one for me

それは飛影にとって毎年巡ってくるただの“恋人の誕生日”のつもりだったし、泊まりに来て欲しいという願いに応え、友人の家に泊まると嘘をつき出てきたわけだし、ねだられて作った夕食は湯豆腐と鮭と茸のホイル焼きと空心菜の炒め物に千枚漬、というムードがあるとは言い難いもので、だから青天の霹靂、だったのだ。

今夜の夕食のメニューには似合わない、でも誕生日なのだからと用意した、苺のケーキ。
ケーキ用の細いナイフを握ったまま、飛影はぽかんと口を開けた。

「結婚してください」
***
「…………は?」

ツンと尖った生クリームの上で寸止めされたナイフ。
湯豆腐に使ったポン酢に浮いた、柚子の香りがあたりには残っている。

テーブルの足元の、細いリボンのかけられた紙袋の中身は雪菜と一緒に古着屋で選んだアンティークのジーンズだ。

そんな、ささやかな、でも幸福な一日のはずだったのに。
突如発せられたその言葉に、飛影は固まったまま、大きな目をより大きくして、蔵馬を見つめている。

「…け、っ…こん?」

血痕、などという文字も一瞬頭をかすめていった飛影だったが、いくらなんでもそれはないと、とりあえずナイフを皿に置いた。

「何言ってんだ…お前…」

誕生日らしからぬ夕食のお供は烏龍茶だった。酔っ払ってるはずもない。

「何って。俺、今日で十八歳になったんですよ」
「それは…わかってるが…」

だからこうして母親に嘘をついて泊りに来て、請われるままに夕食も作ったのだ。

「ちょ、待て。急になんなんだ?」
「俺はずっと考えてましたよ。十八歳になったらあなたと結婚したいって」
「な、え、いや、お、おかしいだろ…?」

すっかり慌てふためき、飛影は立ち上がる。

「バカ言うな。が、学校とか、あるんだぞ」

四月から、飛影は雪菜と同じ女子大に進学することが決まっている。
自分はもう学校に行く意味がないと、蔵馬は大学受験はしていない。花屋になると決め、開業の準備を進めていた。

「もちろん、飛影は学校に行けばいいよ。結婚してちゃ学校に行けないなんてことはないんだから」
「そっ、それはそう…だが…でも…氷菜がそんなこと…雪菜だって…」

いつもの強気でぶっきらぼうな飛影はいない。思いがけないジャブに、受け身も取れずにただ困惑している。
だって、だの、でも、だの。ふだんの飛影はあまり口にすることはない言葉が並ぶ。

「み、未成年だろうが…!」
「それは知ってますよ。でも、この国では女性は十六歳で、男性は十八歳で結婚できるんですよ?」
「待て待て待て!なんでそんな急に…」

テーブルを離れようとした飛影の手を、蔵馬は取る。

「飛影」

深くて甘い、その声。
その声で名を呼ばれると、飛影はいつだって動けなくなってしまう。

「もちろん、わかってるよ。氷菜さんがとか、学校が、とかは。ただ」

左手の甲に、蔵馬は唇を落とす。

「俺は、君の返事が欲しいんだよ、飛影」

書類上の決め事なんて今じゃなくても、いいんだ。何年先でも構わない。
ただ、君の気持ちは今聞きたい。それだけ。

「愛してます。飛影。一生…」

どうか一生、あなたのそばに、いさせてください。

握られた手。
真っ直ぐ注がれる視線。

目を逸らすこともできずに、飛影は小さく震える。

「俺…は…」

微笑んだ蔵馬が、一瞬手を緩めた隙に。

「飛影?」

飛影は素早い。
さっと手を振りほどき、玄関へと走るとスニーカーを突っかけ、風のように外へ飛び出した。
***
「さむ…」

振り向きもせずに走り、気が付けば駅前の喧騒の中にいた。
暦の上では春とはいえ、まだまだ夜は冷える。上着も羽織らず飛び出してきた飛影は、夜風の冷たさに腕をさする。

どうしよう。
どうしたら、いい?

なぜ飛び出したのか、なぜ逃げ出したのか、自分でもよくわからない。
ただ、蔵馬の真剣な眼差しは、冗談を言っているわけではないことくらい飛影にもわかっている。

「…雪菜」

今誰かと話すのならば、雪菜だ。あるいは…泪?だが携帯はおろか財布も何も持ってない。腕時計をする習慣のない飛影には、今が何時なのかさえはっきりしない。

走る速度を落とし、辺りを見渡す。
古ぼけたビルと新しいビルがごちゃごちゃと並び、仕事帰りなのかこれから遊びに行くのかわからない、人々の群れ。見慣れた風景。人が多ければ多いほど孤独を感じる、人の波。

