙のような物らしいが、文字は見当たらない。
お仕事頑張ってね、でもなく、早く帰ってきて、でもなく、弁当作ってやったぞ感謝しろ、ですらない。

小さな紙はまったくの白紙で、何かを書きかけてためらい、そのままなんとなく包みこまれた、ように見える。

何か言いたげな顔をして自分を見上げていた飛影。
何も書いていない、小さく真っ白な紙。

「…飛影って、変」

呆れたように、それでいて溢れんばかりの愛おしさも含んだ言葉が弁当と沈丁花の香りにまざる。
くすくす笑いながら、水筒から香ばしいほうじ茶を蔵馬はひとくち飲む。

あたたかさが喉をすべり、胸にしみ込む。

変な子で、変な娘で、今は変な妻になった人。
ヘンテコで、気難しくて、変わり者で、とてもとても、愛しい人。

「コッペパン、買って帰らなくっちゃ」

食べ始めた時と同じように、子供のようにごちそうさまでした、ときちんと声に出し、蔵馬は綺麗に食べ終えた弁当箱に蓋をする。
別の用途で積み上げてあった木材の上に置いた、ナポリタンのパックが蒸気に曇っているのが、ビニール袋越しに見える。

小さく真っ白な紙にそっとキスをし、ポケットに差し込むと、蔵馬は立ち上がった。


...End