*彼の彼淡いオレンジ色と白とで塗り分けられた壁には、濃いオレンジ色でさまざまな動物の絵が描かれていた。初めて見た時には、愛らしい動物たちに慰められるような気がした。あれから二年以上経った今は、押しつけがましい悪趣味な絵にしか見えない。 色味を合わせたらしいオレンジがかった茶色の長椅子に腰掛け、心の中だけで、ため息をつく。 どこで間違ったのか。 何を間違ったのか。 子育てに間違いなどない、間違った子供などいないと、人はきっと私を叱るだろう。 だけどこれは、紛れもなく間違いだ。私は、子育てに失敗した。 病院の廊下はざわざわと落ち着かない。 隣に座る息子の手をそっと握ったが、手はびくりと強ばり、やんわりと解かれてしまう。 一番小さなサイズでもまったく体に合わず、特注で作った制服。 このあたりでは有名な進学校の制服だけれど、とても高校生には見えない。 私の子は、まるで小学生のようだ。 ギリギリ140センチあるかないかという身長、40キロにも満たない体重。どう贔屓目に見ても、中学生にさえ見えない。 高校生になった息子を、私は今も軽々と抱き上げることができる。 小さく細く、白い。 透き通るように青ざめた、私の子。 耳障りな子供の奇声が、どこからか聞こえる。 小児科のここではしょうがないことではあるが、本当にいらいらした。ひっぱたいて黙らせてやりたいという思いを、なんとか追い払う。 この病院の小児科は、十六歳までだ。 来年になれば、もうここに来ることさえできるのかどうかわからない。 この子が大人と同じ科に行くようになるなんて、想像もできない。 こんな、小さな子供が? 大人と同じように扱われる?そんなことは、とても考えられない。 「…お腹空いちゃった」 沈黙に耐えかねて、そんなことを呟いてみる。 いつものように、返事はない。 「ねえ、何か食べて帰らない?お蕎麦とか。ケーキとか甘いものでもいいわよ。飛影」 そんな誘いをかけたのも、何年ぶりだろう。 やっと振り向いた飛影は、首を小さく横に振る。 「腹は減ってない」 予想していた返事ではあるが、落胆した。 落胆を通り越し、腹が立った。 摂食障害。拒食症。 飛影がそれを発症したのは、学校に行き始めた中学一年生の時で、それ以来三年近い付き合いになる。 学校どころか遊びに出かけることすらなかったひきこもりの息子が学校に通うようになったことを喜んでいたのもつかの間、飛影はろくに食事をしなくなった。 学校がそれほど嫌なら、行かなくてもいい。だからお願い、ちゃんと食べてちょうだい。 何を言っても、何を聞いても、返ってくる言葉は、腹は減ってない、食欲がない、そればかりだ。 食べ終えるまで自分の部屋へ戻ることは許さない。そんな強硬手段をとったこともあったが、無駄なことだった。 飛影は並べられた食事を苦行のように半分ほど食べたところで、体を二つに折り、テーブルの上に嘔吐した。 普通は女の子に多い病気なんですけどね。 まあ、お母さんがカリカリしちゃあだめですよ。子供を追いつめないこと。気長にね。 定期的な診察で毎度変わらぬ医者の言葉も、虚しいだけだった。 結局、医者に治せるものは、体だけだ。心の中など、頭の中など、誰にも治せるものではないのだ。 自分の心でさえ誰にもどうにもできないというのに、他人に何ができるだろう。 いったいどうしたらいいというのか。 何も食べたくない、空腹を感じないなどという感覚は、私には理解できない。私も子供も、年だけを重ねていく。 ただ見守ることにも、限度がある。 私は、子育てに失敗した。 時折、考えてはいけないことを考える。 最近では、ごく頻繁に。 私は、子育てに失敗した。 けれど、それは自分のせいなのか? 配られたカードが、 ジョーカーだったのではないか? 私の子供は一人だけだ。比べる者もいないのにそんなことを言うのはおかしいかもしれないが、飛影は本当に育てにくい子供だった。 周りの子供にも大人にも馴染めず、どこにいても居心地が悪そうに、まるで酸素の薄い高い山の上にでもいるかのように、いつでも息苦しそうにしていた。 なぜ自分がここにいるのかわからないとでもいうように。 なぜ自分が生きていなければならないのか、わからないとでもいうように。 父親こそいなかったが、人並みのことはしてきたつもりだ。金銭面でも、精神面でも。 何を与えても、どこへ連れて行っても、いつも飛影は困ったような顔をしていた。 飛影に何か欲しいとねだられた記憶は、まったくない。子供らしく泣かれたりだだをこねられたりした記憶すら、ほとんどない。 そんな子供が学校というものに馴染めないのはわかりきっていた。 飛影はあっという間に不登校になり、家からも出なくなってしまった。 真新しいまま転がるランドセルは、なぜか不吉なものに見えた。 ふいに、自信に満ちた、綺麗な笑顔を思い出す。 