同じような建物の並ぶ通りに、淡いピンクの看板が光る。

「ばーさん……」

定期的に通っている婦人科の入っているビルだ。ずけずけとものを言う老医師の顔を、飛影は思い出す。

時計はないが、もう診療時間はとっくに終わっているだろうことはわかる。
けれど飛影は吸い寄せられるように、ビルへと入って行った。
いつものようにエレベーターではなく、階段を上る。

三階まで一気に駆け上がる。
曇りガラスのはめ込まれたドアには本日の診療は終了いたしました、と札があるが、ドアの奥には明かりがぼんやり見える。

ドアを押してみたが、しっかりと施錠されている。ガタガタと揺さぶってみたが、無論そんなことで開くはずもない。
ため息をついて後ろに一歩下がった飛影の耳に、足音が聞こえた。ドアを揺さぶる音が聞こえたのだろう。
だが曇りガラス越しに見える近づく長身のシルエットは、明らかに飛影の望んでいるものではない。

「…なんだ…お前か」
「なんだってことはないだろうが」

白衣のポケットに手を突っ込み、見下ろす男は苦笑している。

「どうした?具合が悪いのか?」

束ねていた髪を解き、ヨウコは中へと手招きする。
暖房の効いた待合室は、半分ほど消された明かりの中に、かすかな薬臭さを漂わせている。

「おい、どうしたんだ?」
「…別に。なんでもない」

こいつに話すようなことではない、と飛影は待合室の椅子に力なく腰を下ろす。
かと言って、よくよく考えれば幻海ばあさんだって、そんなことを話す筋ではない。向こうだって迷惑だろう。

急に自分のしていることがバカバカしくなり、飛影はのろのろと立ち上がる。

「邪魔したな」
「まあそう急ぐなって」

いつの間にやら私服に着替え、鍵を持ったヨウコが腕を取る。

「お茶ぐらい、いいだろ?」

強引な笑みに引っ張られるように、飛影は病院を出た。
***
「腹減ってないのか?」

酒もあればコーヒーもある。カフェ、というのかバーというのかよくわからない店で、ヨウコと向き合っている、この状況がまた飛影の混乱に拍車を掛ける。

俺はいったい、何をしてるんだ?

「…帰る」
「そりゃ構わんが。お前、鞄とかコートとかないのか?手ぶらでどうしたんだ?」
「お前に関係ないだろ…」

運ばれてきた紅茶のポット。
先にミルクを注ぎ、紅茶を注ぐという通ぶったやり方も、この男がやると嫌味には感じない。単に、いつもそうしているからそうしただけ、と周りの目にも映る。砂糖もたっぷり加え、優雅にかき回す。

「ほら」

なみなみと注がれた熱い紅茶のカップは、上着もなく出てきた飛影には、途方もなく魅力的だった。思わず手に取り、ゆっくりとひとくち飲む。
あたたかさと甘さが、胸のつかえを溶かしていくようだ。

「………結婚してくれって、言われた」

誰に、などとヨウコは聞き返さない。
何も言わずに眉を上げ、自分もティーカップを取った。

「それで?」
「それで………逃げてきた」

紅茶のやわらかで香り高い湯気が、飛影の頬を包む。

「嫌なら断ればいいだろう」

おかしそうに、ヨウコは言う。
ミルクも砂糖も入れない紅茶を優雅に飲みながら。

「嫌って…訳じゃ…ただ…急に言われて…今日が、蔵馬の十八歳の誕生日で…でも俺は…」

こいつに話してどうするというのか。
けれど、話さずにはいられなかった。

「で?何が問題なんだ?」

目線だけで注文したらしいチョコレートの皿が、飴色のテーブルにそっと置かれる。
差し出された皿から、おとなしくチョコレートを一粒取り、飛影は口にする。

「学生だからとか、親が当然反対するだろうとか、そういうことを除いたお前の気持ちは、どうなんだ?」

お前は嬉しかったのか?
嫌だったのか?

カフェの間接照明に、そう尋ねるヨウコは異国の人形のように綺麗だった。

「俺は…」

なぜ、俺は逃げたのだろう?
紅茶であたためられた胸の内で、飛影は考える。

あまりに急で、驚いたから?
十八歳で結婚するなんて、非現実的だから?
氷菜がそんなことを許すとは思えないから?

違う。
それは違う。それは理由のうちのささいなことで…。

「………俺は……ずっと蔵馬といていいのか?俺に、そんな価値が…権利が、あるのか?」

ようやく、答えが見つかった。

ただ一緒に過ごすだけでも、いつでも心の何処かに引け目はあって。
綺麗で、気が利いて、何もかもを人並み以上にこなす男。いや、人並み以上という言葉では、足りない。

何より、溢れるような優しさは、愛情は、抱えているグラスに注がれ続け溢れる澄んだ水を見つめているような。 そんな気持ちが飛影にはあった。

「価値?価値と言うならお前にその価値があると思ったから、あいつはプロポーズしたんだろ」

あっさり言って、ヨウコは続ける。

そんなこと気にするな。完璧なものが欲しいんじゃない。あいつはお前がお前だから、欲しいんだ。
何かを、誰かを好きになる時に、こいつは俺に相応しいかなんて考えるやつ、いないだろ。

「でも…」
「人生は望んでも望まなくても変化していく。お前も、年を取る」

いぶかしげな顔をする飛影に、ヨウコは淡々と聞かせる。

「大学へ行く、就職をする、働く、あるいは家事でもするか?お前の妹だっていつか別の人生を歩むだろう。人生にはいい事もあるし、同じくらい厄介事もあるだろう。その時」

お前のそばには誰がいる?
誰に、いて欲しい?
幸せなことも、不幸なことも、避けては通れない。その時に隣にいて欲しいのは、誰なんだ?

