Better half二人の郷里の辛い酒は、いつものように冷酒で用意されている。鮮やかな色を見せる刺身と、品良く盛られた煮物の鉢。 春の訪れを願って着るかのような、桃色の着物。 カウンター席。氷菜の隣に腰を下ろすと優雅な仕草でガラスの杯を満たし、泪は微笑んだ。 閉店後の店は静かに暖かく、オレンジ色の間接照明がやわらかい。 「それで?」 泪は手酌で満たした杯をきゅっと干し、丸みを帯びた杯の中、ガラスの青を映した液体を見つめたままの友に向けてまた微笑む。 「どうだったの?」 氷菜を見つめるその視線は、友人でもあり、妹でも姉でもあるような、そんな愛情をどこか感じる。 黙ったまま、泪の着物の色にも似ている甘海老に山葵をのせると、わずかな醤油とともに氷菜は口に運ぶ。 じんわりと甘い身を辛い酒で流し込み、氷菜は途方に暮れたように泪の目を見つめ返した。 ***
鏡に映った自分を、氷菜はしげしげと眺めた。四十をとうに越したにしてはスタイルも良く、高級な化粧品の賜物か、顔も若々しい。 こういう時に何を着ていったらいいのだろうかと、クローゼットの中の膨大な服に目を走らせ、パウダーブルーのジャケットとパンツに、白い絹のインナーを合わせてみる。アクセサリーは、イタリアのデザイナーの作品だというシンプルだがモダンなシルバーのブレスレットを一つだけ着けた。 高級なスーツ。長身。細身。前衛的だが悪趣味ではないアクセサリー。 悪くはないが、いわゆる“キャリアウーマン”という口に出すのも気恥ずかしい言葉そのものに見える自分に、氷菜はしかめっ面をした。 いつかこういう日がくるのだろうとは漠然と考えてはいたが、かといってこれほど早くに来るとは予想外だった。 青天の霹靂、まさにそれだ。 愛娘の白い手、左手の薬指に光っていたシンプルな金のリング。 氷菜は今日何度目になるかわからないため息をつき、口紅を引いた。 ***
ホテルのラウンジは八割方の入りといったところか。外国人も多く、異国の言葉も多く聞こえる。待ち合わせは二時。腕時計が指す時間が一時半であることを確認し、いつものようにアイスコーヒーを注文し、氷菜は長い足を組んだ。 一昨日の爆弾発言…としか言い様はない…を思い出す。 結婚する。 口数の少ない方の娘がぽつりと告げた言葉は、たったそれだけだった。 パソコンから顔を上げた氷菜は瞬き、何かの冗談なのかと問おうとした矢先に、そのシンプルな指輪を見つけた。 左手の薬指。 金でできた、そっけないほどシンプルなリング。 「……何言ってるの」 「結婚する」 「冗談でしょ?」 返事をしない飛影から、雪菜へと視線を移す。 そこに驚きはなく、事前にこの情報を雪菜が得ていたことが氷菜にはわかる。 思わず、飛影の平坦な腹部に目がいく。 「…妊娠したの?」 飛影は驚いたように目を見開き、まさか、と小さく笑う。 隣で雪菜も、同じように苦笑した。 「どういうこと?誰と?あなたはまだ学生じゃない。これから大学だって行くんだし」 思わず畳みかけるような口調になってしまう。 妊娠したのではないかという疑いも、氷菜はまだ捨てきれない。 「わかってる」 穏やかな、声。 落ち着いたその声に、氷菜は混乱する。 「今すぐでなくてもいい。ただ、もう決めたことだ」 ぶっきらぼうなのに誠実、としか表現できない口調で飛影は告げると、ダイニングルームを出て行ってしまう。 「ちょっと、待ちなさい!飛影!!」 部屋に残ったもう一人の娘は、まだ寒い三月だというのに、氷の入ったグラスに盛大に泡を立てながらサイダーを注ぐ。 「ママも飲む?」 「それどころじゃないわよ!どういうこと!? あなたは知ってたの?」 「昨日、聞いた」 雪菜は肩をすくめ、サイダーをビールか何かのように豪快に飲む。 「やっぱり…妊娠してるのね?」 「違うってば。そうじゃないよ。望んでもいない妊娠をさせるような人じゃないし」 「じゃあ何だっていうのよ。相手は誰よ?」 「彼氏。中学から付き合ってる」 記憶の奥底から引っ張り出した顔。 女の子のような綺麗な顔をし、モデルのようなスタイルをした少年を氷菜は思い出す。 「あの、髪の長い男の子…?」 「あれ?知ってるの?」 「知ってるかどうかなんてどうでもいいわよ。学生同士で結婚?妊娠したわけでもないのに結婚?どういうことなのよ?