*クローゼット

「近くに、隠れ家が…あるんだけど」

なぜか歯切れの悪い言葉に引っ掛かりを感じなくはなかったが、蔵馬はすぐにオレにいつも通りの笑顔を向けた。
だから、オレはそれをさほど気にしなかったのだ。

「なら、そこへ行けばいいだろうが」

二人揃って負傷する、というのは珍しいことだったが、オレの方は久しぶりに手応えのある敵を見つけ…そして始末した…ことに高揚していた。
オレの傷も蔵馬の傷もたいしたことはなかったが、かといって手当てもせずに放っておけば自然に治る、というほど軽くもなかった。

だから、その館を訪れたのは、自然な成り行きだったのだ。
***
すでにいくつかの蔵馬の隠れ家をオレは知ってはいたが、石造りのこの小さな隠れ家は、オレには見覚えのない家だった。

「どうぞ。座って」

寝台を覆っていた布を外し、清潔な白いシーツを蔵馬は指す。

そこからはまあ、楽しい時間のはずもない。オレはさっさと服を脱ぎ捨て、裸になった。
オレの傷と自分の傷とを、蔵馬は冷たい水で綺麗に洗い、器用に縫い合わせ、薬を塗り込み、包帯を巻く。

いつものことながら、役に立つ男だ。
計画立てて動くのも得意で、それでいてとっさの戦闘でもそこそこ使える。傷の手当てもお手の物だ。
盗みをするにも仕事をするにも、便利なやつ。

「はい。いいですよ」

治療の終了を告げる言葉に、知らず知らずのうちに入っていた体の力をオレは抜いた。

「何か、食べます?」

そう尋ねる蔵馬に、オレは何もいらないと首を振った。
闘いの高揚も、この静かな館と薬のにおいにすっかり静まった。今は少し、眠りたかった。

「…お前、いったいいくつ隠れ家があるんだ?」

オレが脱ぎ捨てた汚れた服や、使った薬の空き瓶や何かをまとめて片付けていた蔵馬の背に、オレは聞いてみた。
特に返事が欲しかったわけではない。裸の体には冷たく感じるシーツにもぐり込みながら、なんとなく、聞いただけだったのだが。

「たくさん、あるんですよ」

妖狐は気まぐれだったから。
あちこちにあるんですよ。

「ああそうだ。この隠れ家、あまり手入れしてないんですよ」

この部屋以外、使える部屋なくて。

「…他の部屋、入らないでくださいね」

別に、オレは蔵馬の隠れ家に興味はない。

けれど、なぜ?
今までそんなことを言われたことはなかったのに。

オレの疑問は、顔に出たらしい。

「侵入者用の罠があちこちにあるんですよ」

久しぶりにこの家使うから、どこに何があるんだか思い出せないものもあって。
だから、この部屋以外の部屋には

「入らないで、くださいね」
***
空腹に、目が覚めた。

すっかり明るくなった部屋。
起き上がったベッドの上には、着替え用にと置いていったのであろう、蔵馬の服があった。

「…蔵馬?」

部屋には、オレしかいない。
どこか他の部屋で、蔵馬は寝たのだろうか。

この小さな隠れ家には、他に部屋があるとしてもせいぜい一つか二つだろう。
用意されていた服は妖狐のものとおぼしき服だった。綺麗な模様のつるつるとしたなめらかな手触りの、こんな物には詳しくないオレでさえ高級な物なのだろうとわかる着物だ。
オレには大きすぎたが構わずに着て、裸足のまま廊下に出る。
蔵馬を探して、綺麗な石を敷き詰めた冷たい廊下をひたひたと歩く。

「蔵馬…?」

隠れ家には、結界が貼られている。オレ一人でここに入ることはできないし、無論、出ることもできない。
静まりかえった館にイライラしてきたオレの目に、細く開いた扉が見えた。

