*お好きに召しませ

エメラルドでできた碧の瞳が、いくつかのランプの灯だけの部屋をゆっくりと見渡す。

こちらから声をかけることは禁じられている。
声をかけてもらえることをただただ願って、十三人分の視線が、暗褐色のソファと、そこに座る者に注がれる。

胸が、どくどく脈打つ。
大丈夫だ。自分にそう言い聞かせる。

このところずっと、もう十日以上も、指名されているのは俺だ。
だから、大丈夫。きっと、俺を。

たくさんの彫刻が施された壁の前に立つ、十三人。
名を呼ばれるのは、一日にひとりだけだ。

「…飛影、おいで」

安堵と喜びに、思わず小さく声を漏らす。
怨嗟と憎悪に満ちた十二人分の視線が俺に突き刺さった。だがそれも快感でしかない。

ソファの前に立つと、髪に頬に唇を、いい匂いのする指がすべるように撫でていく。
それだけで、下腹部にぞくぞくと震えが走る。

「お前の瞳は、本当にルビーのようだね」

耳の中に、吹き込むように囁かれる。
背の低い俺は立ったままでも、ソファに座ったままの相手と、顔の位置はそう変わらない。
間近で見つめるエメラルドに、吸い込まれそうだ。

「…蔵馬」

好きだ。
どうしてこんなにこの男のことが好きなのか、わからない。

好きで、好きで、好きで。
この瞳を見るだけで、気が狂いそうになる。

「脱いで、飛影」

長さは足首まである、すとんとかぶるだけの白い服は、胸元と腰の細い紐を解くと、するりと脱ぐことができる。
裸になった俺を、蔵馬は両腕に抱いた。ソファに腰掛けた体をまたぐように座らされる。

裸の背に、選ばれなかった者の視線。
後であいつらにどんな目に遭わされるかはわかっているが、だからといってこの立場を譲ろうなどとは微塵も思わない。

今夜も選ばれたのは俺なのだ。
歓喜に、頬が熱くなる。

蔵馬が、俺の右腕を取る。
動脈に埋め込まれたガラスの管は、すべすべと丸い石で栓がしてある。

テーブルに置かれたグラスを、蔵馬は手にする。
丸い石が弾かれ、ガラスの管からは鮮血があふれ出した。

「……んん」

ごく小さなグラスの半分ほどに、紅色の液体が注がれる。

「ん……く…らま」

かちんと、管に石が戻される。
俺を膝に乗せたまま、蔵馬はグラスをランプの灯に翳す。

「綺麗。いい香り」

蔵馬はうっとりと呟くと、グラスに薄い唇をつける。

優雅で、それでいて貪欲に、グラスを干す。
舐めたわけでもないのに、グラスに一滴の血も、それどころか血の汚れすらも残っていないのは、いつものことながら少し不思議だった。

「ああ…美味しい」

素直な、本当に嬉しそうなその言葉に、俺も嬉しくなってしまう。
名残惜しそうにグラスを置いた蔵馬が言う。

「ねえ。行儀悪いこと、してもいい?」

子供っぽく、ねだるその顔。
俺が頷くのも待たずに、蔵馬は右腕を取り、ガラス管から垂れ、腕を汚した血を舐める。

あたたかい舌が、ねっとりと腕を舐める。
ガラス管に異常に尖った犬歯がぶつかり、かちゃかちゃと音を立てた。

腕から下腹に、ぐうっと熱いものが通る。

我慢、できない。
蔵馬の纏う絹の衣装に、俺は精液をぶちまけた。

「……あ」

黒い絹が、どろりと汚れる。
謝ろうと顔を上げると、笑みを浮かべた蔵馬と目が合った。

「いいよ…許してあげる。そのかわりもう一回ちょうだい?」
「…蔵馬、もうやめておけ」

ソファの後ろの暗がりに、闇に溶け込むようにして立っていた男が、今夜初めての言葉を口にした。
男は大柄で何本もの角が生えている。口をきくところは滅多に見ない。盲だという噂だが、身のこなしからはとてもそうは思えなかった。

「同じ者から採るなと言っているだろう。このところそいつばかりから飲んでいる」
「いいじゃない。もう一回だけ」
「やめておけ。一匹だけから飲むと、廃棄処分が早まるぞ」
「だってこの子、すごーく美味しいんだもの」