なんなの?あなたは一体これをどう思うの?」 氷菜の矢継ぎ早な問いかけに、困ったように雪菜は肩をすくめた。 「…遅かれ早かれ、って感じかな」 「遅かれ早かれ?」 「どっちみち、飛影はあの人と一緒になると思うよ」 「じゃあどうして、こんなに早かれにする必要があるわけ!?」 「ママが許さないって言えば、飛影は卒業まで待つと思う。でも」 それはただの先延ばしだから。 今じゃなくても、いつか絶対に。 「…飛影は蔵馬さんと結婚するよ。例え結婚という形式をとらなかったとしても。ずっと一緒にいる人なの」 飛影は蔵馬さんのものだし、蔵馬さんは飛影のものだから。 だから、しょうがないよ、ママ。 「一緒に生きていく人を、早く見つける人もいるし遅く見つける人もいる。一生見つけられない人も、見つけたと思ったら間違いだった人もいるんじゃない?でも飛影はもう見つけちゃったんだもん。間違ってない相手を」 しょうがないよ。 少しさびしそうに、雪菜は呟いた。 ***
全く意味がわからない。一体全体、何がどうしょうがない、なのか。しょうがないで済む問題じゃない。憤りのまま、氷菜は運ばれてきたアイスコーヒーに手を伸ばす。 雪菜からの情報を、氷菜は整理する。 相手の電話番号も、もちろん雪菜から聞き出しておいた。そして飛影には秘密で相手を呼び出したというわけだ。 相手は高卒で、花屋を開業するという。 雪菜いわく、東大に行けるくらい頭はいいが、大学には行かないのだと言う。 コーヒーは、ひどく苦い。 大学には行かずに開業。 それは何か、今流行の学校に価値は見いだせず起業する手合いなのだろうか。だがその手の若者は大抵ITやらなんやらの分野だろう。花屋とはこれまたアンティークな職業だ。 自営業、それは娘を持つ母親としては大いなるマイナスポイントだ。安定していないし、伴侶に苦労をさせる割合も高い。 古くさい、と雪菜なら笑うだろうし、氷菜自身、自分がそんな古くさい思考の持ち主だと考えたこともなかったのに。 グラスの中の氷を見つめたまま、氷菜はしばし考え込む。 口では、あるいは仕事では、男に頼る人生などつまらない、女性の自立だのキャリアだの言っておきながら、やはり自分の娘には穏やかに楽に生きて欲しいと望むのだろうか? 違う、と思う。 例えば雪菜だったら、社会の荒波に揉まれて欲しい。そしてそこで勝ち抜いて欲しいし、勝ち抜けるだろうと思える。 自分もそうしてきた。がむしゃらに働き、そこそこ成功したといえるだろう。夫もなく二人の子を育て、郊外とはいえ都内に一軒家を建てることができるくらいには。 では、飛影は? 氷菜はまたもやため息をつく。 これが難しい。 あの子はいい子だ、と氷菜は考える。本当にいい子ではあるのだが、どうも社会に出て同僚と上司と、あるいは取引先と上手くやっていけるような気がしない。取引先と談笑する姿も、同僚と楽しくランチタイムを過ごす姿も想像がつかない。キャリアウーマン的な人間になるとも思えないし、かといってパートタイムで主婦仲間と上司や夫のたわいない悪口に花を咲かせるとも思えない。 花屋?愛想良くお客に応対する?あの子が?とても想像がつかない。 ものすごい田舎の山奥で、日本に唯一残っている伝統工芸かなんかの職人の弟子にでもなる、うん、これは少しだけ想像がつく、などと氷菜は自分の馬鹿馬鹿しい考えに天井を仰ぐ。 弱いというのとは違うが、雪菜のようにひょいと世の中を渡っていけるようには思えないのだ。 つまり、不器用。 ある種の柔軟さ、というものが社会で働くには不可欠だ。 強く硬いガラスは、風にも水にも負けないようでいて、いざ砕けた時には粉々になってしまう。 となると、飛影を家に置いておける人、つまり専業主婦にしてくれるだけの財力のある夫が望ましい。 そして専業主婦をさせてやるからといって爪に火を灯すようなカツカツの生活を強いるのではなく、豊かとはいえなくとも、穏やかに過ごせるくらいのお金を稼ぎ、子供を持つのならば学費に四苦八苦するようなことのない、今どきそうそういない甲斐性のある男。 自立していない女には価値がないかのような雑誌の編集の仕事しているというのに、まったく勝手な願いだ。 泪に知れたら間違いなく怒られるだろう。 お金?それは大丈夫だよ、とあっけらかんと雪菜は昨夜言った。 「大丈夫じゃないわよ。