愛妻表の喧騒を厚い木の扉で締め出した、閉店後の店は静かだった。ごく小さなボリュームで流れている音楽は、今夜はジョージウィンストンの軽やかなピアノだ。 花をラッピングするための大きな木のテーブルに腰かけ、飛影は足をぶらぶらさせながら、片付けをする蔵馬をぼんやり眺めていた。 クリスマスに妹から貰った暖かそうなモコモコのブーツを履いた、床には届かない足がぶらぶらしているのは最高にかわいい、なんて夫が考えているとも知らずに。 「よし、後はゴミだけ出したら帰ろうか」 その言葉に飛影もぴょんとテーブルを降り、自分のかたわらにあったゴミ箱を持ち上げ… 「これはなんだ?」 丸められたままゴミ箱から突き出しているものは、どうやらポスターのようだ。 引っ張り出したそのポスターには、真っ赤な文字とロゴマークで、『1月31日は愛妻の日!お花を買って家に帰ろう!』という言葉の下に、スーツ姿のサラリーマンが、玄関でエプロン姿で出迎えた妻に花束を渡すという、なんだかずいぶん古くさい写真があった。 「愛妻の日…?」 「ああ、それね。問屋さんから貰ったんだ」 「あいさい?」 「アルファベットのiと31にかけたみたいだね」 「…くだらん」 「まあねえ。でも」 花業界としてはイベントとして定着させたいらしいよ。 なんせお正月すぎるとホワイトデーまで売り上げが落ち込むから。 「ま、このご時世だからね。商売商売」 そう言いつつも、蔵馬の店にはこのポスターは貼られていない。 もっとも、ポスターの類いは何一つこの店にはない。壁を飾るのはガラスのランプと、蔵馬手製のドライフラワーだけだ。 飛影はもう一度チラリとポスターを眺め、日付が明日であることに気付く。 「この店には貼らないのか?」 ゴミ袋の口をきゅっと縛り、蔵馬は苦笑する。 この店は、閑散期の今でさえ、十分に繁盛しているのだ。 「いりませんよ。店のインテリアに合わないし。それに…」 「それに?」 赤い薔薇の入ったブリキのバケツから取り出した一本を、蔵馬は差し出す。 飛びきりの笑みを浮かべて。 「愛妻の日、でしょう?」 俺にとっても、愛妻の日だもの。 余計なお客さんを増やさずに、俺は俺の愛妻と、夜を過ごしたいんです。 「……愛妻?…何言ってるんだお前」 「だって、貴方は俺の愛している妻ですよ」 「……っ!…バカ言ってないでとっとと帰るぞ!」 これまたモコモコのマフラーに埋めた顔は、ほんのり赤い。 「待ってよ、飛影」 「腹が減った。帰る!」 扉にかけた手に、蔵馬の手が重なる。 「はい」 差し出された、赤い薔薇。 その花言葉を、もう何度聞かされたことだろうか。 マフラーに顔を埋めたまま、飛影は薔薇を受け取った。 「車出してくるね」 「…明日、客が殺到したらざまあみろだ」 「えー。そしたらヘルプに呼びますからね」 「フン。誰が来るか」 「嘘。あなたは結局優しいもの。来てくれるよ」 「…っるさい!さっさと行け!」 他愛ない睦言を浴びながら、 愛され妻の手の中で、赤い薔薇は輝いていた。 ...End |