甘ったるい声で、蔵馬は言う。

「ね?もう一回だけ」
「…勝手にしろ」

俺に視線を戻した蔵馬が、微笑む。
再び石が外され、グラスが満たされる。

「……うぅ…っ」

体温が下がるかのような寒気とともに、急激に吐き気が込み上げた。
ガラス管に栓をすると、蔵馬は俺を見ることもなく、嬉しそうにグラスに口を付ける。

寒い。気持ちが悪い。
蔵馬にしがみつくこともできず、ずるずるとすべり落ち、俺は床に蹲った。

喜びや期待とは全然別の、鼓動。悪寒。
脂汗が滲み、吐き気とめまいに、胸が早鐘のように打つ。

ランプの炎が揺らぎ、すうっと目の前が暗くなる。
***
「ずいぶんと気に入ったものだな」

頭上の声に目が覚めたが、気分の悪さに目を閉じたままでいた。
どうやらソファに座った蔵馬の膝枕で、眠っていたらしい。絹の布越しに感じる蔵馬の肌は、とても冷たい。

「極上だよ。とろっと甘くて、すごく美味しいんだ」
「それはそれは。だがもうそいつはそろそろ死ぬぞ」

ソファの背によりかかった男が、こともなげに発した言葉の意味が、よくわからない。
誰が、死ぬのだろう?

「死んじゃうかな?」
「ああ。わかっているだろうが」
「嫌だな。こんなに美味しいの、滅多にないのに」

蔵馬の指が、俺の髪を引っ張る。

「なら加減しろ。しばらく他の者から飲め」
「えー?嫌だよ」
「わがままを言うな。三日ずつでもあければ、もう百日くらいは持つだろう」
「はぁぁい」

間延びした返事をし、蔵馬は俺の頬をつまむ。

「あと百日だって。さみしいなあ」

くすくす笑う、声。
ゆっくり瞼を開けると、エメラルドが目に飛び込んできた。

「……蔵馬」
「ああ、起きたね。食事中に気を失うなんて、困った子だね」
「すまない…」

俺を床に下ろすと、蔵馬はさっさと立ち上がる。
先に立った男が開けた扉を抜け、去ろうとする蔵馬に、思わず声をかけた。

「…蔵馬!」
「なあに?」

振り向いた拍子に、絹よりもなめらかな黒髪が、さらさらとすべる。

頭のてっぺんからつま先まで、綺麗で。
この男が、好きで好きで。

ふいに、泣きたくなった。

「……好き…だ。蔵馬」
「知ってるよ」

花が咲くような笑みを残し、扉が閉ざされる。
後を追い、踏み出した途端、猛烈なめまいに座り込んだ。

「蔵馬……」

テーブルに置かれたままの、グラス。
右腕のガラス管から石を外し、グラスを押し当てた。

グラスを満たし、グラスからあふれ、硬い木の床に赤い染みがみるみる広がる。
視界がかすみ、鼓動はもはや胸を破裂させるような勢いだ。

「……ん」

ソファにつかまり、なんとか立ち上がる。
扉までのほんの十歩ほどが、信じられなく長い。
グラスの中身をこぼさぬよう、震える両足を叱りつけ、一歩ずつ、進む。

腕が、体が、熱い。
ふと見下ろせば、栓をしていないガラス管から滴る血が、全身を染めていた。

グラスにはなみなみと、紅色が満ちている。
きっと蔵馬は、喜んでくれる。

指先からグラスがすべり、足下で砕けた。
足先に、あたたかな飛沫。

細かに鋭く割れたグラスの上に、裸のままの体が倒れる。
噴き出す血潮は、熱く甘い。

「…くら……」

きっと蔵馬は喜んでくれるだろう。
体中を染める血を、一滴も余さず、舐めてくれるだろう。

美味しいと、笑ってくれるだろう。

「………くらま」

幸福なため息をついて、俺は目を閉じた。


...End.




ヘマトフェリア(血液性愛)
血液を見ることで性的快感を覚え、血液に対して異常な執着を見せる一種の精神病。一般的な性行為では満足を得られず、血を見なければ満足を得られない状態になると「血液淫虐症(ヘマトディプシア)」と呼ばれる。英語:Hematphiria