今どき高卒なんて。十八やそこらで開業なんて」 「うーーん。説明しにくいんだけど、大丈夫。蔵馬さんは多分お金は結構稼げると思う。少なくても飛影をお金で困らせたりはしないよ」 「何を根拠に」 「根拠はないけど、確信はあるの」 大丈夫だってば。そこは心配いらないよ、ママ。 氷をかじりながら、そんなのんきなこと言う雪菜にさえ腹が立った。 ほとんど空になったグラスを見下ろし、煙草が吸いたいと氷菜は考え、それに自分でも驚いた。 ホテルのラウンジはもちろん禁煙だが、そもそも煙草をやめて十九年になる。 生きることが権利ではなく使命になったあの日から、きっぱりと断った悪習だったというのに。 視界をかすめた白いシャツに、氷菜は顔を上げる。 二年ほど前に一瞬見ただけだった少年だが、すぐにわかった。 入り口で声をかけたスタッフににこやかに何かを告げ、ラウンジを見渡した少年はすぐに氷菜を見つけ、微笑んだ。 ジーンズと白いシャツという姿だが、一応気を使っているのか長い髪は束ね、紺色のジャケットを羽織っている。 「こんにちは。初めまして」 名を名乗り、少年は向かいに座る。 ウェイターに紅茶を注文し氷菜に向き直ると、驚きました、と言う。 「何に?」 「雪菜ちゃ…雪菜さんに本当にそっくりで。お写真は何度か拝見していたんですけど」 「そうね。あなたは驚いたかもしれないけど、驚き度合いからすると一昨日の私には負けるでしょうね」 皮肉を言うと、氷菜は二杯目のアイスコーヒーを注文した。 「単刀直入に聞くけど、どういうことなの?あなたがうちの子と付き合うのは構わないけど、どうして今、結婚しようなんて思うの?」 目をそらすでも、照れ笑いするでもなく、蔵馬は真っすぐ氷菜を見た。 「反対ですか?」 「当たり前じゃない。飛影は学生だし、あなたは商売を始めるところだって言う。賛成の要素がどこにあるの」 「そうですね」 誰の会話も聞いていないような顔をし、慣れた手つきでウェイターは運んできた紅茶を注ぐ。二人の間に湯気が流れた。 蔵馬は紅茶のカップを取る。 どう考えても値段の高すぎる老舗ホテルの紅茶は、値段に見合わぬ薄っぺらい色をしていた。 「人生って、ちょろいと思ってたんです、俺」 眉を上げて続きを促した氷菜に、蔵馬は静かに話し出した。 父は早くに亡くなって、母子家庭だったんですけどね。それなりに苦労はありました。でも、たいしたことはなかった。だいたいのことは簡単にこなして生きてきたんです。例えばそれは家族との関係だったり、人付き合いだったり、家事だったり勉強だったり、ですけど。あるいはきっと仕事もですね。 「このまま何もかも簡単に手に入っていくんだろうと思って、退屈して生きてきました」 綺麗な少年が、華奢なカップの紅茶に視線を落とす。 ホテルのラウンジは柱も天井も古びてはいるが磨き込まれた飴色で、その豪奢な背景を背にした少年は、雑誌の洒落た一ページのようだった。 「けれど…手に入れたい、どうしても手に入れなきゃならない、って思えるものを、五年前に見つけたんです」 「うちの娘は物じゃないのよ」 「もちろん。そんな意味じゃなくて……月並みに聞こえることはわかってます。若気の至りみたいな馬鹿げた言葉に聞こえることも。けれど飛影……さんは、あなたの娘は」 続く言葉を予期して、氷菜は目を閉じた。 「運命の人なんです。会った時にはもう、わかっていた」 しばしの沈黙に、異国の言葉が被さる。 なめらかで、心地よくて、無意味に通り過ぎる音楽のように。 「だから…」 蔵馬はくっきりとした笑みを浮かべる。 「今じゃなくてもいいんです。ただ俺たちはその約束を今、したんです」 氷菜は目を閉じたまま、無言でいた。 「ご心配はごもっともです。許可も得ず勝手に籍を入れるようなことはしないと約束します。飛影が大学を卒業する四年後までに、商売を軌道に乗せていることも約束します」 ゆっくりと目を開け、氷菜は蔵馬を見つめた。 「花屋をやるんですって?」 「ええ。商売は始めるところですけど、稼げると思います。煙草は吸いません。酒も日常的には飲みません」 「煙草やお酒が、何の関係があるの?」 「男性の方が普通は先に死にますから。でも俺は必ず長生きします」 「…長生き?あなたが長生きすることに、どういう意味があるのよ」 カップに二杯目の紅茶を蔵馬は自分で注ぐ。 