ひとひら

「…彼に、そう言ってやればいいのに」

凍矢は小さく笑うと、深いオレンジ色の薔薇の茎を、長さを揃えて切る。
よく切れる銀色のはさみは、凍矢の氷のような髪に似合っていた。

たくさんのバケツ。たくさんの花。
部屋は、とても寒かった。
***
十二月。
蔵馬の店は繁盛していて、ひどく忙しかった。

元々十二月は花屋のかき入れ時だそうだし、四月にオープンしたばかりにしては、店は順調に客足をのばしている、らしい。
その上、氷菜が自分の編集する雑誌の撮影に蔵馬のアレンジした花を使ったために、さまざまな店や会社から花の注文が舞い込んでくるようになり、店の売り上げは何倍にもなった、らしい。
俺には経営だの売上だのはよくわからんが、蔵馬の作る花束は確かに綺麗で、どういうわけか、えらく長持ちする。

師走になってからというもの、蔵馬は休日なしで働いていた。十二月に花を買う人間がこれほどいるということに、花なんか買ったこともない俺は驚いたが、クリスマスリースだ、花束だ、パーティだと、花は飛ぶように売れていた。

家にいたって、蔵馬も氷菜も遅くまで帰ってこないし、雪菜はどこか遊びに行ってばかりいる。必然的に、放課後や土日は、俺は蔵馬の店に手伝いに通うようになった。
客の相手は苦手だが、花を切ったり、蔵馬の指示通りに揃えたりすることぐらいは、俺にもできる。

「ごめんね、こんな寒い所で」

差し出されたのは、温かいペットボトルのコーヒーと紅茶。
客の相手をし、注文通りの花束を作る合間合間に蔵馬は奥へ来て、申し訳なさそうに俺と凍矢に言う。女の子たちにこんな寒い場所でごめんねと。

花に合わせた温度にするために、店の奥にあるこの部屋には暖房がついていない。もちろん外よりはマシだし、風も当たらないが、寒いことには変わりない。
寒さに強い凍矢でさえセーターを着ているし、俺ときたら二枚重ねたセーターの上に、マフラーもぐるぐるに巻いている。

紅茶を受け取る瞬間に、蔵馬は俺の頬に触れ、冷たい、と苦笑する。
触るな、と怒る間もなく、蔵馬は出ていってしまう。

「ごめんね」

もう一度そう言うと、蔵馬は店に戻ってしまった。
***
隣の部屋、客のためにほんのすこし暖かくしてある所に、蔵馬はいる。
壁越しに、扉の小さな窓越しに、俺は蔵馬の気配を味わう。

ー蔵馬が勤め人なんかじゃなくて、よかった。
ー普通の会社というものに勤めているやつだったら、どんなに十二月が忙しかったとしても、こんなふうにそばにいることはできないから。

俺がさっき、ぽつりと凍矢にこぼした言葉。

「…彼に、そう言ってやればいいのに」

凍矢は笑うが、もちろん蔵馬にそんなことを言うなど俺にはできない。
できるわけがない。

それじゃあまるで、俺が蔵馬にベタボレみたいじゃないか。

「お前は相変わらず、不器用だな」

たまには言ってやったらどうだ?きっと喜ぶぞ。
クリスマスなんだしさ。物を贈るより、よっぽどいいんじゃないか?

喋りながらも、凍矢は無駄のない動きで、花をととのえる。
蔵馬が凍矢に払う時給は悪くはないが、花屋は意外に肉体労働だ。水は冷たいし、花は重たい。手はあっという間にがさがさになってしまう。

手伝いに来るかと声をかけると、今でも同じ学校に通う凍矢は二つ返事で引き受けてくれた。
雪菜には、即、断られたが。

木の扉の小さな窓から、店の中が見える。

明るい店の中は花で溢れていて、その中心に、蔵馬がいた。
次々訪れる客に笑みを振りまき、手際よく注文通りの花をまとめる。

たくさんの花と、クリスマスだからと吊るしたいくつかのランプ。

蔵馬は、笑っていた。
作り笑いだとわかっていても、俺はその笑い声さえも、深く吸い込んだ。
***

「本当に、送らなくていいの?一緒にご飯食べてかない?」

仕事が片付いたのは十時過ぎで、家まで送るよと申し出た蔵馬に、凍矢は笑って手を振った。

「陣が、近くまで迎えに来てるんだ」

陣は、凍矢が大学に入ってから付き合い始めた恋人で、いかにも地方出身者らしい訛りのある言葉を使う、さっぱりとした気のいい男だ。
結局、陣と待ち合わせているという店まで凍矢を送り、俺と蔵馬は、店へと戻る道を歩く。