初めて会った時は少年だったが、今はすっかり青年になった、飛影の家庭教師を。 彼は素晴らしい家庭教師だった。 飛影は毎日ではないとはいえ学校に通うようになったし、小学校すらろくに通ってなかったというのに、今では都内でも指折りの有名な進学校の生徒なのだから。 そうだ。飛影を家から引っ張り出し、学校へ行かせてくれた。 それなのに今となっては素直に感謝することはできなかった。 私は彼に、嫉妬している。 まるで…まるで、飛影を取り上げられたような、気分にさせられるから。 …気分? 馬鹿馬鹿しい。気分どころではない。 飛影は、私よりもずっと、あの家庭教師に懐いている。父親代わりというには年が近すぎる。兄、というのが近いのだろうか。 熱っぽい視線を送り、まるで彼を見ることで、彼と過ごすことで、飢えを満たしているかのように。 かつて確かに、私のものだったはずなのに。 もうこの子は、私のものではない。 いったいどうして? いったいいつ? いつ、この子は私の手のひらから、滑り落ちてしまったのだろう。 大人気ない嫉妬から、家庭教師をやめてみたこともあった。会うことも禁じた。 その結果は、単純で恐ろしいものだった。 今でもシャワーを浴びるたび、血に染まったバスルームを思い出す。 水色のタイルの目地を彩る真っ赤なラインは、一生忘れられないだろう。 あれがもし、首吊りや飛び降りという方法だったら? 運良く一命を取り留めるということは、きっとなかっただろう。 素晴らしくハンサムで、頭が良く大人びていて、性格もいいあの家庭教師。 世界は不公平にできている。知ってはいたけど、驚くほどに不公平なのだ。 名を出せば誰もが知る大企業に勤める彼に、そもそも家庭教師など続ける時間も、必要もないはずなのに、彼は自分が大学を卒業してからも家庭教師を続けることを快く引き受けてくれた。 それで飛影が少しでも落ち着くなら、なんでもお手伝いしますよ、と。 二十も年下だというのに、彼は私よりずっと大人だ。 飛影に勉強を教えてくれるだけでなく、土日に連れ出してくれることも、それどころか時折旅行に連れて行ってくれることもあった。 余計なことかもしれませんけど、と、綺麗な顔で遠慮がちに微笑むと、彼は言った。 どこか旅行にでも行ってきては?俺、ここに泊まりに来ますよ。家に泊まりに来てもいいですし。飛影は俺がちゃんと見てますから、安心してください。気晴らしを何か、した方がいいと思うんです、お母さんも。あんまり思いつめると、良くないですよ。 出来の良すぎる、完璧ともいえる気遣い。 そうだ。私はひとりになりたかった。違う。正確に言えば、飛影から離れたかった。 十五年ぶりの旅行はたったの二泊だったけど、友人と過ごす時間は本当に夢のようだった。 そこまでしてもらったというのに。 まるで実の弟のように飛影を可愛がって気にかけてくれる彼に嫉妬するなんて、恩知らずにも程がある。わかってる。 でも、考えずにはいられない。 あの家庭教師に会わせなければ、飛影は今も私のものだったんじゃないかと。そんなことを考えずにはいられない。 能天気に明るい声の看護婦が、会計のための書類をようやく渡してくれる。 お大事に、という言葉に、返事をする気にもなれない。 「飛影、帰りま…」 ピルルルルル、という甲高い電子音が鳴り響く。病院では切っておきなさいと咎める間も無く、飛影は各階の隅にある携帯電話の使用可能スペースに走っていってしまう。 走って。 あの子が私の元に走って来てくれたことなど、あっただろうか? 相手は聞かなくともわかっている。 飛影に電話をしてくる人など、あの家庭教師の彼しかいない。 のろのろと、追いかける。 ガラスの扉に遮られたスペースでは、飛影が電話を握りしめ、何やら話し込んでいる。 白い頬や目元に、興奮のためか薄く色がさす。 電話を切る寸前、飛影は微かに笑った。 私は目を閉じ、大きく息を吸う。 わめいたり怒鳴ったり、しないために。 ドアをバンと開け、腕を強く引く私に、飛影は驚いたような顔をしたが大人しくついて来る。 携帯電話を握りしめたままこちらを見上げる顔は、大きな目ばかりが目立った。 「何か、食べて帰りましょう」 有無を言わさぬ口調で告げる。 無理やりにでも、食べさせるつもりだった。店の中で飛影が吐いてしまったとしても、知ったことじゃない。 人生は全てが配られたカードだ。 キングもクイーンも持たない、されどジョーカーもない。それが大抵の人の人生のはずなのに。 掴んだ手は、私のジョーカーカードは、折れそうに細かった。 ...End. ペドフィリア(小児性愛) 主に11歳〜13歳頃の少年や少女への性的嗜好。現在では一般的に、年齢や性別を区分した「インファノフィリア(幼児性愛)」や「ニンフォフィリア(児童性愛)」なども含む総称として普及している。英語:Pedophilia |