氷菜はふと、こういう場で男が紅茶を選ぶのはめずらしいことだと気付き、次の瞬間、それが自分の娘の影響なのだと気付く。 「長生きします。一生ずっと、側にいます」 「ずっと…?」 「縁起でもないこと言うなって怒られちゃいそうですけど。約束したんです」 飛影が死ぬ時には、俺は必ず側にいます。 この先ずっと、飛影を一人にするようなことは絶対にしません。 「絶対に、一人にはしません。側にいることを、許してもらえますか?」 二杯目のアイスコーヒーは、溶けた氷と褐色とで二層になっている。 黒いストローで、氷菜はゆっくりとそれをかき回す。 「…………そんなの…約束したって、わからないじゃない」 何も悪いことをしていなくたって、病気に罹ることはある。事故に遭って死ぬことだってある。 そんなの、誰も約束なんてできないはずよ。それを今、できるって断言するならあなたは嘘つきよ。 子供のように、氷菜は呟く。 でも、もうわかっていた。 目の前の少年が、本気だということを。 そして自分の目でそれを確かめることはできないとしても、その約束を必ず守ることも。 「…究極ね。それって…究極の約束だわ」 普段は入れないシロップを、氷菜は二杯目のアイスコーヒーにたっぷりと落とす。 黙ったまま、けれど蔵馬の視線は氷菜から離れない。 「…いつか私は、あの子たちより先に死ぬわ。その時に」 その時は、あなたはあの子の側に、いてくれるのね? 私が死んだ時には、あの子を抱きしめていてくれるのね? あの子が死ぬ時も…あなたは側にいるって、あの子の手を握ってるって、誓えるのね? 「あの子を絶対に一人にはしないって、私に今、誓えるのね?」 いつもの間にか、大人と子供の会話ではなくなっている。 魔法は本当にあると信じる子供のようにひたむきな熱さで、氷菜は蔵馬を見つめた。 蔵馬はそっと手を伸ばすと、二人の娘と同じ、白い手の甲にそっと手を重ねた。 あたたかく、乾いた手のひら。 指の長い、大きな手のひら。 「誓います」 全身を震わせて息を吐き、氷菜はグラスに直に口を付けて氷を頬張ると、勢い良く噛み砕いた。 ***
カラフェから、何杯目かの辛い酒が注がれる。鉢から煮物を取り分けると、泪はそっと氷菜の前に置いた。 「まあ、これがことの顛末ってわけ。冗談はよしてって引導を渡すつもりだったのに。さあどうぞ。叱って」 「叱ることなんて、ないけど?」 炊いた里芋に箸を沈めながら、氷菜は情けなさそうに唇をかむ。 「こんなのってありなの?私、間違ってない?」 氷菜の頭に腕をまわすと、泪はくしゃりと髪を撫でる。 「間違ってないわ」 優しい顔とは裏腹の、きっぱりとしたその言葉に、氷菜は安堵とも失望ともつかない顔をする。 仕事をしながら双子を、それも片親で育てるのは容易なことではなかった。それをずっと支えてきてくれたのは泪だった。ある意味では二人の娘は、氷菜と泪、二人の子供のようなものだった。 「…間違ってるって言ってよ」 「間違ってないわ」 「泪が間違ってるって言ってくれたら、今すぐ撤回しに行くのに。飛影を取り返すのに」 「間違ってないわ。例え私がどう言おうと、間違っていない。あなたには本当はわかっているでしょう?」 「わかってるけど」 悔しいし、さびしいの。飛影をとられちゃうなんて。 どうしたらいいのよ? 今度はふくれっ面をする氷菜に、泪は笑う。 しょうがないわねえ、と笑う。 杯が満たされ、また干される。 二人はしばし、小さな水面に目を落とす。 「…そうだ。泪、あのね。そういえばその子、変なこと言ったの」 後年それを尋ねると、娘婿はぽかんとし、俺、あの時そんなこと言いました?憶えがないんですけど、と首を傾げたその言葉。 ***
アイスコーヒー二杯と紅茶で四千二百円という代金を支払った氷菜に、蔵馬は礼を言うと、去り際に振り向いた。「氷菜さんも、どうか長生きしてください」 人をババアみたいに言わないで、まだ死なないわよ、と氷菜が眉をしかめると、蔵馬はころころと笑い、ふと真面目な顔をした。 「本当に長生きしてくださいね。…今度こそ」 え?と氷菜が振り向いた時には、蔵馬は会釈を残して地下鉄の入り口へと歩き出していた。 「今度こそ…?」 パウダーブルーのジャケットを、春一番が掠めていった。 ...End. |