街はクリスマス前のざわめきに満ちていて、こんな時間だというのに人は少しも減っていないように見える。
さまざまな店のショーウィンドウや、街路樹にくくられた電球のせいで、夜遅い時間だということさえ実感できない。

「ごめんね、クリスマスなのに手伝わせちゃって」

今日何度目になるのだろうか。
蔵馬はまた、ごめんねと言う。

「今月は全然休めないし。一月も忙しそうだよ」

クリスマスプレゼントもまだ買ってないし。時間できたら、一緒に買いに行こうか。
十二月がこんなに忙しいって知ってれば、もっと早く買いに行ったのにな。

上手く人並みを避けながら、蔵馬は俺と並んで歩く。
本当は、蔵馬は俺と手をつなぎたい、と思っている、はず。
人混みで手を繋ぐのは歩きにくいから嫌いだと、常々俺は宣言している。

俺はただ黙ったまま、蔵馬の隣を歩き、街を眺める。

…汚い街だ。

観光地でもない、ごく普通の都会の風景はありふれた汚さで、そこらじゅうに人があふれ、派手な看板やネオンに邪魔され、イルミネーションでさえくすんで見える。

けれど。俺の隣には

「帰って軽く何か作ろうか?それとも食べてっちゃう?」
「……」
「牛丼とか、ラーメンになっちゃうけど。ファミレスも混んでるしなあ」
「…なんでもいい」

なぜ、申し訳なさそうに言うのだろうか。
俺はそんなことを気にしたりはしないのに。

店の裏手にとめてある赤い車に乗り込み、蔵馬がエンジンをかける。店の外に停めてあった車はひんやりしていて、座っているだけで体温を奪われるようだった。
表通りだってさして綺麗なものでもないが、裏通りに面した駐車場の風景はいっそう殺風景で、古ぼけているのに派手さは失わない、スナックの看板がチカチカしていた。

「二月になったら旅行でも行こうか。雪の綺麗な所がいいな。またあのホテルに行こうよ」

チカチカするたびに色を変える光の照らす車の中で、俺は雪を思い出す。
胸を刺すような冷たい空気や、何もかもを丸く包み込んで白一色の世界に変えてしまう、雪を。
雪に閉ざされた空間にいることで得る、奇妙な安らぎを。

「飛影?疲れちゃった?」
「疲れてなど、いない」

二年前、雪に包まれたあの部屋で、俺が言った言葉を蔵馬は憶えているだろうか。

雪も、暖炉も、美味い夕食も、なくてもいい。
お前が俺の側にいるなら、それで、いい。

俺がそう言ったことを、蔵馬は憶えているだろうか。

あの日の気持ちは、今も少しも変わらない。
一人で、あるいは他の者とあの雪景色を見たところで、幸福にはなれない。

俺の、幸福は、どこか遠くじゃなく

「雪も、暖炉も、美味い夕食も、なくてもいい」

その言葉は、俺の口からではなく、蔵馬の口から飛び出した。
俺は驚いて、運転席の蔵馬を振り返る。

「お前が俺の側にいるなら、それで、いい」

そう続けると、蔵馬は微笑んだ。
さっきまで客に見せていた笑顔とは、まるで違う笑みで。

俺だけに見せる、本物の笑顔で。

「飛影…今も、そう思ってくれている?」
「……憶えて…たのか?」

俺のかさついた左手を取り、薬指の上に、蔵馬は唇を落とす。
蔵馬とお揃いの、金色の輪の上に。

「君がくれた言葉は全部、ここに。ひとつ残らず」

そう言って、自分の頭ではなく、胸を蔵馬は指す。

「…しまってあるから」

頬が、頭が、熱い。
ようやくきき始めた車の暖房のせいだと思いたかったが、胸の中で跳ねる音は、どんどん早くなる。

キスを受け止め、長い髪をかきあげる。
蔵馬の体からは、店の中にあふれていた、たくさんの花たちのにおいがした。

「…続きは、家に帰ってからにしよう」

絡め合っていた舌がはなれた音に、俺は思わず赤面する。
裏通りとはいえ人通りはかなりある。こんな所で夢中になって、俺は何をしているんだか。

慌ててシートベルトをしめ、俺は窓の外を向く。

「帰りましょう。俺たちの家に」

なめらかに車は走り出し、駐車場から車道へと出る。
右手で運転をしている蔵馬の左手は、俺の右手を握ったままだ。

車の中では、歩きにくいとか、人目につくとか、そんな言い訳はいらなくて、俺はあたたかな手のひらを思うまま楽しむことができる。

冷たく曇る窓を、空いた方の手で俺はキュッと拭った。

ひとひらの雪が舞ったように見えたのは、多分気のせいだろう。


...Merry Christmas...


...End