「……!?」

何の躊躇いもなく扉を開けた瞬間、オレは昨夜の蔵馬の言葉をようやく思い出した。

ー入らないで、くださいねー

でも、もう遅い。
扉を開けた途端に、飛びかかってくる魔界植物の気配も、ない。

…ただ、嫌なにおいが、した。

「………な…っ」

思わず、部屋の扉から、後ずさった。
部屋には、たくさんの服が、吊るされていた。

たくさん、の…オレの…服……?
***
服は、嫌なにおいを放っている汚れた服は、全て、オレの服だった。

深呼吸をし、おそるおそる、部屋に入る。

たくさんの黒いタンクトップにズボン、コートも一枚だけあった。
どれもこれもボロボロで、大量の汗や血を含んでいる、ただのゴミでしかないものだ。
丁寧にたたまれている細い布が、オレが使った包帯だと気付き、ゾッとする。

乾いた血や泥で、黒ずんだ包帯の山。
汗や血を含んで、ただのボロ布と化した服。

それらがまるで収集品であるかのようにきちんと並べられ、飾られている有り様は、異様だった。

「な…んだこれ…は……ヒッ!」

冷たい手にいきなり腕をつかまれ、驚きのあまり小さく声をあげたオレを見下ろすのは、見慣れた碧の瞳。

役に立つ、便利なやつ。
ただそれだけだと思っていた、その男の目。

「…他の部屋には入っちゃだめだって、言いませんでしたっけ?」

いつも通りの、丁寧でやわらかなその口調が、嫌なにおいのするこの部屋では薄気味悪いだけだった。
オレの腕をつかむ蔵馬の手は、口調とは裏腹に、指の跡が残りそうなほどきつく食い込んでいる。

「…蔵馬!…貴様、この部屋はなんだ!?」
「何って?オレの宝物庫のひとつですけど」
「宝物庫…だと?」

オレの、汗と血。
日の経ったそれはすっかり乾いていたが、窓もないこの部屋に、嫌なにおいを染みつかせている。

「…貴様、何を考え…」

混乱する。
蔵馬の言っていることがわからない。
わけが、わからない。

「これはなんだ!?いったいどういうつもりなんだ!?」

オレが力任せに手を振りほどいた拍子に、かけられていたいくつかの服と、包帯が床に散らばった。

「何とか言え!これはいったいな…」
「貴方の、味がする」

転がった包帯のひとつを拾い、黒ずんだ染みを、蔵馬は舐めた。
ごわごわと乾いていた包帯が、蔵馬の舌先で、濡れていく。

「貴様…頭がおかしいんじゃないのか!?」
「そうですか?」

蔵馬は、笑う。

「おい…!?」
「…せっかく貴方がここに来てくれたんだから、他のも貰おうかな」
「他の!?」

包帯を元通りの場所に戻し、振り向いた蔵馬が、笑う。
まったく正気の、まったくいつも通りの笑みが、そこにある。

「別に、貴方に危害は加えませんよ」

急に部屋の温度が下がった気がして、オレは着物の襟をぎゅっとかきあわせた。
着慣れないつるつるとした布が、手の中ですべる。

「唾液も、精液も、腸液も」

全部、ください。
この服に、こぼしてください。
貴方の液で、汚して。染み込ませて…

「オレに…ください」

熱っぽい囁き。
のしかかられて体勢を崩したオレの上に、蔵馬が覆いかぶさる。

だめだ。この館では、オレの妖力はないに等しい。
オレは馬鹿だ。なんで、なんでこいつを信用して…?

「…蔵馬…っ!!」
「まずは、ここから貰おうかな」
「…ヒァ、あ、やめっ…」

股間に手をのばした蔵馬は、纏った布ごと包むように、力いっぱい握りしめた。

「…アア!や、め…っあああああああ……っ」

石造りの小さな館に響く自分の声。
それを遮るかのように、蔵馬は後ろ手で、扉を閉めた。


...End.




ミソフィリア(汚損性愛)
着用して汚れた衣服や下着、使用済み生理用品などへの性的嗜好。広義には、汗や垢、毛髪のフケなどの塩気を含む汚れへの性的嗜好の総称「ソリロフィリア(英語:Salirophilia)」に含まれる。英語:Mysophilia