「………それは…」

カップを置き、飛影は顔を上げた。

「……蔵馬だ。俺は…蔵馬とずっと一緒にいたい」
「なら、答えは出てるだろ」

金箔で繊細に彩られたチョコレートを取り、ヨウコは飛影の口に押し込む。

「心配すんなって。飛影」

嫌になったら別れればいい。バツイチになったら俺がもらってやるよ。
ヨウコはニヤッと笑う。

「なんなら、コブがついててももらってやるさ」
「お前…頭おかしいだろ」
「普通こういうのは、口説かれたって受け止めるもんだぞ」

短い黒髪をくしゃりと乱す長い指から、ほのかにコロンが香った。

「ほら、行けよ。あいつのところへ、戻れ」
***
急ぐでもなく、けれどしっかりとした足取りで、一定の速度で飛影は向かう。
小さなマンションの玄関、ポストの並ぶ狭苦しいエントランスを背に、蔵馬は立っていた。

近づいてくる恋人を、真っ直ぐ見つめる、緑の瞳。

「…探しに来ないのか?薄情者」
「戻ってくるのを、待ちたかったんだ」

蔵馬も飛影と同じように、コートも羽織らない姿のままだ。

「蔵馬」
「…はい」

蔵馬の目の前、手を伸ばせば届く場所に飛影は立ち、蔵馬を見上げた。

「飛影」

伸ばされた手に、小さな手が包まれる。
飛影は黙ったまま、目はそらさない。

「もう一度、言います」

あなたを愛してます。
一生、あなたの側に、いさせてください。

「一日たりとも、あなたを一人には、絶対しませんから」

こいつはまた、俺に約束をする。
そして…叶えてくれる。

初めて聞いた言葉のはずなのに、飛影の胸によぎるのは、また、というおかしな思いだ。
以前にも、この約束を贈られたような、気がして。

持ち上げられた左手、誓いの指に、金色の輪が滑り落ち、ぴたりとおさまる。
冷えた体を、長い腕が抱きしめた。

「俺、長生きしますから」
「…普通、長生きしてくださいって、相手に言うもんじゃないのか」
「あなたももちろん長生きしてください。でも俺はもっと長生きしますから。あなたを看取るのは、俺だよ」

この後に続く言葉は飛影にはもうわかっていた。

その言葉も、知っていた。
遠い昔、思い出せないどこかで、確かに聞いた言葉。

「あなたを一人にはしない。あなたが死ぬ時は、俺は必ず側にいるよ」

赤い瞳からすうっと頬を伝い、
こぼれ落ちた、ひとしずく。

それが石にはならないことに、二人は同時に不思議になる。

「…約束だぞ。一生…側にいろ…」

囁きと言ってもいいような、声。

蔵馬のジーンズのポケットに、飛影は手を突っ込む。自分のはめた物より一回り大きな金色の輪を見つけると、蔵馬の手を取った。
同じように左手の薬指に輪を通し、飛影は大きな手のひらに頬をつける。

「約束を破ったら…殺すからな」
「…はい」

めいっぱい背伸びをした飛影は、そっと掠めるようなキスをする。

「浮気しても、殺すからな…」

小さく吹き出し、蔵馬は腕に力を込める。

「それも、約束します。あなたこそ、浮気しちゃだめですよ?」
「したら、どうする?殺すか?」
「殺しますよ。相手の男をね」

手をつないだ二人は、部屋へ戻ろうと歩き出す。

「あなたときたら、俺がどれだけあなたを好きか、まだわかってないんだから」

金属のドアノブにかけた手が、ふいに止められた。

「飛影?」
「わかってないのは…お前だ」

小柄な飛影が俯くと、蔵馬にはつやつやの黒髪しか見えなくなってしまう。

「お前が…俺を好きだと思う、何倍も」

屈んで覗き込んだ顔は、赤く染まっている。

「何倍も、俺の方がお前のこと、を……忘れるな…っ?? おい、なっ」

急に痛いほど抱きしめられ、持ち上げられた。

「飛影〜!!!!」
「うるっさい!近所迷惑だろ!!」
「だって!!」

夫婦となった恋人たちは、じゃれあいながらドアの向こうへ消えた。

胸に、心に刻んだ、約束とともに。


...End.